別窓で開いています

※ このサイトを始めた頃に書いたもの、です。
 点、の打ち方とかが違うのでなんだか読みにくいかもしれません。しかもさっぱり恋愛ものでもないです。
 短編・非恋愛・非Rですが、それでも暇つぶしにはなるかな、と思われる方はどうぞ読んでやってください、です。






〜 さくらのことば 〜





 雨の降るアスファルトの上にぺたんと落ちていた桜の小枝を見つけて、私はあまり上品とはいえない言葉を思い出した。
 桜切るバカ。
 ……思い出したくなかったのに、思い出してしまった。胸のあたりがモヤモヤする。ヘンな、気持ちになる。
 人通りの少ない、車一台がやっと通れるくらいの道路のまんなかで、なんとなく、桜の枝をまたいじゃいけないような気がして立ち止まったまま呟いた。
「さくら切る、バカ……」
 私はきっと、なんだかヘンな顔をしているに違いなかった。



 春休みだけれど、部活がある。部活が始まるまであと十五分。ここから高校まで走って七分、歩いて十五分。着替えまでを考えると、けっこう気持ちに余裕がない。
 雨降りでただでさえ走りづらい上に、春の強い風のせいで傘が飛ばされそうで、ますます走りづらい。
 立ち止まっている場合じゃないのに、足元で、ポキリと折られた枝の先でふたつみっつ咲いている桜の花は、雨のせいかわりと元気に咲いているなあ、なんて考えた。今にも咲きそうなつぼみが、まだたくさん付いていた。
 拾おうか、どうしようか。
 背負っているリュックに突っ込んでいくわけにはいかない。部活の用具とお弁当箱のあいだで潰れてしまう。走るとさらにぐちゃぐちゃになる。
 手で持っていく?
 それじゃますます走れない。
 手には……持っていけない。
 ……べつに私がこの枝を折ったわけじゃないし。私はべつに、桜を切ったバカじゃないし。と、誰にともなく言い訳をしながら、拾い上げて、進行方向左側に建っていた家の塀の上に置いた。目線よりも、ほんの少し、下。
 帰りにもあったら持って帰ろう。簡単に考えて走り出した。
 あと九分。学校に着くころには、桜の枝のことなんて忘れていた。



 春期第三十九回市民弓道大会(近的の部)まで、残すところ二週間弱。
 その頃にはピカピカの二年生になっていて、後輩ができている予定だった。先輩の人数は減ったから、全員参加の個人戦と、がんばれば団体戦にも出られる。
 午前中の活動を終えて、お弁当を食べる気満々で道場を出て行こうとしたところを顧問の先生に呼び止められた。
「大谷ぃ」
「はい?」
 先生は最近の練習の記録ノートを見ながら渋い顔をしていた。なんとなく、ヤバいな、と思いながら、
「私、団体戦のレギュラー危ないですか?」
「危ないなあ」
「うわ、はっきり言いますね……もうちょっとこう、優しく濁してくれても……」
 抱えた頭を、先生にノートで叩かれた。パコンとちょっと間抜けな音がした。
「おまえがはっきり聞くからはっきり答えてやったんだろ」
「はっきり言われるのは苦手なんですぅ」
「おまえの弱点は心か」
「そんなたいしたもんじゃ……」
「まあ、もうちょっと努力しろや」
「はぁーい」
「よし、弁当食ってこい」
 ノートをひらひらと振って見送ってくれた先生は、団体戦メンバーの発表は来週するからな、と教えてくれた。
 心、とか言われてもよくわからないので、技術でも磨こうか、と思いながら昼食をとった。晴れていたら校庭脇のひなたを陣取ってお弁当を広げるのも悪くなかったけれど、雨はさらさら降り続いていた。道場のそばの教室を借りて昼の休憩を過ごしていた。
 なんとなく、窓の外を見た。
 渡り廊下にはさまれた中庭には砂利が敷かれている。渡り廊下から校庭まではアスファルトが敷かれている。濡れたアスファルトの上を、濡れて重そうになった鉛筆が一本、転がっていった。
 風がまだ強い。そんなことを思うより先に、今朝の桜の枝を思い出した。思い出すまですっかり忘れていたことにも気が付いた。
 この調子だと帰り道も、あの枝を拾っていくことなんて忘れて通り過ぎてしまうかもしれない。
「……まあ、いいけど」
 この風でどこかへ飛んでいってしまったかもしれない。誰かが気付いて、とっくに持っていってしまったかもしれない。とりあえず、そんなふうに簡単に考えてみた、けれど。
 昼休みが終わるまであと五分。私はおもむろに、空になったお弁当箱をリュックから出して、洗った。食器用洗剤もスポンジもなくて、ミートボールのタレとか、きれいにならなかったけれど。
「なにやってんの?」
 友達に聞かれた。
 いつもはわざわざお弁当箱を洗ったりしない。帰ってから台所に置いておくくらいで、家で洗ったこともない。
「んー、ちょっとね」
 とだけ、答えておいた。



 雨の日の部活は、気を遣わないといけないことが多い。
 弓懸(ゆがけ※1)は皮製なので雨に濡らすわけにはいかなくて、矢を取りに行くときにはいちいち外さなければならないし、取りにいった矢は濡れて土だらけで、拭くのにいつもより手間がかかる。
 道場は狭くて順番待ちに時間がかかる。晴れていれば表に槇藁(まきわら※2)を出して練習することができるけれど、この雨ではじっと正座をしたまま自分の順番が回ってくるのを待つしかない。
 技術を磨く技術を磨く、と心の中で呟きながら練習に臨んでみたけれど、道場内では必ず正座で私語厳禁。練習に集中するどころか、足のしびれが気になってしかたなくて、やっぱり桜のことなんて忘れていた。
 思い出したのは帰り道。
 その場所を通り過ぎようとした、まさにそのときだった。
「おお……思い出したじゃん、私」
 桜の枝は、朝、私が置いていったまま、ぽつんと塀の同じところに乗っていた。誰かが持っていこうと触ったあともない。雨で張り付くようにぺったりとしていて、風で飛ばされたりもしていなかった。
 私は相変わらず、折られた枝を見てはなんだかヘンな顔をしていたに違いないのだけれど、飾りっけのないコンクリートのブロックを積んだだけの塀の上で、桜はなにごともないみたいに、枝の先で咲いていたから……。
 それはなんだか、春休みのこんな雨の日でも私は学校に行って部活をしていた、のと同じ、みたいに思えた。
 そうしろと決められたわけじゃないけれど、なんとなく、なるようにしかならない感じ。でもぜんぜん、それがつまらないとかイヤとか思わない感じ。
 こんな雨の日でも、私は学校に行けば部活もできて友達にも会えて、どっちかっていえば楽しくてラッキーで。桜も、折られちゃったけど、まあ、雨のおかげで水分あるし、ラッキーで。
 だけど待てよ?
 今日はラッキーでも一週間後は、結局私は団体戦のメンバーには選ばれなくて打ちのめされているかもしれない。桜は、このままここで雨がやんでしまったら、全部の花が咲き切らないうちに枯れてしまうかもしれない。
「……こりゃいかん」
 団体戦出場権と桜の生死に混乱して、私は慌てて背負っていたリュックを下ろそうとした。
 そんなとき、いつの間にか私のすぐそばに立っていた人がいた。
 私は十五センチくらい、上を見る。その人は十五センチくらい私を見下ろした。
 ばっちりと、目が合った。
「あ……」
 この先の国道の向こうにある高校の、オーソドックスな黒の詰襟の制服姿の彼を、私は知っていた。
 思わず、人差指を差していた。
「あああああ! 桜切るバカ!」



 指を差したのも「桜切るバカ」発言をしたのも私だった。指を差され「桜切るバカ」呼ばわりされた彼は、イヤな顔、というより思いきり状況を把握していない顔をした。
 ……なので、ちょっと確認をしてみた。もしかして君は、ここでうっかり私を見つけて立ち止まったわけではなくて、
「ただの通りすがりの人、だった?」
 聞きながら、ひとりで少し慌てた。私は彼を覚えているけれど、はたして彼も私を覚えているだろうか? なにしろ小中学校と同じだった九年間、一度として同じクラスになったことがない。
 私は君を覚えている。とくに成績優秀でもスポーツ万能でもなくて、なににつけても目立つことのなかった君を、中学校を卒業して以来会ったことのなかった君を、私は、覚えているけれど。
 とくに成績優秀でも〜以下同文な私を、君が覚えているだろうか? 私だったら、覚えていないと思うけど。
 とりあえず君は、
「大谷、だよね?」
 私の名前を呼んだ。
 ただの通りすがりにうっかり私に声をかけられて、あまつさえバカ呼ばわりされてしまったのか、意志を持って立ち止まった際にバカ呼ばわりされたのかは、言ってくれなかったのでわからなかった。
 とりあえず、彼の名前は、天野君、という。
 ……私の名前、知ってた。
 不思議な気持ちと驚いた気持ちで小首を傾げたら傘が傾いて、雨がこぼれて、天野君の靴に直撃した。天野君は特に文句は言わず、見間違いでなければ少し、災難に遭ったような顔をしただけだった。
 私は謝りもせずに天野君を見上げた。すまなそうな顔も、おもしろそうな顔もしなかったと思う。ただ、じっと見上げただけ。
「ここ、天野君の通学路?」
 聞いたら、ほんの少しの間のあと、天野君の傘も傾いた。たぶん私と同じ理由でこぼれた雨は私の傘を流れて、また天野君の靴を濡らした。革靴だよなあ大丈夫かなあ、と思っていたら、
「大谷も、通学路?」
 「も」って、聞かれた。
 ヘンな感じだった。
 だって、はじめてだった。
 面と向かって会話をするのは、本当にはじめてだった。
 天野君が傘をいつまでも傾けているから、いつまでも靴が濡れていて、重なっている下の傘の私が邪魔なんだと思って、一歩、下がった。
「この桜、さあ、私が折ったんじゃないよ」
 とりあえず、肝心だと思えることを伝えた。
 肝心なこと、だったけれど、一歩下がったときに付け加えたように言ったから、少し、言い訳のようになった。
 少し……ではなくて、かなり。
 ほんとうは、天野君が怖くて一歩下がった。いつでも逃げ出せるように準備を……した。
 怖いのは、今、目の前にいる天野君じゃないけれど。
 怖がっているのは、今、ここにいる私じゃないけれど。
 天野君もなんとなく、一歩、下がった。それからやっぱり少し……かなり、言い訳みたいに言った。
「……知ってる」
 二人のまんなかで、相変わらず降っている雨が、壁のようだった。
 本当の壁じゃない。でも、手が濡れるから、わざわざ手を伸ばしたくない。触りたくない。越えていきたくない。そんな感じ。
 だけれど……。
「ほんとうのほんとうに、私じゃないんだからね」
 そんなにムキになることでもないことを、ムキになって言っていた。
 手を伸ばして、天野君の制服を掴んだ。
 傘からはみだした私のグレーのブレザーの袖口が濡れて、ぽつぽつと黒くなった。
 天野君がわかりやすく、びっくりした顔をした。その顔で私を見て、びっくりしたのを落ち着かせるように息を吐いて、まるで神経質に吠え立てる犬をなだめるように、言った。
「だから、知ってるってば」
「ほんとに?」
「朝、小学生の女の子が捨ててくの見てた」
 それで、と付け加えた天野君は、私を見下ろした。
「だから、大谷じゃない」
「うん、私じゃない」
 まっすぐ天野君を見上げた私に、
「……あのときも?」
 天野君が聞いた。だから私は答えた。
 そう「あのとき」も。
「落ちてたから、拾っただけ」
「そ、っか」
「そうなんだよ」
 これは今の話じゃない。ずっと、前の話。
 私はずっと天野君に、こんなふうに言い訳をしたかった。
 天野君はずっと、こんなふうに私の言い分を聞きたかったのかもしれない。
 どうでも……本当にどうでもいいようなことだった。それでも私はずっと覚えていた。
 天野君も、覚えていた。



 小学校三年生になったばかりの日だった。
 この日は始業式だけだったのでランドセルを背負っていなかった。登校時には上履きと、のりやハサミの入ったお道具箱を突っ込んでいた袋を、下校時はからっぽにして振り回して歩いていた。
 桜の咲くのがいつもより遅い年だった。このあたりは毎年始業式の頃にちょうど満開になるのに、まだやっと花が開き始めたところだった。
 昨日、お母さんと買い物に行った帰りに、川沿いに桜祭りの屋台が並んでいるのを見つけた。今日は帰ったらお弁当を持ってゆっくり見に行く約束をしていた。朝そのことをお父さんに言ったらうらやましがったので、お父さんとは週末の夜桜を見に行く約束をした。
 そんな話を、友達としていた。
 最初にそれを見つけたのは、友達だった。
 折った、というよりも、簡単には折れなくてねじ切ったような桜の枝が、かわいたアスファルトの上に落ちていた。その頃の私の腕の長さくらいあった。ひょろひょろとした枝には、まだかたいつぼみがたくさん付いていた。なんとか開きかけた花は、よっつか、いつつ。
 桜にかぎらず、こんなふうに木を折ってこんなふうに捨てていくなんてひどいことするなあ、と今なら思うのだろうけれど、そのときの私は、ただ落ちていたからなんとなく拾ってみただけだった。
 持って帰って花びんにさしたら、残りの花も咲くかな?
 少しだけドキドキしながら拾った。
 咲いたらすごいな。
 ワクワクもしていた。
 友達も欲しがったのでもう半分に折ろうとしたとき、私と友達を追い抜いていった男の子と、目が合った。顔は、見たことがある。でも同じクラスになったことがないから名前は知らない。そういえば始業式のときは隣の列に並んでいた。隣のクラスの男の子。
 目が合ったけど友達じゃなかったし、私は笑いかけたりしなかった。無視して桜の枝を折ろうとした。
 そうしたら、
「桜切るバカ」
 ひとことだけ、言われた。
 睨まれた。
 ぼそっと、言われた。
 からかったとか、覚えた言葉を使ってみたかったとか、そういうのじゃなかった。
 ちゃんと、私を見て言った。
 私に、言ったから。
 怒られたんだと、ちゃんと、わかった。
 私が桜を折るのをやめるのを見て、その子は私から目をそらして、走って行った。
 ……けっきょく、あの桜の枝はどうしたんだっけ?
 折ることができなくなって、ぜんぶ友達にあげた。
 逃げるみたいに走って家に帰って、約束通り花見に行って、お母さんの作ってくれたお弁当を食べているときに、泣いた。
 バカ、って言われた。
 あの子は私がものすごくしちゃいけないことをしたみたいに、そんなこともわかんないのかって言うように、怒っていた。
 ……怒られた。
 ぜんぜん知らない子に。
 ショックだった。
 だって、あの桜の枝は拾っただけだったのに……。

 私だったら……私があの子だったら、あの子みたいに私に怒っただろうか?
 そんな難しいことを考えるようになったのは、もっとずっと後になってからだったけれど。
 いつの間にか、あの子の名前を覚えた。桜を見るたびに思い出した。思い出すといっても、胸がドキドキするような淡い想いを彼に抱いていたわけでも、赤の他人が悪いことをしていたら叱り付けるような人間になったわけでも、なかったけれど。
 今も、覚えてる。
 うん、覚えてるんだよ。



 雨が少し強くなってきた。
 私は、天野君の制服を掴んだまま、
「天野君、そっちから来たなら今も通ってきたかもだけど、この先の公園、桜並木を挟んでスーパーができたでしょ?」
 天野君はなんとなく、道を振り返る。道は大きく曲がっていて、ここからは公園も桜並木も見えない。それでも足元には、雨が降る前に飛んできていた桜の花びらが落ちていて、二人して、見下ろした。
「スーパーを造るのに道を広げなくちゃいけなくて、桜並木の半分は撤去される予定だったの。でも署名運動とかしてなんとか残してもらうことにはなったんだけどね、移植はしなくちゃいけなくて、移植するのに大きな枝はばっさり払われちゃった。もう二年もたつのに、その枝ね、ぜんぜん復活してこないの」
 以前は見事な桜のトンネルができていたのに、今は半分、ないままで。
「桜切るバカって、よく言ったよね」
 戻らないものがある。
 今なら、その言葉の意味がちゃんとわかる。
 天野君は、足元の花びらを見下ろしたまま、
「小学校に入ったばっかのときにさ、そこのスーパーと同じようなことがじーちゃんのとこであったんだ」
「桜?」
「そう」
「今も咲かないままなの?」
「ここ何年も行ってないから知らない、けど」
 傘からはみだしていた私の手は、いつの間にか天野君の傘の中にあった。
 私、天野君のことを掴んだままだった。なんだか突然、この手をどうしたらいいのか考えた。
「……あのとき、さあ」
 顔を上げた天野君と、目が合った。
「おまえ、泣いた?」
 私は腕を慌てて引っ込めた。やった、これで手を離せる、なんてことは考えなかった。本当に慌てただけだった。慌てたのが、天野君の答えになった。
 天野君は続きを言いにくそうに、横を向いた。
「ヤバいと、思ったんだ」
「なにが?」
「だから、喧嘩とかでさ、近所の子とかを泣かそうと思って言ったわけじゃなかったのに泣かしてたら悪いだろ。あのときは名前も知らないやつで、なんかポロって出た言葉で、おまえは泣きそうな顔してて、だから思ったんだよ。あの枝、大谷が折ったとこをおれが見たわけじゃないしなーって」
「私、泣きそうだった?」
「けっこう」
「そりゃ、急に怒られたんだから、びっくりはしてたけど」
「やっぱ、びっくりしたんだ……」
「泣いたのはもっと後だよ」
「泣いてんじゃん、けっきょく」
 天野君は途方に暮れたように、雨の空を見上げてため息を吐いた。
「悪かったってば」
 私のほうを向かないかなと思ったけれど、ちゃんと、私を見た。
「桜見るたびに思い出しては、悪かったなと思ってた」
「あ、私、桜見るたびに、天野のこんちくしょうって思ってた」
「……思ってるし」
「ごめん、思ってない。うそ。胸がもやもやはしたけどべつに天野君のこと悪く思ったりはしてないよ」
「そのわりには人のこと、第一声でバカ呼ばわりし返してるし」
「うっかりだってば」
「うっかり……?」
「天野君は急に怒る怖い人、っていうイメージでここまできちゃったから、なんか、心構えっていうか、次は負けないぞ、っていうか。べつに勝ち負けじゃないんだけどねえ」
 私は塀の上の桜の小枝を手に取った。
「はっきり……あのときもね、はっきり言えばよかったんだよ。私、ずっとそう思ってた。だから、今は言えるときは言おうかな、てね。言われる前に勝っておこうかな、と。自分に。なーんて、そこできっぱり言い返されちゃうと突然負けちゃったりするんだけど」
 雨の重さでくったりしている桜の花は、乾いたらピンとなるだろうか? 残りのつぼみは開くだろうか?
「でも天野君にちゃんと、私じゃないよ、って言えたから、もうこれでね、色々ね、平気な気がする。うん……部活も頑張れる」
「じゃあさ、おれのこと許す?」
「許すもなにも……」
「おれはあれ以来、下手なこと言うのをやめるように気を遣ってた」
「そうなの? そーゆうのをつい正直に言っちゃうのが天野君なんじゃないの?」
「いちいち小学三年生の大谷の泣きそうな顔思い出す身になってみろよ」
 天野君は指折り数えて、
「丸八年も……」
「すごいよねぇ」
「すごくない」
「すごいよ。だって、だったひとことだよ? たったひとことに、普通そんなに踊らされないよ」
 踊らされる? と苦い顔で繰り返して、
「すごくない」
 天野君は頑なに否定した。天野君には悪いと思ったけれど、そんな天野君はおかしかったので私は素直に笑った。
「忘れないことばってさ、ひとつくらいあってもいいのかもね。それでたぶん、これからも忘れないんだよ」
「忘れろよ。てゆーかおまえ、実はおれを許してないだろ」
 鋭い突っ込みに、私はあかんべをした。



 あらためてリュックを下ろそうとしたら、風に傘を持っていかれてふらふらした。見かねた天野君が、私の傘を持ってくれた。
「なにすんの?」
「枝を家に持っていこうと思って。だって、花は枯れて、私は団体戦のメンバー取れないじゃ、踏んだり蹴ったりで悲惨じゃない?」
 天野君は渋い顔をした。わけがわからなかったらしい。
「クラブかなんかの話?」
「うん、弓道部。もうすぐ春の大会があるから練習して、今もその帰り。天野君は? 春休みなのに制服着てるけど」
「おれも部活。吹奏楽」
「ぐるぐる巻いたやつ、まだ吹いてんの?」
「ホルン」
「そう、それ」
「吹いてるよ」
 と言った最後のほうで天野君はぶへっと吹き出して笑った。私はリュックからお弁当箱を出しただけなんだけれど。
「それに入れてくの?」
「そう。手で持っていくのもなんだし、ピッタリかなって思って。ちゃんと洗ったし、ほら、ピッタリ。あ、でもまだミートボールの匂いがする」
 ふたりでお弁当箱の匂いをかいでいる姿は、あとから思い出してもヘンだと思った。
「残りのつぼみ、ちゃんと咲ききるかなあ?」
 私はお弁当箱のふたを閉めながら、
「咲いたら、教えてあげるね」
 天野君はちょっと頷いて、もうどうでもいいことみたいに付け足した。
「きっと咲くから、おれのことも許しとけよ」
「私は許してる気満々なんだけど、というか、だから許すも許さないもないんだけど……」
 私はポンと手を打った。
「私が団体戦のメンバーになれたら、これはもう完璧に許したってことでどう?」
「は?」
「私ね、技術もたいしたことないわりに、心も弱いとか言われちゃってて、でもそれは天野君と桜問題を克服したらきっと克服できると思うから」
 おれのせいかよ、と呟いた天野君は、雨の空を仰いで、崖っぷちに立ったみたいな顔をした。
「……まあ、せいぜい頑張ってくれ」



 それから、五日後。
 桜は陽当たりのいい窓際で、なにごともなかったみたいに、したたかにきれいに全部のつぼみをあっさりと開ききった。
 咲けるところで咲いただけ。
 そんなことをふと思った。
 折られてかわいそうだとか、そんなことを考えるのは人間だけで、桜にとってはどこで咲こうが、咲くことができれば関係ないみたいだった。
「そういうのって、なににも囚われてない感じですごくない?」
 部活の帰りに、また天野君と会った。ふたりで、あの日お弁当箱の匂いをかいだことを思い出して笑いながら、
「それより大谷、団体戦メンバーは?」
 私は一歩、下がった。
「……あのね、花はね、そこにあってそこで咲くだけなんだけど、人はほら、ここにいるだけじゃなくて前に進めるっていうか、未来があるって言うか……まあその、過去もあるんだけど」
「……ダメだったんだな?」
「あ、そんなはっきり言わなくても……」
 さらに一歩下がった私に、天野君は大きなため息を吐いた。
「じゃあまあ、次は、頑張れ」
 天野君は自分で自分の執行猶予を決めるみたいに言って歩き出した。
「次もダメならその次でもいいし。……いや、でもその次ぐらいにはせめて……」
 よく晴れた公園の桜並木の下で。
「次、次は頑張るから大丈夫だって」
 ヘンな顔じゃなくて、今の私は笑っているはずだった。下がった二歩分を、せーの、でぴょんと飛んだ。



〜 おわり 〜


※1 弓懸(弓を射るときに手や指を傷付けないためにはめる皮の手袋)
※2 槇藁(わらを巻き束ねたもの。弓の的などにする)





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