リュウの部屋で、適当に見繕って服を着た。サカエはそこまでしか自分の行動を覚えていない。気付くと川原に立っていた。
川の流れのすぐ脇で膝を抱えて、飽きることがないみたいに、上流から流れてきては遠ざかっていくゴミを見ていたユイの姿を見つけて我に返った。
なんで……。
思ったとたん、顔が熱くなった。紅潮した顔を隠すようにして一歩、下がった。
またユイのところへ来ている。……ユイから逃げたのは自分なのに。
不意にユイが振り返った。その真っ直ぐな目はなにがあっても変わらなくて、サカエはまた逃げ出したくなる。実際に逃げ出そうとした。
逃げ出さなかったのは、ユイが、柔らかく笑ったからだ。
「サカエくん?」
ユイが呼んだのが、リュウではなかったからだ。
「やっぱり、お迎えに来てくれるのはサカエくんだね」
慌ててサカエは自分の姿を確認した。大きな手のひら。大きな靴。
「ぼくが、わかるの?」
ユイはきょとんと首を傾げた。それからなにか難しそうに眉根を寄せて考え込む。でもけっきょく、出てきた言葉は簡単なものだった。
「サカエくんはサカエくんだよ?」
サカエは土手を、足元を確かめるように慎重に下りた。そうしないと、ユイに近付けない気がした。ユイのそばに膝をついて、ユイの肩を抱きしめた。包み込むように抱き締めた。小さな自分では、こんなことはできなかったに違いない。腕の長さが違う。目の高さが違う。
抱きしめた肩の、右のほうが冷たかった。さっきからずっと、濡れたままなのだ。
「……冷たい」
「違うよ、サカエくんは暖かいよ」
なにか勘違いしたまま、ユイはサカエの腕の中でおとなしくしている。しばらくそうしていたユイは、サカエのからだに腕を回した。
「サカエくんは、暖かいよ」
ぎゅっとしがみつかれて、眩暈がした。 サカエは固くつむった目を、ユイの肩に押し付けた。
「海に、行こうか」
「海……?」
「誰にも見つからないところに行こう」
こんな姿では家に帰れない。だったら、ユイの行きたがってた海に行こう。
手を繋いだのは、サカエだったのか、ユイだったのか。
「かくれんぼみたいだね」
並んで歩くと影の長さが同じになった。
サカエはいつもより遠い足元の段差に何度かつまづいた。ずっとこの姿のままだったらどうしようかと思ったとき、
「サカエくん、ずっとそのままだといいね」
サカエはついユイを見上げてしまう。でもそこにはユイの顔はなくて、慌てて視線を下げた。ユイはついサカエを見下ろしたりは、しなかった。
「そうしたらね、サカエくんは、わたしと一緒でも恥ずかしくないね」
「……え?」
「リュウくんがね、そんなこと言ってた」
嬉しそうに笑ったユイは、さっき乗り損ねた海へ行く電車に嬉しそうに乗った。
休日の車内は人が多くて、サカエはなんとなく口を閉ざす。ユイもおとなしくしていた。見た目とは違う。中身は二人ともまだ子供で。一番後ろの車両の隅で、手を繋いで寄り添っていた。
今にも雪が降り出しそうなこんな日に好んで海にやってくる人はいない。
「寒……っ」
身をすくめるサカエの隣で、ユイは珍しそうに足元の砂を蹴っていた。夏は海水浴に来る人々のせいでゴミ溜めのような砂浜も、今は嘘みたいに綺麗だ。
風が強い。ユイは波打ち際に行きたがる。繋いだままの手を引かれて、海水に濡れた砂を踏んだ。
波に濡らされないように気を付けながらしばらく歩いた。たまにユイが波に突っ込んで行こうとする手を引っ張った。……少し引っ張るだけで、ユイを簡単に引き寄せることができた。小さな自分では、こんなことはできない。
眩暈がする。
わけも分からずに幸福で。
いつこのときが終わるのか、不安で。
「寒い?」
ユイがサカエを覗き込んだ。ユイの頬も寒さで真っ白になっていた。
冬の間は閉められている海の家まで走った。建物で少しでも風を避けられればよかったのだけれど、打ち付けてあった板の一枚が外れていて入り込んだ。少しだけ遠くなった波打ち際を眺めながら。
サカエはユイを抱き締めた。背中から、抱き締める。
これは夢なのかもしれないと思った。いつもひとりで見る妄想だ。ユイの感触。体温。それから、声。
「サカエくん?」
背筋をユイの声が這い上がった。ぞっとする。あの、ナイロンの感触。
なにかがサカエを急かした。すっかり自分で馴らしてしまったからだは、どうすればそこにたどり着けるのか、もう、知っている。いつもいつも妄想の中でユイを抱いた。ユイの声で、ユイの中で果てる。妄想でも、それはいつも、たとえ一時でも、幸福だった。
はじめ、記憶の中のユイはリュウの名前を呼んでいた。リュウに抱かれ、リュウを呼んでいた。いつの間にか、サカエの中のユイはサカエを呼ぶようになった。
「サカエく……」
そう、こんなふうに。
うなじに近い首筋に唇を押し付けた。肌の生々しい感触。ユイの体温は想像通りに少し、冷たくて。
我慢ができない。
ユイのコートのボタンをはずした。セーターの中に入れた手が柔らかい感触を確かめた。感触をなぞる。その肌が、びくんと反応した。
「いやあっ」
ユイの悲鳴に、現実を見た。妄想じゃない。現実のユイが、サカエの腕から逃れたくてもがいていた。
サカエは混乱する。ユイはいったいなにから逃げようとしているのか。いつもは小さなサカエの手など簡単に振り払ってリュウの元へいくのに。今は、サカエのほうが力が強くて……。
サカエは慌ててユイを解放していた。
「ユイちゃ……」
「いやあ……やだ……」
泣きながら逃げるユイの姿に、サカエの頭に血が上った。
「兄さんにはおとなしく抱かれてるくせに!」
だからせめて一度くらい自分に抱かせろと、酷いことを言っているのは分かっていた。こんなの、首を絞めながらユイを抱いていたリュウとなにも変わらない。でも。
ユイの肌の感触が手に残っている。ユイに触れた。触れられたユイは、どんな反応をした!?
感じた、くせに。確かに反応したくせに!
はっとしてサカエはユイに詰め寄った。
サカエのからだがいつの間にか快楽を求めて反応するようになったように、ユイもいつの間にかそうなっていたというのだろうか。いつの間にか、リュウに抱かれているうちに……!?
サカエはユイの手を乱暴に掴み上げた。いつもなら目いっぱいの力を出してもそんなことできないはずだったのに、今は簡単にユイを捕まえられる。力にバランスを崩したユイを、そのまま押さえ込んだ。ユイは背中を板張りの桟敷に強かぶつけた。桟敷に敷かれたままのゴザはカビ臭かった。
ユイを押さえつけたサカエは息を飲んだ。
……こんなに簡単だったのか、と、思う。
リュウがユイを力ずくで押さえつけるのは、こんなに簡単だったのだ。
押さえつけたユイを見下ろして、頬に触った。
冷たい。
引力に引かれたみたいにキスをした。どんなふうにしたらいいのかわからなくて、唇を重ねただけだった。額にも、まぶたにも、頬にも。子犬がじゃれるようにキスをした。
ユイの冷たさに夢中になって、耳元にも唇を寄せたとき。
「……リュ……くん」
喉の奥でユイが呟いた。
「リュウ、くんっ」
リュウの名前に弾かれて身を退いたサカエが見たのは、泣いているユイだった。外れた戸板から差し込んだ西日が、わざとらしくユイの表情を照らした。他は、真っ暗なのに。
「リュウくん、リュウくん、リュウくん……!」
リュウの名前しか呼ばない口を手で塞いだ。
入り込んだ海の家の中は真っ暗で。見えるのはユイの泣き顔だけで。
馬乗りに押さえつけたまま手探りでユイの服を剥いだ。胸のふくらみはない。それでも、幼い子供のようでもない。細いウエストを確かめるようになぞって、同じ場所を舐めた。
「ん……っ!」
押さえているのに、ユイは声を漏らした。からだをなぞるたびに、舐めるたびにユイはびくびくと反応した。硬く持ち上がった乳首がサカエを誘った。そっと、触る。ユイのまぶたから涙が溢れた。唇から漏れた熱い息が、サカエの手のひらに触れた。
サカエはユイの吐息に濡れた自分の手のひらを眺めた。
……ユイの、吐息……。
サカエはもう、ユイの口も塞がない。ユイを押さえつけるのもやめる。ユイの上から静かに下りて、静かに、泣いた。