〜 4 〜



 その手を振りほどいたのはユイだった。
 店内のざわめきの奥にリュウがいて、だからユイは手を離した。
 リュウはサカエとユイに気付かない。わざと知らない振りをしているのかもしれない。仲のいい連中といるから、ユイやサカエが入れば邪魔なだけだ。ユイやサカエの面倒を見なければいけないのも面倒くさい。
 ユイはいつも、そんなリュウを見つける。
 サカエは手のひらを握り締めた。ユイの体温で冷たくなった手は、すぐに自分の体温に戻る。
 サカエに振り向いたユイは笑っていたけれど。
 サカエは笑えない。
 サカエとユイの掛けた席からはリュウの姿は見えなかった。バニラのシェイクが満足だったのか空腹が満たされたからか、ユイは食事の間中楽しそうになにかを喋り続けていた。
 サカエは適当に相槌を打ちながらたまに首筋をなでた。なんだか知らないけれど、そこがぴりぴりした。ずっと誰かに見られているような感じだった。振り返って見ても、そこには誰もいないのだけれど。


「ねえねえサカエくん。あっちの電車、どこに行くの?」
 食事を終え、駅のホームに入ったユイは、向かいのホームに止まる電車を小さな子供のように指差した。
「家とは反対に行くんだよ」
「じゃあ、海に行くね」
「……そうだね」
 そんなことばかり覚えている。それから、
「海、行きたい」
 そんなことばかり言う。
「やだよ」
「どうして?」
「家に帰るのに反対方向だって言ってるじゃん」
「……だめ?」
「だめ。だいたい、そんなとこ行って風邪でもひいたらどうすんの」
「そっか」
 相変わらず、簡単に納得する。
 ホームに入ったときにユイから繋いできた手は相変わらず冷たい。
 相変わらず……。
「朝ね、リュウくんにも同じこと言われたんだった」
 ユイの口から出るのはリュウの名前ばかりで、ユイの手の冷たさに苛立った。
 ユイが風邪をひいてなぜリュウが怒るのか。ユイを抱けなくなるからだ。風邪をうつされるのはごめんだからだ。
「やっぱりリュウくんは間違いなことは言わないんだね」
 無邪気に、言う。
 ……無邪気なだけだ。
 ユイは単にそう思っただけで、ほかにはなにも考えていない。
 だけどサカエは……どこかに突き落とされたような気分になった。
 どこに突き落されたのかなんて、そんなの知らない。ただ足元に突然穴が開いたみたいだった。サカエは助けを求めるみたいにユイの手を強く握って、それから、はっとして乱暴に振りほどいた。
 首筋がぴりぴりする。
 逃げるように目の前に到着した電車に乗り込んだ。
 ユイは慌てて着いていく。
「サカエくん?」
 サカエは返事をしない。ユイに見向きもせずに、窓の外の景色だけを見ていた。
(……神サマ……)
 いくつか座席は空いているのに、サカエは扉付近にずっと立っていた。ユイが一生懸命追いかけてくるのは振り返らなくてもわかっていたけれど、駅に着くと、ユイなんて傍にいないみたいにさっさと電車を下りた。
「サカエくん」
 川沿いの土手にさしかかったとき、やっと追いついたユイがサカエの手を掴んだ。サカエはその手を振り払う。振り払った拍子にユイはバランスを崩して土手に滑り落ちた。
 滑り落ちていくのを、サカエはただ見ていた。
 サカエの見ている先で、ユイはすぐに起き上がった。
 サカエは土手を下りていく。……サカエは、サカエが近付いてきてくれたのが嬉しくて笑ったユイを……立ち上がりかけて不安定な姿勢のユイを、表情のないまま土手の上から突き飛ばした。
 ユイは寒さで枯れた草むらに背中から倒れ込んだ。ぱたん、とまるで人形が転んだようだった。
(……神様……)
 首筋がぴりぴりするのが治らない。
(……神サマ……)
「サカエく……」
「ぼくの名前なんて呼びたくないくせに」
 口先で呟いた言葉はユイに届かない。
 ……どうして、届かない?
 思っているだけの気持ちは決してユイには届かない。声にしなければ届かない。
「ぼくの手じゃなくて、どうしていつだって兄さんの手を掴んでないんだよ! そうすれば、いつもぼくがユイちゃんを迎えに行く必要なんてないだろ!?」
 こんな思いをする必要もない。でも。
 違う。そうじゃない。本当はそんなことが言いたいわけじゃない。
 でも、言葉が止まらない。
「そんなに兄さんがいいなら掴んで離さなきゃいいんだ。ぼくがユイちゃんためにぼくの時間を使ってやることはないんだ!」
「……あのね」
 仰向けに倒れて、右手をドブみたいに汚い川に突っ込んだまま、ユイはのんびりとした動きでサカエに見向いた。
「あのね、いつもリュウくんがね……」
 サカエはその場から逃げ出した。それ以上には無理なくらい、おもいっきり走った。
 ユイのあの綺麗な目はリュウを見ている。真っ直ぐなユイの眼差しはユイよりも小さなサカエを見ない。
(……神様……)
 首筋が針で刺されたように痛かった。
 気持ちが悪い。苛々する。
 ユイへの想いが紙切れなら簡単に切り刻んで捨てられるのに。カレンダーのようにはがして捨ててしまえるのに。
(神サマ神サマ神サマ……!)
 いつもお願いしていることがある。
 視線はいつもユイの下にある。だからユイがいつも見ない足元の濁ったものばかりが見えてしまうのなら、ユイよりももっと高い視線をください。汚いものが見えなければ、汚いものに気が付かなければ、ユイのように、自分の見たものや聞いたことだけを奇麗なまま信じていられる。
 だから……。


「痛……っ」
 誰も帰ってきていない家に飛び込むと体の節々がきしむように痛み出して、サカエは体を抱えて玄関に転がり込んだ。
 関節という関節が、油を差し忘れた機械みたいにミシミシいう、そんな音が頭の中に聞こえた。着ていた服が体を締め付けるような気がして、寒さも忘れてセーターを剥ぎ取る。靴も脱ぎ捨てた。
 そんなふうにしてどれくらい時間が経ったのか、体のきしむ音が聞こえなくなって、痛みもなくなって、サカエは痛みを我慢するためにかたくつむっていた目を、開いた。
「……なん、なんだよ」
 首筋の痛みもなくなっていた。
 痛みはなくなったけれど、頭がくらくらする。すぐに起き上がれずにまた玄関に倒れ込んだまま、台所を覗いた。やっとのことで時計を見ると、せいぜい二十分も経っていないようだった。
 喉が渇いてなんとか起き上がる。体がやけに重い気がした。下駄箱の脇に置いてある母専用の姿見に、見知った姿が映った。
「あれ、兄さん?」
 玄関を見返る。誰もいない。もう一度鏡を覗き込んだ。そこに映った姿は、やはり一瞬リュウに見えて、けれどリュウではなかった。
「え……?」
 サカエは驚いて目を見開いた。鏡の中のリュウによく似た人物も目を見開いてサカエを見ている。
 これは……。
「ぼく……?」
 呟きながら鏡に触った手が、鏡の中からも触り返してきた。冷たいだけの感触。
 鏡に映っているのは、確かにサカエだった。リュウと同じほどに成長した、サカエの姿だった。


 神サマにお願いしたのは、ユイよりも高い視線。
 それらしいことを言っても、欲しかったものは結局、単純に、ユイの隣にいて釣り合う姿だった。
 ユイの隣に、普通に、当たり前にいられるリュウが、うらやましかった。


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