〜 3 〜



「サカエくーん」
 学校帰りに呼ばれて見向くと、旧国道のあちら側でユイが手を振っていた。ユイには友人が多い。今日も四、五人の友人たちが、まるでユイを護衛でもしているみたいに集まっている。
 サカエは手を振り続けるユイと周りの友人たちに、ちょっとだけ頭を下げた。


「みんなと一緒に帰ればいいのに」
「どうして?」
 きょとんと聞いてくるユイにサカエは吐息した。旧国道を渡ってきたのはユイだけだった。
「サカエくんと一緒なら安心なんだって。みんなね、サカエくんがしっかりしてるの知ってるんだよ」
「だからって押し付けられても、ぼくが迷惑だよ」
「あ、そっか」
 すとんとユイが頷くのを、サカエは重たいランドセルを背負い直す振りをして無視する。別に、だからってユイが落ち込んだりしているわけじゃない。ただ、言葉そのままをそのままに受け取っただけのことだ。ユイには嘘も他意もない。言葉は額面通りにしか受け取らない。額面通りの言葉しか口から出さない。
「今日も、兄さんと勉強するの?」
「そう、だから帰るところ一緒なんだよ。やっぱりサカエくんに会えてよかったよね」
 ただ素直に、そう思っているだけだ。
「……ちゃんと、前見て歩きなよ」
 商店街を抜けていく。ここはいつだって人通りが多い。サカエに話をすることに夢中になって、ユイはすぐに人にぶつかる。もたもたして自分からどんどん遅れをとっていくユイがもどかしくて、サカエは手を繋いだ。
 ユイの手はいつも冷たい。北風の吹く中、さらに冷たかったのに驚いて離そうとした手を、ユイに掴み返された。
 すれ違っていく買いもの帰りのおばさんたちの目には、二人はただの中学生と小学生の姉弟くらいにしか映らない。
 小学生がサカエで、制服姿のユイが中学生。みんな、外見だけでしか判断しないから。本当はサカエがユイの手を引いていることに、誰も気がつかない。
 誰も、気がつかない。
 サカエの足はしだいに早くなる。


 家の少し手前でリュウに会った。ユイは繋いでいた手を慌てて離してリュウに駆け寄った。
 リュウは特に歩調を変えない。ユイは走るように付いていく。
「なにおまえ、今日も家、来んの?」
「うん、おばさん今日はね、シュークリーム作ってくれるって言ったの」
「うわ、最悪」
 吐き捨てるように言うリュウは実際うんざりしている様子だった。菓子の焼きあがるあの匂いから嫌いなのだ。もともと機嫌がよさそうだったわけではないのが、はっきりと不機嫌になる。不機嫌な目で、舐めるようにユイを見た。
 手っ取り早くユイで憂さ晴らしを決めたようだった。
「……最悪だよ」
 呟いたサカエにリュウが振り返った。
「まったくだよなあ」
 サカエはユイと手を繋いでいてすっかり冷えた手をポケットに突っ込んで、二人の後を家まで付いて歩いた。


 ユイの冷たい手は、リュウの肌に触れる。リュウはきっと、冷たいといって怒るだろう。
 サカエに触れるのは、サカエを慰めるのは、自分の生暖かい体温だけだ。

      ◇

 日曜日の、ちょうど午後一時を回った頃だった。家には誰もいなくて、仕方なくサカエが、電子音でうるさくなり続ける電話に出た。
「はい……」
「サカエくん? あのね、リュウくんは?」
「……………」
 名乗ってくれなくてもわかるので、別にいまさら、突然用件だけ言われたって、どちら様ですか? なんて面倒くさいことを聞いたりはしない。ため息は、出たけれど。
「兄さんなら買いもので、今朝ユイちゃんと一緒だったじゃない」
「迷子になっちゃった」
「いつ」
「ちょっと前」
「ちょっと前にはぐれたところで、もう兄さんが家に戻ってるわけないよ」
「そうなの? じゃあ、もうちょっとしたらまた電話するね」
 真剣にそうしようと思っているユイにサカエは呆れる。
「ユイちゃん、今、どこ?」
「えーっとね、青いビル、のそば」
「青? その隣が大きな靴屋さんで、すぐ前にバス停、ある?」
「うーん、と、あ、ある」
「じゃあ、電話切ったら優しそうな人見つけて、一番近い駅を聞いて、そこで待ってて。ぼく、行くから」
「リュウくんは?」
 悪気もなくリュウの名前を出されて、サカエは受話器を叩き付けようかと思って、思い止まる。ユイより自分のほうがずっと大人なんだから、と自分に言い聞かせる。
「兄さん携帯持たされてないし、はぐれたらもう探すの無理だよ。そんな無理なこと、特にユイちゃんはしなくていいから。兄さんはユイちゃんと違ってちゃんと自分で帰ってこれるんだし」
 リュウならどうせ、いつものようにどこかのゲームセンターにでも入っているのに違いない。ユイを連れ歩いて、かわいいユイにみんなが振り返る優越感を味わう。でも少しの間だ。すぐにユイの面倒を見るのがイヤになる。
「いいね、一番近い駅だよ。駅わかっても、改札入らなくていいからね。とんでもない電車に乗られちゃうよりはその辺にいてくれたほうがましだよ。声かけられても知らない人には口きいちゃ駄目だし、着いていっても駄目だよ」
「うん、わかった」
 本当にわかったのかと眉根を寄せるのは、ユイが信用できないせいか、それともただたんに心配なだけなのか。
 電話を切るとコートをつかんで、サカエは家を出た。


 ユイは一人っ子で、両親は共働きで家にはいつも誰もいない。だからユイはすぐに連絡を取るのに、自分の家より先にサカエの家の電話番号を覚えた。正確には「リュウ君の電話番号」なのだけれど、確率的にはサカエが電話を取ることのほうが多かった。
 いつだってユイはリュウと出かけて迷子になる。リュウはユイと手を繋いで歩かない。ユイはすぐに迷子になる。迎えに行くのはいつもサカエだった。
「ユイちゃん」
 ユイは駅の南口の隅にちょこんと座っていた。
「お昼御飯、ちゃんと食べたの? お腹、すいてない?」
「お腹?」
 ユイはちょっと考えて、
「すいてる」
「食べてないの?」
 呆れた表情しかしないサカエに、ユイはえへへと笑う。サカエは今日何度目かのため息を吐いた。
「マックでいい?」
 ガード下にはめ込んだように造られた店舗を指差した。
「バニラのシェイクあるかな?」
「この寒いのにそんなの欲しいの?」
「だめ? サカエくんはなにが欲しいの?」
「ぼく……コーラ」
「コーラ、も、冷たいよね?」
 なにやらを真剣に悩み出すユイにサカエは吹き出す。
「そうだね。冷たいね」
「だよね。じゃあ、わたしと同じだね」 「そうだね」
「冷たくてもね、お店の中はあったかいから平気だよね?」
「……だね」
 サカエはぼちぼちと店に向かう。その手をユイが掴んだ。驚いて振り返った。驚いたのは、ユイの手がいつもよりずっと冷たかったからか、それともユイに、手を、掴まれたからか。
 ユイはいつものように、なんでもないことのように笑っていた。サカエは少しだけうつむいて、ユイの手をそっと握り返した。


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