〜 1 〜



 寒い中帰ってくると、玄関に中学校指定の運動靴が二足あった。一足は兄ので、もう一足、ずいぶんサイズの小さいのは……。
「ユイちゃん、また来てるの?」
 ランドセルを下ろしながら聞くと、台所仕事をしていた母が振り返った。
「明日からテストなんですって。あ、部屋に行くならついでにこれ、ユイちゃんとリュウに持っていってくれる? その間にサカエのおやつも用意しておくから」
 返事も聞かずに無理矢理渡されたお盆には、二人分のオレンジジュースと、焼き立てのケーキが乗っていた。
 サカエは甘そうなケーキを……いや、甘すぎるほど甘いに決まっているケーキを少し嫌な顔で見下ろした。
「テストの勉強にユイちゃんが来たって、兄さんの邪魔になるだけなんじゃないの?」
「でも、ユイちゃんでも来てくれないとお兄ちゃんお勉強なんてしないじゃない。来てくれたほうがお母さんもおやつ作るの楽しいし……って、なに? サカエ、なに気に入らない顔してるの?」
「そう? そんなことないよ?」
 にこりと笑ってみせると、母は、あらそう? と肩をすくめた。
「お兄ちゃんも、サカエみたいにいい子だったらなんの心配もしなくていいんだけど。せめて春の受験、ユイちゃんがお兄ちゃんと同じ高校受けてくれれば、これからもこうしてたまには一緒にお勉強してくれて安心なのにね」
「兄さんはまだ成績普通だけど、ユイちゃんバカだもん無理だよ」
「そうよねえ」
 サカエはランドセルを重そうに腕に引っかけた。
「おやつ、持っていくね」
 台所を出て、階段の一段目に足をかけたところで振り返る。
「母さん、ぼく、おやついらないから」
「そうなの? 体調でも悪いの?」
 母の声は、聞こえないふりをした。


「兄さん、おやつだって」
 ノックすると、おう、と返事があった。ドアを開けた途端、リュウは思い切り嫌な顔をした。
「母さん、ユイが来るとはりきってケーキ焼くのな」
 甘すぎなんだよ、と文句を言う。かたわらのユイは嬉しそうに笑った。壁際の勉強机に二人は仲良く椅子を寄せている。
「ケーキ大好き。甘くないよ? おばさんのケーキ、いつもおいしいよ?」
「じゃあオレのもやるよ」
「ほんと? ありがとう。二つとも食べちゃうよ?」
「好きなだけ食えば?」
 無邪気に笑うユイにリュウはどうでもいいように言いながら、サカエの抱えるお盆からジュースのグラスだけをとった。
「ユイちゃんの分、下、置いとくから」
 椅子が引っかかってこぼさない程度の距離を見て、そのまま床に置く。ただし、ベッドの脇に置いたのは、わざとだ。
「ありがとう、サカエくん」
 なにに対してわざとかなんて、ユイが気付くわけがない。なにも疑わないユイの満面の笑顔はずっと、いつでも変わらなくて、
「……うん」
 かえって、わざとそうしたことに気付かれたみたいに後ろめたくなって、サカエは少しうつむいた。
「コップとか、いつもみたく後で自分で片付けとくから、勉強の邪魔すんなって母さんに言っといて」
 部屋を出ていくサカエに向かって、
「気が散るから、ドア、ちゃんと閉めてけよ」
 リュウはいつも同じことを言う。
「うん」
 うつむいたまま部屋を出たサカエは、ドアをきちんと閉めた。


 ドアをきちんと閉めてから30分間経つ。
 そろそろかな。サカエがそんなことを思った矢先、隣のリュウの部屋のドアが開く音がした。サカエは机に向かって宿題をやっている振りをする。ほどなくして、サカエの部屋にユイがやってくる。
「サカエくん、あのね、数学、教えて」
 サカエは12才。ユイは15才。
 ユイに顔だけ向けたサカエは、慣れたようにちょっとだけ肩をすくめた。
「いいよ」


「兄さん、寝てるの?」
「うん、寝ちゃった」
 サカエの部屋に椅子は二つなくて、床に座り込んで、広げた教科書とノートを二人して覗き込む。
「兄さん、いつも寝ちゃうんだね。ユイちゃん、来るだけ時間の無駄なんじゃないの?」
「そんなことないよ、サカエくんが教えてくれるもん」
「……あ、そう」
「あのね、わたしね、リュウくんがお勉強してるの見たことないけど、わたしより頭いいんだよ。サカエくんはリュウくんよりいつももっとお勉強してるから、もっと頭いいんだね」
「この程度の問題がわからないユイちゃんが、頭悪すぎるだけなんじゃないの?」
 そう言うことに、別に、罪悪感はなかった。なのに、
「うん、あのね、わたし、知能指数ね、中学三年生じゃないんだって。もっとずっと小さい子なんだよ」
 無邪気に笑って言うユイから、サカエは目をそらした。ユイは人に頭が悪いとかバカとか言われたときに、こんなふうに言うように躾けられていた。ユイは馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返す。
『あのね、わたし、知能指数ね……』
 サカエのそれは、ユイよりずっと、一般平均よりずっと高い。
 そらしたサカエの目線が、ユイのセーラー服のリボンで止まった。
「ユイちゃん、リボン、自分で結んだ?」
「おかしい?」
「……変、だよ」
 まるでリボンの品評会でもどこかで開いてるみたいに、サカエが通学路ですれ違う中学生の女子たちはいつでもリボンを大きく綺麗に結んでいた。自分で結ぶとたて結びになってしまうのなんて、ユイだけだ。
 さっきおやつを届けに行ったときは、ユイの母親が朝、結んだまま綺麗だったはずだ。それがいつほどけて、いつ結び直したのか、なんて……。
「結び直してあげるよ」
 サカエはユイの赤いリボンを引っ張った。ナイロンのスカーフはするりとほどける。少し、しわが残ってる。
「ねえ、ユイちゃんさあ」
「なあに?」
「お盆……に置いといたジュース、こぼさなかった?」
 わざと、あの場所に置いたお盆。ちょうど机と、ベッドの間。
「うん、あのね、ごめんね。少し、こぼしちゃった」
「それってさ……」
 言いかけて、飲み込んだ。
「なに?」
「ううん、なんでもないよ」
 綺麗に結び直されたリボンに、ユイは嬉しそうに笑った。
 勉強の続きを始める。数字が並ぶ意味をユイに教えながら、
『それってさ……』
 さっき言いかけた言葉を、サカエは行き場がなくてそうするしかないみたいに心の中で呟いた。
『それってさ、兄さんが、ユイちゃんのリボン、ほどいたとき?』
 きちんと閉めたドアの向こうで二人が勉強じゃないなにをしているのかなんて、そんなこと、ずっと前から知っていた。


2へ