〜 番外編5 〜




 リュウは壁際に座り込んだまま頭を抱えた。
 ……勘弁してくれ。
「……マジかよ、なんでこのバカ女なんだよ」
「リュウくん?」
「近寄んな」
「どうして泣くの?」
「……うるせー」
 うっとうしそうに口にしたのと同じ口で、やっぱあいつ頭いーんじゃん、と呟いた。
「あー、おまえがバカでよかったー」
 バカで、リュウの気持ちになんて気がつかなくて。
 バカで、だから。
 リュウが気付くことのなかった気持ちは、リュウが気付かなければどこにもなくて。誰にも見えなくて。
 リュウが目を閉じていた暗い場所にあったそれに、サカエは気が付いたけれど、闇を見ないユイには、見えない。ユイが明るい場所に見つけたのは、サカエだけだ。リュウじゃ、ない。
「自覚して、死にたくなるほど後悔しなよ……ってか」
 自分の気持ちを自覚して、そうして今までユイにしてきたことを後悔しろと、そういう意味だったのだろうか。
 それとも、もうユイは手に入らないと、そう自覚しろと、いうことだったのか。
 どっちでもいい。
 ……どっちでもいい。
 今さら、手に、入らない。
 それでも。
「あ、サカエくん、帰ってきたみたいだよ」
 ユイはぱたぱたとサカエを出迎えに行く。リュウに背を向ける。
 それでも。
 今までそうだったように、これからも、あのバカな天使は傍にいる。サカエと一緒にいて、別に、どこにも行ったりはしない。
 ……天使……?
 リュウは、ぶへ、と笑った。
 笑えるくらいには、どうしてだろう、今まで苛ついていたのがウソみたいに、すとん、と、心が、軽くなっていた。
 カミサマがなにか助けてくれたのだろうか。……なんて、そんな都合のいいことあるわけもない。
 それでも。
 まあ、いいや。と、思った。
 もう、いらいない。ユイなんかいらない。
 抱かない。触らない。そんなのもう、どうでもいい。
 戻って来たサカエと目が合う。サカエはなにも言わなかった。泣くリュウを、慰めないし、馬鹿にも、しなかった。

      ◇

 相変わらず北風の吹く児童公園の砂場で。
 ぽかん、とサカエはリュウを見上げた。サカエにしては間抜けな表情だったけれど、リュウは気にせず腰を下ろした。組んだ膝の上に肘をついて砂場に目をやる。ぽかんとしたままのサカエに、
「なんだよ、続けろよ」
「一応、勉強、なんだけど」
「見りゃわかるっての」
 砂場には大きく書かれた英単語が並んでいた。ちなみにリュウにはその単語の意味がわからない。うーんとうなっていたユイが記憶の中から単語の意味を探し出す。
「あ、当たり」
 サカエが言うと、リュウはふてくされてカバンから辞書を出して引く。……リュウが、辞書なんかを持ち歩いているから。これ以上驚きようがないくらいに驚いたサカエに、リュウはこの寒さの中、顔を赤くして喚いた。
「なんだよ、やりゃあいいんだろ、ベンキョーすりゃあいいんだろ、同じガッコ受けて、受かりゃいいんだろ!?」
「……ユイちゃんと?」
「他に誰がいるんだよ。毎朝迎え行ってやって、電車の切符の世話してやって、降りる駅まで教えてやんなきゃなんねー人間が他にどこにいるんだよ。いねーだろ、ふざけんな」
 ちくしょう、寒ぃーなー! とついでに喚く。家でやろうぜ、という案は却下された。ここでこうしてやるのが一番ユイの頭に入るらしい。
「つーか入ってんの? マジで? その足りない頭に?」
 入ってるよ、とサカエは言った。ただ、理解しているわけじゃないけどね、とも。
 それでもユイの成績は上がった。リュウの成績も上がるはずだった。
「いいんだよ、理解なんかしなくても。高校入って、出れさえすれば。知ってる、くだらないことだよ。学歴なんてぼくは別にどうでもいいけど、……高校、行っててくれれば、その間にぼくも大人になれる。あと三年もあればなんでもできる」
 これはもう少し先に、サカエが言う言葉だった。リュウは、あっそう、と返すだけだ。
「そんで、とりあえず手っ取り早く頑張って百点、取りまくってるわけ?」
「ユイちゃんにばっか勉強させるわけにいかないだろ」
「……あ、っそ」
 三年後、やっと高校生になるかならないかのサカエになにが出来るのか、リュウの想像の範囲にはない。そんな先のことなど、なにも想像できない。でも、サカエの中には確固たるなにかがあるようだった。多分、その通りに時間を使っていくのだろう。きちんと、自分の立てるプランの通りにユイと歩いていくのだろう。
「おふくろがさ、高校受かったらケイタイ買ってくれるってよ」
「ほんと? よかったね、兄さん欲しがってたし」
「ユイとおまえにも」
「え、ほんとうに?」
「なんか家族割がきくとかってさ」
「ユイちゃんにもきくの? 名前違うのに?」
「知らねー。てきとーでいんじゃねーの?」
「ぼく別にいらないけど……あ、ぼくも持ってれば、また適当なとこでユイちゃん置き去りにしてもいいや、とか兄さん思ってるでしょ」
「おまえ、喜んで行きゃあいーじゃん」
「……兄さんてさあ、そういう人だよね……」
「おまえだって、そーゆーヤツじゃん」
「どういう?」
「計算通りなんだろ」
「なにが?」
「とぼけんな。オレが今こんなとこでこんなことしてんの、……こんなのは計算通りなんだろ」
 ユイはひとりで高校へは通えないと、リュウはなにも考えていないサカエを、テンサイでも視線の低い世間知らずのガキなのだと思ったけれど。なんのことはない、そんなことサカエが考えていなかったわけがない。じゃあどうするのか。誰が適任者なのか。
 リュウしかない。
 ……リュウしか、いないではないか。
 どうすればリュウが折れるのか。ユイのために、ユイと同じ高校へ行く気になるのか。
 お願いしたって、きくわけがない。
 じゃあ、お願いを、しなければいい。
 サカエはユイを見て、小さく笑った。
「計算なんかしてないよね」
 サカエが笑うのでユイも笑う。
「ねー」
「ウソつけ。計算通りっつー顔しやがって」
「嘘もついてないし、そんな顔もしてないってば」
 とサカエは言い張る。
「あ、でも、知ってたけどね」
「なにを?」
 真っ直ぐに聞かれて、サカエは、ぷ、と吹きだした。その隣でユイはまじめな顔をして、
「あのね、リュウくんはね、『お兄ちゃん』だからって、サカエくんがね、そう言うんだよ?」
「……なんだそりゃ」
「ねえ、リュウくんはもともちゃんとお兄ちゃんだよねえ?」
「おまえがお兄ちゃんてゆーな」
「なんで? あ、わたしのが誕生日早いよね。わたし、おねーちゃん?」
「ふざけんな、てめぇっ」
 リュウが怒鳴ると、珍しくサカエが声を上げて笑った。
 どうしてリュウが怒鳴るのか。どうしてサカエが笑うのか。なんだかよくわからずにユイはきょとんとする。それからふわりと破顔した。
 リュウも、笑っていた。
 どうやらそんなふうに、これからの時間は過ぎていくようだった。


 あわただしく冬が過ぎていく。雪を見て、梅が咲いて、桜が、咲く。
 高校の制服はブレザーだった。一年生のネクタイは臙脂色だった。
 桜の花びらが落ちる校庭で、ユイに声をかける男子生徒を、リュウは犬にでもするように片手で追い払う。
「触んな。こいつに近寄んな。そりゃ弟のだ」
 弟、と聞いて男子生徒は怪訝な顔をした。
 校門でユイを待っていたサカエがひょいと顔を出す。
 ユイが無邪気に笑って駆け出すと、男子生徒はすごすごと退散して行った。
 真新しい、中学の制服はサカエに、高校の制服はリュウに、ユイに、よく、似合っていた。



〜 おわり〜