ユイを抱くことは、自慰の代わりでしかなかった。
ユイとするのも自慰も変わりはしなかった。
相手の気持ちを考えずに、自分の欲望だけを放つのは、それは、誰かを抱いているということにはならない。
相手の体温を肌に感じて漏らす喘ぎに嫌悪を感じるのは、相手を見ていないから。ひとりでやっているのだから、邪魔をするなと、そう思うから。
リュウは、マスターベーションをするようにユイを抱くのではなくて、ただ、マスターベーションをしているだけだった。
その、つもりだった。
横目で眺めた公園には、ユイの姿もサカエの姿もなかった。家に帰りつくといつものようにドアチャイムを押す。母親は出てこない。自分の鍵を出そうとしたとき、家の中から物音が聞こえた。
玄関の鍵は開いていて、リュウは、無用心じゃねーか、と呟く。……呟こうと、したとき。再び物音が聞こえた。
「おふくろ?」
のぞいた台所には誰もいない。居間をのぞくと、そこにはユイと、男が、ひとり。
「どちらさんっすか」
低い声で聞いた。もちろん、ユイにではない。その、男に。
リュウは荷物を持ち直した。
土足で上がりこむ人間の知り合いはいない。
怯えたユイの表情が目に付いた。
「……ち」
基本的に、ユイがこういった表情を向ける人間を、ユイを知っている人間なら信用しない。リュウも、だ。だけれど舌打ちしたのは、この事態にではなかった。
苛々するのだ。
邪魔をするな。
ユイを抱きたい。
これ以上イライラさせるな!
ユイは部屋の隅で、それ以上逃げ場がないことにも怯えてからだを小さくしていた。その手前に、男。そうして部屋の入り口に、リュウ。
「おっさん、前にもウチに入ったドロボウ?」
体格的には誰が見てもリュウは男には適わない。リュウもそんなことはわかっていた。おとなしくしていて、適当なものを持って出て行ってもらうのが利口だ。多分、こちらが騒がなければ向こうもなにもしない。なにもしない、とは、思うけれど。でも、それよりも、もっと……。
利口な手口など選んでいられないほど、リュウは凶暴な気分だった。心の思うことに歯止めがきかない。ユイしか見えない。その邪魔をするのは誰だ?
「やだ……やだ……っ」
怯えるユイに男が近付いて、うるさい、とその手を掴み上げた。
頭に血が上った。見境がつかなくなった。
「触んな!」
リュウはリュックを投げつけるのと同時に男に飛びかかっていた。
なにを持っていかれてもいい。家の中のなにを壊されてもいい。
でも、人の家に入り込んでなにかを持っていったりするようなヤツが、
「おまえなんかが触ってんじゃねーよ」
今から抱こうと思っていたユイに。
「きたねーんだよ!」
トイレの壁よりは蹴りガイがあった。うんともすんとも言わない壁と違って呻き声で反応されるのは愉快だった。途中、抵抗する男に頬を引っかかれたけれど、それだけで。
男が気を失っても蹴るのをやめない。トイレの壁だったら、べりべりになってやがて蹴るところもなくなっただろうけれど。なくならないから。
「リュウくん……っ」
ユイの声は聞こえなかった。
ひたすら男を蹴り付けた。そうしているとユイのことなんてどうでもいいような気になった。
きっと、なにかを征服することで満たされるのだ。ユイでも、この男でも。
……こんなことでしか、満たされない。
こんなものが欲しいわけじゃないのに。
蹴飛ばすたびにどこかがすっきりして、同じだけ、どこかに鈍いなにかが蓄積されていく。鈍いなにかが、ぎしぎしと、いっぱいに、隙間を詰めていく。どこもかしこも詰まっていって、余裕がなくなって、だから、いらいらする。歯軋りしても治まらない。
こんなものが、欲しいわけじゃない。
でも、なにが欲しいのかわからない。
わからないから、こんなもの、で、我慢するしかない。
相手の痛みで、相手の苦痛で。そんなもので満足をする自分で。
そんな、もので……。
いままでも、これからも。
これからも、ずっと……?
「兄さん、兄さん!」
力ずくで背中から抱きつかれたのに振り返ると、ランドセルを背負ったままのサカエだった。
見れば、ユイは、今はリュウに怯えていた。サカエもそんな顔をしている。帰宅をすると玄関は開いていた。慌てて見てみれば、リュウは見知らぬ男を蹴りつけていた。
サカエは動きを止めたリュウの背にしがみついたまま、
「それ、誰?」
リュウはサカエの指先をたどって、自分の足元をあらためて見下ろした。男が、白目をむいて転がっている。
サカエの心配そうな顔を見ながら、誰だっけ? と一瞬考える。
誰、だっけ?
便所の壁だろ、と言いそうになったのを飲み込んだ。違う。それは学校だった。学校で、トイレの壁を蹴飛ばしていたあたりまでははっきりするのだけれど……。
「リュウくん?」
心配そうなユイの、声に。……ドロボウじゃん、と誰にともなく呟いた。
「……リュウ、くん?」
ユイの、声。
「……ユイ?」
呼ぶと、ユイはキョトンとする。傾げてあらわになった首筋に触ろうとしたら、サカエがユイを守るように間に入ってきた。
……まだ凶暴な顔をしたままのリュウから庇って、サカエが、ユイの前に立つから。
リュウは、ユイに触れなかった自分の手を、見る。
ユイの細い手も、からだも、声も……。
「おまわり……呼んでくらあ」
頭の中の、どこかの冷静な部分が勝手に判断したみたいに言った。
「その男、ガムテープかなんかでぐるぐるにしとけ」
目は、まだ、自分の手を見ている。
……欲しかったものは?
……掴みたかった、ものは?
……別に、そんなものない。男を蹴飛ばして、すっきりした。
「兄さん?」
兄さんこそ大丈夫なの? と言いたげなサカエの声に振り向く。
振り向いたリュウに、どうしてだろう、サカエは驚いた顔をした。
「気が、ついたの?」
「……なににだよ」
「…………気が、ついてないなら、別にいいけど」
言いながらも、別にいい、なんて表情ではなかった。すがるようにリュウを見て、吸い込んだ息を吐き出すことが、たかがそんなことが痛くてたまらないような、そんな顔をした。もうなにも言いたくない、と口を閉じるのに、やっぱり痛くて、泣きそうな顔をして、ユイを見た後で、リュウを見上げて、ごめん、と口にした。
「……は?」
なにを謝られたのかリュウにはわからない。サカエには、わかっている。
「兄さん、そうやってずっと、わからないままでいるつもりなの? 気が、つかないままでいるつもりなの? ぼくは、気が付かないでくれた方がよかったんだけどね。だから、黙ってるんだけど、ね」
「……なにをだよ」
「……言いたくない」
拗ねたように、サカエはぷいと横を向く。
「はあ?」
なんだかわけがわからない。ので、リュウはおまわりを呼びに行くことにする。すぐそこの角に交番がある。電話をするより早い。
そんなリュウに、サカエは自分のランドセルを押し付けた。
「おまわりさん、ぼくが呼んでくるよ」
「……なんで?」
リュウはチラリとユイを見た。サカエがいなくなればリュウはユイとふたりきりになる。
「いーよ。オレが行く」
ユイとふたりなんてまっぴらごめんだった。サカエだってそう思っているに違いないはずだった。
「兄さんが行っちゃって、もしその人、目が覚めたら、ぼくじゃ相手にならないんだけど」
「覚めねーよ」
「覚めないなら覚めないで、その過剰防衛の言い訳、兄さんできるの?」
「あー?」
男はあばらの一本でも折れていそうな様子だ。
「ぼくなら上手く出来るよ。だから、兄さんはユイちゃんと一緒にいなよ」
サカエは不本意な顔をした。
そりゃそうだろう、とリュウは思う。
自分ではユイを守れない。そりゃそうだ。でも、それは、今、ユイとリュウをふたりにさせることと天秤にかけても傾くことだろうか。多分、傾いていない。ふたりにさせるなんて冗談じゃないはずだ。
それでも。
「一緒に、いてみなよ」
リュウは、自分の手を見る。……触らない保証が、出来るだろうか。
「おまえ、ユイに触んなつったじゃん」
「触る気があるの?」
「……………」
沈黙が、答えになる。
サカエは呆れたように息を吐き出した。わざと、そんなふうに表情を作ったようだった。
呆れたように。リュウを、軽蔑したように。
「触ったら、自覚するだけだよ」
「自覚ぅ?」
「そんな顔、してるじゃない。触らないに越したことないし、もし触るなら……触って、自覚すればいいよ。自覚して、死にたくなるほど後悔しなよ」
「おまえ、なに言ってんの?」
「兄さんこそなに言ってんの? なにぼくにオウカガイとかたててんの? 前は勝手にやってたくせに。今、そうやってためらうのは、それって、もう自覚してるからじゃないの? してないの? するのが、怖いの? だから目をそらしてんの? なんでまだ自覚してないの!?」
あんなに必死になってユイに触るなと言っていたサカエは、今も、なにかに必死だった。
なにに? 知らない。
「……自覚するもしないも兄さんの勝手だけど。ユイちゃんに酷いことしたら、許さないよ」
そうしてサカエはそのまま背中を向けると、今帰ってきたばかりの玄関を出て行く。
リュウはユイを見て、息を飲み込んだ。
リュウは、白目をむいたままの男を見ていた。別にこんな男なんか見ていたいわけじゃない。ただ、ユイを見たくないだけだった。
男に近付いて、つま先でわき腹を押してやった。目は覚めない。もっと、強く押す。ごろんと、転がる。うつ伏せになった背中を踏み付けた。蹴飛ばした。力なくそこにあるだけの腕を、蹴り上げた。みしり、と、イヤな音がどこかでした。
「リュウくんっ」
「なんだよ」
「痛い、よ?」
ユイが、泣きそうな顔をするから。
……泣くわけはない。そういえばあまり、ユイが泣くのを見たことがない。
いや、泣いていた。いつだった?
ああ……初めて、抱いたあのときだ。
あのとき、だけだ。
思い出しただけでからだが震えた。からだの奥が、ユイを欲しがる。
手の平を、握り締めた。
「……じゃー、ガムテープとかビニールテープとか、持って来いよ。縛っときゃいーんだろ」
リュウはユイを見ない。見ないリュウに気がついているのかいないのか、ユイは、持って来たガムテープを正面から差し出してきた。
ユイを、正面から見た。
真っ黒な、細い髪とか。白い肌、とか。そんなのを気に入って、抱いていた。
差し出すガムテープを引っ手繰る。
触れた指先、とか。
その滑らかな感触、とか。体温、とか。
(触って、自覚すればいいよ)
ごとん、と、あまり使われていない大きなままのガムテープが足元に落ちた。
ユイが慌てて拾い上げようとする。
からだをかがめて、揺れた髪の間に見えた細い首筋、とか。
(自覚して、死にたくなるほど後悔しなよ)
「なにをだよ!」
頭に残るサカエの声に怒鳴りつけて、ユイの髪を、掴んだ。強く、引っ張る。ユイはバランスを崩してぺたんと座り込んだ。
見えたひざ、とか。
そのひざに、触った。その瞬間、なにか、はじけた。足を触るのにスカートを捲り上げ、ユイを床に押し倒した。
そうするだけで、触っただけで、イきそうになる。息が、詰まる。
手が震えた。
(自覚すればいいよ)
手が、震えた。
なにをされようとしているのか知っていて、それでも、相変わらず、いつものように抵抗しないユイは、リュウを見ている。
(触って、自覚すればいいよ)
あるかないかわからない程度の胸を、制服の上からわしづかみにした。ユイは痛がるだけで、ほんの少しそんな表情をしただけで、声には出さない。そんなユイに、触った、から。
胃の裏側がひっくり返るような音を立てた。どくん、と、心臓が悲鳴を上げた。
「……ユイ」
欲情にかすれた声は、確かに、自分のものだった。
(自覚して、死にたくなるほど後悔しなよ)
ユイが、欲しい。
ユイが欲しい。ユイしかいらない。ユイしか、抱きたくない。ユイにしか、感じない……。
そう、自覚する。
リュウは組み敷いたユイを見下ろしたまま、音を立てて息を飲み込んだ。
この異常な感情の意味を……。
「……あ…………っ」
込み上がってきたものに思わず喘いだ。どくん、と胸の中のどこかが音を上げる。絶頂を迎えるアノ瞬間に似ていた。抵抗できなくて、早く、その瞬間を迎えたくて。じらせば、気が、狂いそうになる。
「あ、あ……」
「リュウ、くん?」
ユイが伸ばしてきた手から、悲鳴を上げて飛び退いた。
背中を壁に強かぶつけた。でも、痛いのはそんなことではなくて。
気が、狂う。
……カミサマ。
初めて、心の中でその名前を呼んでいた。助けを、求めた。
わけもわからず苦しくて、涙が溢れた。
……都合がいいからユイだけを抱いていたんじゃない。都合のいいユイがいるから、他の女なんてどうでもよかったわけじゃ、ない。
他の女なんていらない。
ユイしかいらない。
初めから、ユイしか、いらなかったのだ。
ユイだけが欲しい、その理由を。
肯定できなくて。否定したくて。
でももう、限界で。
悲鳴を上げる。
ユイしか、いらない。
……その気持ちを、なんと呼ぶ?
その気持ちに気が付いて。
ユイが欲しいと、誰にオネガイすればいい?