〜 番外編2 〜




 何日か前に行った実力テストの結果が戻ってきた日の、放課後のことだった。リュウは担任に呼び出されて職員室にいた。隣にはなぜかユイがいる。
「リュウ、おまえはやる気があるのか?」
 と、いつものように小言を始めると思っていた数学担当の担任は、大きなため息をついただけで特になにも言わないまま、リュウとユイの成績表を並べた。
 実は、リュウの成績はそれほど悪くはない。悪くはないが、やる気がなくてこの点を取れるのなら、やる気を出せばもっとできるはずだ、と担任は小言を言う。相変わらずやる気のないリュウの成績は相変わらずだ。
 そのリュウにしてみれば相変わらずな成績に、今回はユイが並んでいた。
「はぁ!?」
 リュウはユイの成績表を引っ掴んでまじと見つめた。
「なんだこりゃ!?」
 職員室中に響いた大声にユイはきょとんとしたままで。きょとんとした顔が気に入らずにリュウは肘でユイを小突いた。
「なに、おまえ、これマグレ? ってゆーか、マグレでなんでこんなん取れんの!?」
「先生はな、おまえがユイにカンニングでもさせてやってんのかと疑ったんだけどなあ」
 まだ若いながらも高校受験を控えた三年生のクラスを受け持っている担任は、生徒たちを気さくに名前で呼んだ。
 まあそれなりにリュウがユイの面倒を見ているのは誰でも知っていた。朝はきちんとユイを連れて登校してくるし、クラスでグループ分けをするときもリュウは当たり前のようにユイを自分のグループの頭数に入れていた。リュウがユイに怒鳴り散らすのは誰にでも見慣れた光景だったけれど、ユイはいつでも、怒られている原因もわからない顔でキョトンとしている。リュウが苛付くのもわかるし、かといって手が出ているところは見たことがないし、幼馴染の面倒見がいい、と大抵の生徒からは好意的に見られていた。リュウが見えないところでユイになにをしているのか知っているのはごく限られた友人だけだ。
「ユイのがおまえより総合得点が上なんだよなあ」
 生徒の点がいいのが困ったように担任は腕を組んだ。
 リュウにだってわけがわからない。
 マークシート方式のテストなので運がよければ運のいい点数も取れるかもしれないが。それにしても今までリュウの半分の点数も取っていなかったユイに、まさか抜かれるとはなにごとか。
 ユイの総合得点はリュウより7点多かった。順位ではリュウよりも五人分前にいることになる。
「おまえ、なにしたんだよ」
 リュウではない誰かの答案をカンニングしたのだとは、リュウも思っていない。担任も思っていない。ユイはそんなことは考えない。ユイがそんなことをするのだとは、誰も、考えない。
 ユイは、リュウに聞かれたので答える、という感じで開きかけた口を、閉じた。ぎゅっと閉じて、内緒、と言いたげに首を横に振る。
「……ふざけんな、てめぇ」
 リュウは成績表を机に叩きつけ、担任はリュウを宥める。ふたりの間で、ユイは、
「あ」
 となにかを思い出した。
「あのね、先生。わたし、この点数だったら高校に入れる?」
「はあああ!?」
 リュウの大声に驚いて、ユイはぺたんとしりもちをついた。短いスカートがギリギリまでまくれて、あらわになった太ももに、近くにいた女性教師が慌てて手を貸した。
 ユイはまだリュウの大声に驚いていて、これもまた内緒だったことを、つい口にしてしまった。
「だってサカエくんがね、聞いておいでって、言ったんだよ」
「……サカエって誰?」
 眉根を寄せ困惑気味で聞いた担任に、リュウも同じ表情で答えた。
「オレの弟……」


「おまえさあ、なにやってんの?」
 最近いつもそうであるように、今日も辺りが暗くなり始めた頃に帰って来たサカエを、リュウは玄関先で待っていた。手やら足やら砂だらけのサカエは玄関に座り込んで、脱いだスニーカーの砂を出すのにひっくり返しながら、
「なにって、なにが?」
「トボけんな。ユイにくだんねーこと吹き込んでんじゃねーよ」
「……高校のこと?」
「そー」
「別に、くだらなくないじゃん」
「おまえのレベルで押し付けんな」
「ぼくのレベルって?」
「おまえ、最近のテスト、百点しか取ってないらしーじゃん」
「ああ……うん」
 そんなのなんでもないことだよ、という返事ではなかった。
「先生とかさ、気味悪がるんだ。イヤな感じだよね。ぼくだって、努力もしないで取ってるわけじゃないんだけどさ」
「まあ、そりゃそーだろ」
 言葉の通りの表情をしたリュウに、靴下まで脱いだサカエはやっと玄関に上がって、おもしろいテレビ番組でも見たように笑った。
「兄さん、母さんと同じこと言うんだね」
 サカエは奥の脱衣所にある洗濯機に靴下を投げ込んで、戻って来た台所で手を洗う。
「兄さんも、父さんみたいに興味ないのかなって思った」
「おまえが百点取ろうがテンサイだろうがオレにはカンケーないし」
「天才とかじゃないよ。でもユイちゃんの勉強くらい、ぼくが見れる」
 サカエと、目が合った。サカエは小さく笑って、冷蔵庫から出した牛乳を冷たいままコップに注ぐ。
「現にユイちゃんの成績、上がったよね」
「だから、それだよ。おまえ、どーやって……」
「砂場」
 いつもの、あの砂場で。まるで遊んでいるみたいにして。
「ああ……そう」
 リュウは間の抜けた返事をした。
 事態が飲み込めていないわけじゃない。
 驚いた。
 驚きはした、けれど。
 別に、天地がひっくり返るほどに驚いたわけじゃない。ふーん、とどこかがストンと納得した。たぶん、きっと、母親も同じような反応しかしないだろう。
 だから、まあ、それはいい。
 よその家ではどうか知らないけれど、我が家では、まあ、いい。サカエがそれくらい頭がいいのなら、バカのユイでも適当な成績が残せるのは当然だ。なんて簡単に思える。
以前、答えの完璧な宿題をユイが持っていたのも納得できるし、百点を取ると言うならサカエは本当に百点を取り続けてくるのだろう。
 ただ、どうにも解せないのは……サカエが賢いことでも、ユイが成果をあげていることでも、なくて。
「なんでおまえ、そんな、ユイのめんどー見てんの?」
 あの、ユイの、面倒を、どうして見る気になったのか。リュウだってごめんなのに。サカエだって、ユイの悪口ばかり言っていたくせに。
「なんでわざわざ、そんなめんどーなことしてんだよ」
「面倒なんかじゃないよ」
 牛乳を飲むサカエは、もう笑っていなかった。笑うどころかリュウを睨む。
 大人びて、すべてを拒絶するように睨んだわけじゃない。小さな子供が、欲しいおもちゃを買ってもらえなくてスネているように、睨んでくるから。
 リュウは驚いた。
「は? おまえ、怒ってんの?」
 サカエが怒ったところを見たことがない、というわけではなかった。ユイと一緒にいるときは不機嫌で、口調が怒っていることなどよくあったし、喧嘩をすればいつだって気が済むまで機嫌が悪いし、寝起きは最悪だし、そもそもそこら辺にいる無邪気な子供と違って、いつでも元気に笑っているわけでもない。
 でも、このサカエはわからなかった。ついさっきまで笑っていた。それどころかここ最近はずいぶん機嫌がいいように見えていた。なぜ、今、急に不機嫌なのか。
 ……急に?
 リュウは、牛乳を飲み込むサカエを見つめた。
「おまえ、いつからそうだったわけ?」
 いつから、不機嫌だったのか。
 これは、今、じゃない。だいたい、ずっとおかしかった。
 そう、おかしかった。いつからおかしかった?
 ユイと砂遊びなんかを始めた日からだ。勉強だかなんだか知らないけれど、たった一日の気まぐれならまだしも、サカエはあの日からずっとユイといる。リュウはあの日からずっと、ユイに触っていない。
 なにかあっただろうか? たしかその前の日は……リュウはユイと街に出た。いつものようにそうして、いつものように面倒くさくなってユイを途中で置き去りにした。いつものことだ。その後いつものようにサカエがユイを迎えに行って、このくそ寒い中、海を見に行ったようだった。物好きだなあ、と思っただけだった。
 その日から、リュウはユイに触っていない。
 ……苛々、する。どうして苛々する?
 永遠に終わらないパズルゲームでもやらされているみたいだった。苛々する答えが見つからない。終わりが見えなくて、思うように行かなくて、目の前にあるはずのものが見えなくて、掴めるはずの物が、掴めない感じ。どんなに手の平を握り締めても、少しも自分のものにならない感じ。奥歯を噛み締めても、なにも解決しない感じ。
「おまえ、なにが気に入らないの?」
「兄さんこそ、なに気に入らない顔してんの」
「おまえがわけわかんねーからだろ」
「ぼく?」
 サカエはリュウを睨んだまま。
「ぼくのせいじゃないよ。ユイちゃんのせいじゃないの?」
「ユイ?」
「欲求不満なんじゃないの?」
 咄嗟に、リュウは返す言葉がなかった。予想もしていなかったことを言われた。なぜ、サカエがそれを知ってるのか。
「おまえ……」
「二度とユイちゃんに触るな」
 は? と、聞き返すことも出来なかったくらい、また、予想していなかったことを言われた。
「……ユイ、に?」
 サカエがなにを言ったのかわからなかったわけじゃないのに、確かめるように、聞き返していた。
「触るな」
「……オレが?」
「そうだよ」
「ユイ、に?」
「そうだよ!」
 サカエはそれ以上、ひとことでもリュウと話をしたくないように台所を出て行く。その手を掴んだ。
「なに、おまえ……まさか」
 なぜ、ここ最近、サカエはユイと一緒にいるのか。なぜ……。
 そう考えていくと、他にそうしようがないように笑いが込み上げてきて、からかうように続けようとした言葉を、遮られた。
「だったらなに?」
 サカエはリュウを振り払おうとするけれど、振り払えない。ユイが抵抗できないリュウに、ユイよりも小さなサカエが抵抗できるわけがない。
「だったらなに!?」
 サカエはユイといる。
 どんな口実を用いても、どんな場所でも!
 それくらい、
 ユイが、好きなのだと。
「え、おまえ、マジ?」
「そうだよ!」
 だから、
「だから! ユイちゃんに、触るな……っ」
 リュウがユイにしていたことを知っている。放っておけばこれからもし続けることを知っている。
 だけれど、サカエには、そう言うだけで精一杯だった。
 ユイを守るのは自分だ、と、まだ言えない。言い切ることが出来ない。力では適わない。出来ないことは言わない。出来ないから、言えない。それが悔しくて。
「ユイちゃんの勉強くらい、ぼくら見てあげられる。ぼくが見る。兄さんの部屋にはもう行かせない。だから、二度と触るな」
 それくらいのことしか言えない自分に唇を噛み締めるから。
 リュウはサカエから手を離した。さすがに悪いと思って離したわけじゃない。ただ、呆気に取られただけだ。なにが起こったのかよくわかっていないだけだ。どうしてそんなにムキになっているのか、わからなかっただけだ。
「おまえ、ばっかじゃねーの? なんでわざわざユイなんだよ」
 多分、心の底から言った。
「どっかおかしーんじゃねーの?」
 心の底から心配もした。
 世の中、もっとマシな女はいくらでもいる。なぜユイなのか。なぜユイにこんなに熱くなるのか。なれるのか。
 あのユイに。
 あのユイに!
「好きでもないユイちゃんに手を出す兄さんほどにはおかしくないよ」
 サカエはリュウと目を合わせない。手を出す、というどうもそこがポイントらしい。リュウはなにかを考えるより先に口にしていた。
「ああ、なんだ。おまえもヤりたいんだ」
 ヤりたいだけなのだ。リュウがそうしているのを見て、サカエもそうしたいだけなのだ。そう思うとそれ以外の答えはない気がして、リュウはそう言った自分に妙に納得したりした。それなら、まあ、理解できないこともない。なんだそういうことか、と答えが見つかってすっきりする。
 サカエが耳を赤くした。リュウは、自分の意見が正しかったのだと確信する。
「おまえも男だよなあ」
 リュウはけたけた笑った。サカエが決してリュウと目を会わせようとしない意味に、気が付かない。いっそこのまま気が付かなければよかったのだ。
 サカエは、言葉もないほど、怒っていたの、だと。
「ヤっちゃえば?」
 奥の部屋でテレビを見ていた母親の笑い声に、リュウは声をひそめた。
「ヤらせろって言ってみろよ。あいつ、ホントに誰にでも……」
「……兄さんは、誰でもいいんだよね。兄さんにとっては、ユイちゃんじゃなきゃいけない必要なんてないんだよね」
「はあ?」
「ないんだよね?」
「……あたりまえじゃん」
 リュウは一瞬詰まった言葉を、むせながら吐き出した。詰まったのは、道徳的にどうだと考えてためらったから、というわけじゃない。本当にあたりまえ、だと思っていたことをあらためて口にすることにムカついただけだった。なんだろう、なんだか、こういうのは気に入らない。
 リュウは、手の平を握り締めたサカエを見た。
 サカエもまたリュウの返事が気に入らないのだ。気に入らないくせに、気に入らないと思ったのと同じくらいの気持ちの重さで、どこか安堵したように見えた。
 なにを安堵したのか。
 ああ……そうか。
 思いついた答えに、リュウは笑った。おかしくて、笑った。
 サカエは、リュウがユイを必要としていないことを確認して、ほっとしたのだ。
 そう、別にリュウにはユイなんてどうでもいい。いなくてかまわない。ユイである必要なんてない。ユイなんて、この世どこにもいなくてもかまわない。
 だけれど。
「ユイには、オレが必要なんだよ」
 ユイとリュウを知る人間なら、おそらく誰もそのセリフを否定しないはずだった。一日のほとんどを占めている学校生活の中で、ユイはいつでもリュウの傍にいる。
「ユイは高校行く気マンマンみてーだけど。そんで? おまえのオカゲでマグレで受験通って、そんで? 切符もひとりで買えないあいつが、どーやってガッコまで行くわけ? べんきょーだけできて、そんでどーやってコーコー生活楽しんで送れるわけ? さすがにユイも自分のバカさ加減に気がついて、ユイの親はシンパイネタが増えるだけじゃねーか」
 ユイを馬鹿にして笑いながら、リュウは満足していた。そこまで考えてはいなかったらしいサカエを、テンサイでも視線の低い世間知らずのガキなのだと思い、そう思うことで満足した。
 サカエが口を閉ざしたから。
 廊下ですっかり冷えてしまった手の平で、サカエの頬をぺろんと撫でた。
「頭、冷やせよ」



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