別窓で開いています








※注意事項※
 恒例……という言い訳もむなしい「最近更新ないですね。じゃあ見せしめに昔のお話でも晒しますか更新」、です。
 すごいですよ、96年に書いてます。10年前です。やっほー。
 それでも一応「雪の降る森の歌」の前身にあたります。ええ、一応。
 観念的でいまいちわけのわからない、しかもさり気に救いのないお話を多く書いていた時期なんじゃないでしょうか。
 ……というお話です。短編・非Rですが、それでも暇つぶしにはなるかな、と思われる方はどうぞ読んでやってください、です。


   ↓















〜 森 の 詩 
(もりのうた) 〜





 濃い空気の、においがした。
「生まれ立ての空気だね」
 つよい緑の森の中。突然現れた声の主。聞き心地のいい、低い声。
 ナホは彼を待っていたように、やっと、微笑んだ。
 深い、想いの中で。
「……そうだな」
 柔らかな白い肌を持った少女の姿に似合わず、ナホは男のような、愛想ない口調でゆっくりと答えた。
 突然風が吹いて、視界一面の樹々が音をたてて揺れた。けれどナホは瞬きもせずに彼を見たまま、微笑みを消さなかった。
 微笑みに、応えるように風が静まっていく。
「ねえ、ナホ。今度は何が悲しくて泣いているの?」
 彼の口調は妙に大人びていて、それがなんだか似合わなくて、ナホはまた咲った。
「泣いてなんて、ない」
「嘘つき」
 彼は笑わない。
「ナホがそういう顔してるときは、泣いてるときだよ」
 淋しくて寂しくて仕方がない、そんな、微笑み。見ているほうが、辛くなる。
「これで私が泣いてるというなら、アサトの方が、よほど泣いた顔だ……変な、顔だ」
「僕はナホにつられてるだけ」
 土を踏む音。ナホに近付いてくる、アサト。
「……アサトの言い訳は、いつも同じで芸がない」
「そう思うのなら、一度くらい、心の底からちゃんと笑って僕を出迎えてよ」
 そっと手を伸ばしたのは、アサト。長い長い髪が、無造作にかかるナホの肩。
「僕に逢うたびにそんな顔をされたんじゃ、僕も笑えないだろう?」
「そんなことない、アサトは笑ってればいい。私には悲しいことしか見えないから、アサトは楽しいところだけを見てればいい」
「それは無理だよ、僕の中の一番楽しい記憶になるはずの君が、そんな表情だからね」
 華奢な肩。抱き寄せて、手の中にいるナホに少し満足したように、アサトは静かに瞳を伏せる。ナホはアサトを見上げた。
「また、背が伸びたんだな」
「十八だからね、もうそろそろ伸びなくなるよ」
「……十八……歳?」
 驚いたように、戸惑ったように聞き返す。アサトは小さく首肯した。
「そう、十八。もう大学生になるよ」
 気のせいか、誇らしげに微笑したようなアサトの瞳と出会って、ナホは目を逸らした。不自然な仕種ではなくて、アサトはそうされたことに気がつかない。
「僕が初めてナホに逢ったのは、十二の時だったね。あの頃は、ナホのほうが背が高かったっけ?」
 必死になって記憶を探らなければならないほどの思い出ではなかった。アサトはついこの間の出来事のように話をする。
 ナホは、また、ゆっくりと答える。
「そうだな……」
 手入れされず生い茂る木々に囲まれて、風が吹くたびに葉の隙間から陽の光が差し込んで、夏の厳しい暑さも、ここでは別の世界のような話。人々の喧噪もないこの場所で、また、二人は出会っていた。
 このときが緩やかに過ぎていけばいい、とナホは思っていた。
 ……時間は、砂時計から落ちる砂のように、目に見えて流れていく。青を映していた空が、オレンジに塗り替えられる。
「また……っ」
 腰を浮かしかけたアサトを、引き留めるように声をかけていた。勢いで出てきた言葉は、止まらなかった。
「また明日も来るか?」
 今にも、涙が零れ出てしまいそうな眼差しで。
 二人、腰をかけていた到木。立ち上がったアサトは、躊躇いのない様子で頷いた。
「来るよ、僕はね、ここに来て君と逢える限り、ずっと来るから」
 だからそんな表情をするな、そう言外に告げる。対しての返事を期待されて、ナホも口を開いた。
「私はずっとここにいる」
 無防備に首を傾げた仕種。再びアサトが手を伸ばしたのは、無意識だった。
 いつもここで出会う少女。人の街から離れた森の中で、長期の休みに入るたびに現れる彼を待っている。出会ったのは、偶然だった。けれど、アサトが今こうしてここにいるのは、アサトの意志以外のなにものでもなくて。手が、考えるよりも先に伸びている。
 少し痩せめの尖った顎に、指が、触れた。



 近付いてくる吐息を感じていた。
 人の形をした、二つの長く伸びた影。
 ナホは瞬きもせずに、ただ、自分に触れるアサトの指が意外にごついんだな、と考えていた。いつのまにかすっかり大人の骨張った手。暖かな体温。それだけは……。
「……かわらないな」
 初めて出逢ったあのときから、変わらない。 もう六年も前の話−あるいは、たった六年前の、話。……夕立に追われ、雨宿りする場所を探していてここに迷い込んだ、中学に上がったばかりの少年。全身ずぶ濡れで、ここの空気は街のものよりも冷たくて、震えるアサトを、温めてあげたくて抱きしめた。
「これからも、アサトは変わらないだろうか」
 呟きに、アサトの動きが止まった。
 吐息の重なる、一瞬、前。無表情にアサトは、ふ、と喉の奥で嘲ったようだった。
 躊躇いなく、二人の距離を引き離して。
「また、明日来るよ」
 背を向けて、アサトは歩き出す。見送りながらナホはなにか言いたげに口を開きかけたけれど、それだけだった。意いは、言葉にされないまま。
 アサトの姿が見えなくなる。
 ナホは思い出したように自分の唇を人差し指でなぞった。
 ……触れなくてよかった、と思った。思った途端、心の底から切実に、本当にそうならなくて良かった、そんな気持ちが溢れて、一杯になって、堪えられずにナホは自分自身を抱きしめた。
「明日……また明日、逢える。そうだな、アサト」
 懇願するような独り言。
 夕焼けがつれてきた夜という名の闇は、なにも答えてくれない。長くなりそうな夜に、ナホの姿は隠される。


      ◇


 遠い時間の中で。
『ナホ』
 初めて名を呼んでくれた人の姿を、ナホはあまりよく覚えていなかった。……ずっとずっと遠すぎて、その姿は朧げにしか浮かばない。
『……ナホ……』
 呼んでくれたのは、優しい女だった。
『いい子ね、私がずっと、傍にいてあげるわ』
『……お母……さん?』
『ええ、そうよ、ナホ』
 痩せっぽっちの腕で抱きしめてくれたのは……母、だった。もう、顔も覚えていないけれど。その温もりも忘れかけているけれど。たまに思い出すことがある。
 ひどく心が疲れて、こんなふうにはっきりしない眠りの夢の中で。目が覚めて、自分は今まで眠っていたのかそうでないのか、判断からなくなるような曖昧な眠りの中で。
 そして必ず、そんな夜を過ごした後の朝は、不安だけがナホを支配していた。


      ◇


 水辺に膝を着いて、両手で水を掬った。喉を潤してしばらくすると、波紋の拡がっていた湖はもとの凪いだ姿を取り戻す。覗き込むと、鏡面のようにナホの姿を映した。
 昨日アサトに指摘されたままの、冴えない微笑みを浮かべた自分。この表情以外の自分の顔を知らない、自分。
 昇り始めた陽が樹々の幹の間、横から光を差し込ませる。湖に反射した穏やかな眩しさに、目を細めた。
 優しいものを見る眼差し。
 ……あの頃も、あの女を……母を、こんな眼差しで見つめていたのだろうか……。
 そうだったらいい、とナホは思う。そうであってほしい、と願う。優しさを感じて、自分の中に取り込んで、そして湧いてくる無意識の自分の優しさを、誰かに与えられていたらいい。
 あの頃は、あの女に。
 今まで出逢ったすべての人に。
 今は、あの男に。
「おはよう、ナホ」
 かけられた声。
 なんの飾りもないセリフ。つまらないくらい、当たり前の挨拶。でも、それだけが、いつも欲しくて。
「話をしようか、アサト」
「いくらでも、ナホの気のすむまでどうぞ」
 昨日と違って、ほんの少しだけ、アサトが笑ったように見えた。
 優しさが、溢れるのに。
 ナホのずっと奥のほうで、なにかが痛んだ。 昨日。
 重なるはずだった、唇。
 重ならなかった、唇。
 乾いてしまって、ひきつって、ほら、今日もまた笑えない。それでもアサトはやってくる。
 なんのために?
 なにを求めて?
 なにが、欲しくて?
 ナホは湖の脇に立つ一本の樹を指した。二抱えはありそうな幹の、上の方。
「さっき孵ったばかりのひなどりがいる。見てみないか?」
 アサトは、おや? と肩を竦めた。
「話をするんじゃなかったっけ?」
 もしかしなくて、からかってるみたいに。だから、ナホもからかわれたみたいに、真似をして肩を竦めた。
「会話なら、もう始まっている」
「なるほど」
 始まったばかりの今日。
 盗み見るように、ナホはアサトを眺めた。
 ……会話なら、始まっている……。



 ナホはいつものように、身軽に樹を登っていった。登り切ったところで、「アサトも来い」と気軽に声をかける。
「生まれたばかりの雛だ、手に取るわけにはいかないだろう」
「……はいはい、いきましょう」
 木登り……だなんて自慢じゃないが経験がない。が、アサトはなんとか、ナホが腰をかけている枝までたどり着く。
 地面をかなり見下ろして、それでも年月を重ねてきた大木の枝はアサトの体重を支えてびくともしない。その枝の、先の方。二股に別れたところに、鳥の巣はうまい具合に作られていた。
 ナホはまるで地面の上のように枝の上を歩いていく。アサトは恐る恐るしがみついていた幹から手を離す。……離したはいいが……ナホのようにはいかず、さて、どうしたものかと思ったら手を、掴まれた。
「安心しろ、突き落としたりなんてしないぞ」
「あ、こわい冗談だね、それ」
「冗談かどうか、確かめてみるか?」
 ふふっ、と楽しそうなはずの微笑みが、それでも相変わらず寂しくて、アサトはナホの手をしっかりと掴み返した。
 巣の中には生まれたばかりで羽根の湿ったままのひなどりが一匹いた。もうすぐ孵るのだろう卵は二つ。親鳥の姿はなかった。
「なんていう鳥なのかな」
「さあな」
 素っ気無いナホの返事。アサトは意外そうな顔をした。
「ナホはそういうこと詳しいと思ったんだけどね。違ったみたいだね」
「がっかりしたか?」
「というか、らしいというか」
 ひなどりの大きな目は閉じられたまま、なのに、餌を運んでくるはずの親鳥を待ち切れなくて、目一杯空を仰いで口を開く。
 ナホはひなから視線を外さなかった。
「鳥は鳥だ。ほかには必要ない」
「シンプルだなあ。たしか花や木を前にしても、同じこと言ってたよね」
「花は花、それだけわかれば十分だ。桜だの梅だの鳩だの雀だのの区別は、人の間でしか必要がない」
「それは、そうだね」
 同意をしたけれど、アサトは掴むナホの手に力を込めていた。
「ナホは……」
 言いかけて、躊躇う。言おうかどうしようか、迷いはすぐにナホに伝わった。問いかけるような顔をされて、アサトは仕方なげに吐息した。
「ナホはたまに、そういう言い方をするから」
 少しだけ空に近い、足場を樹に支えられた場所で。
「花とか鳥とか、それと同じに人を分類して見てる」
 ナホは答えなくて、肯定されたのだとアサトは理解するしかなかった。
「ねえナホ、それでもかまわないよ。でも僕は、僕として見てほしいとずっと思ってる」
「……ずっと?」
 引っかかって、ナホは聞き返した。しばらく頭の中でアサトのセリフが回って、そして、弾けた。
「わたしはずっと……!」
 叫ぶように言いかけた。でも、アサトを見上げて、目が逢って、手に力を込められて、すう、と退いていく。
 声を荒げることは簡単なのだ。簡単にできてしまうようなことで、相手に思いは伝わらない。
「……それならアサトは、私を見ているのか」
「見てる。いつも、想ってる」
「それならどうしてアサトは私に聞かない?」
 息を呑んだのは、アサト。
「なに、を?」
「いつもアサトが思ってることそのまま、だ」
 ナホはアサトから手を離すと今まで立っていた枝に手をかけて、そのまま器用に下の枝、下の枝へと伝って下りていく。地面に足が付いたとき、まだ空の傍にいるアサトを仰ぐと、森のすべてを抱え込むように両手を広げた。
「私が、ここ、にいるわけを、アサトはなぜ聞こうとしない」
 アサトの目は、ナホを見つめた。ピイと耳に雛が小さくなく声が届く。ざわと風が流れて、いつでも生まれ立ての空気の香が鼻を突いた。
 口は、なにも言葉を発しないまま。アサトは森とともにナホに抱かれたような気分に陥った。


      ◇


『ここに迷い込んだのか、近頃、珍しいな』
 初めて出逢ったナホの姿を、アサトは鮮明に覚えていた。道に迷うわ雨に打たれるわで、心細くて膝を抱えて座り込んだ。中学生になったんだという小さなプライドだけが、かろうじて涙を塞き止めていた。
 そんなとき現れた少女。年齢は見た目だけなら十五、六。耳慣れない口調に、初めなによりも驚いた。怒られたのかと思ったのだ。
 違う、とすぐにわかったけれど。
『心配するな、雨が止んだら送ってやる』
 そう心配はない、と抱きしめられた。あやすように耳元で何度も囁いてくれた。……いつもの、そのときまでのアサトなら、よけいなお世話だ、と払いのけたはずだった。
 払いのけなかったのは、寒くて震える躰が冷たくて動かなかったからか、それとも、心地よさのせいだったのか。今となってはもう、どちらでもよかった。
 あのとき、躊躇わずに傍にいてくれたナホ。それと同じ。損得なしで、自分もナホの傍にいたいと思った。
 あのときから六年たって、十二歳だったアサトは十八歳になった。
 でも……ナホ……は?
 その姿。
 出逢ったとき十五、六だったナホは、今も十五、六に見える。
 ナホは、変わらない。何年たっても、いつ、見ても。


      ◇


「私がこのままの姿でいるわけを、なぜ聞こうとしない」
 アサトを急かすように、ナホは言葉を続けていた。アサトは樹を下りて、ナホの前に立った。
「話をしようって、このこと?」
 太陽が決められた速度で空の頂点を目指して登って行く。樹々の葉に覆われていた空が、青みを増す。
「僕がしたいのは、そんな話じゃないけどね」
「持ち出したのは、アサトだ」
「……僕? どうして……」
 心当たりがなくて、ナホを見つめた。ナホは乾いた唇を、噛んだ。
「私がまだアサトを知らなくて、アサトも私のことを知らない、そんな前の話だ。見た目なら私と同じ年齢くらいの少女が、アサトと同じようにこの森に迷い込んできた」
 ナホは湖に近付いて行くと、際に沿って歩き出した。一人で話を始める。
「少女はハルカ、そんな名前だった」
「ナホ……? いったいなんの話を……」
 説明を求めるアサトを、ナホは一瞥しただけだった。
 立ち止まっていたままのアサトは、二人の距離が次第に開いていくのに寒気を感じて、ナホを追って駆け出した。



「ハルカは私を見ても、別になにを言うわけでもなかった。だから私もなにも言わなかった」
 ナホはゆっくりと歩く。まるで昔語りを独り言のように話すのを、アサトは黙って聞いていた。どこでどう口をはさんでいいのか、わからなかった。
「ハルカは私について歩いてきた。だからそのまま、森の出口までつれていった」
 森に人はよく迷い込んでくる。出口まで案内してそれきり二度と会わない、なんてことは少なくない。それにこしたことはない。
 けれどそのときのナホには、またハルカはやってくる、そんな予感があった。
 終始伏せた眼差しで、決して真っ直ぐに前を見ようとしなかったハルカ。
 ハルカは予想した通りまたやってきた。ただし今度は迷い込んだのではなくて、自分から。
「そのときハルカは名前を教えてくれた。どうしてここにやってくるのか……は、そのうちにわかるような気がした」
 不思議な言い方に、アサトは肩を竦めた。口は、開かない。
 足下の水面で、小魚が一匹、跳ねた。
「ハルカはしばらくの間、毎日ここへやってきた」
 そのうちにナホはハルカの変化に気が付くようになっていた。細身のスラリとした肢体。胸も腰も膨らみの小さい少女だった。ただ、腹部だけが、不自然に膨らんでくる。日を重ねるごとに、大きくなる。その中に、命を抱えて……。
 気が付いていて、あえてハルカを放っておいた、とナホは言う。
 ナホとアサトと、ふいに、視線が合った。
 どうして放っておいたの? 百パーセント常識的な質問を込めた瞳に、ナホはふっと笑んだ。
「私には、理解しなくてもいいことがたくさんあるからな」
 立ち止まった、かと思うと、歩き出す。
「理解しなければいけないことをいちいち理解していたら−そうすることができてしまったら、私は私でいる必要がなくなる」
「それなら、僕も、知りたいことを知る必要はないよ。だってナホはここにいる。それだけで」
「よくないな」
 言葉尻を奪われて、どうしてと抗議しようとしたアサトは、瞬きだけでナホに制された。
「アサトは、私じゃない」
 もっとも、簡潔な結論。
 自分以外の人間は、他人。
 自分か、他人か。それだけ。
「アサトに、私のことはわからないだろう?」
「そんなこと言ったら、人は誰ともつきあえないよ」
「それでいいだろう? 私のことを知りたくないと言ったのはアサトのほうだ」
「ナホ!」
 ……大きな声で、名前を呼ばれた。けれどナホは表情一つ変えなかった。
 変えたのはアサトのほうだった。……名前を呼んだのに、無視された? 無視、それは否定。打ち消し、認めないこと。
 なにがなにを?
 誰が、誰を?
「……ナホ……?」
 呼びかけに、ナホは振り向くけれど……。それだけ。ほかに意味はない。
 言葉をなくしたアサトの前で、ナホは何事もなかったように話を続ける。
 大きくなったお腹を抱えて、どうしても生みたいんだ、といったハルカのことを。



 その日、ナホは初めてハルカが顔を上げるのを見た。
『だって、わたしが生み出した命だもの。わたししか、この子を生んであげられないんだもの』
 しっかりした口調で−眼差しで、ハルカ
は愛しげに自分のお腹を撫でた。ナホは返す言葉が見付からなかったのを覚えている。
 身重の躰でここに迷い込んで、他の命のことより自分の心配をしろ、と出会った頃なら言っただろう。その頃なら、なにも知らなかった。
 すべての人間に反対されここまで逃げてきた。堕胎することができなくなる日が来るまで、それを打ち明けなかったハルカ。
 知ってしまって、その後、なんと言えばよかったのか。答えはいまだに出ていない。
 それから半年ほど姿を見せなかったハルカは、次にやってきたとき乳離れしていない赤ん坊を胸に抱いていた。ナホは驚いた。
「もう来ないと思っていたハルカがやってきたからか、それとも赤さんを初めて見たからか、多分、両方に驚いたんだな、私は」
 そんなふうに、ナホはずっと話をしていた。聞くアサトは、口を挟まない。
 ナホはアサトにはかまわなかった。
 言わなければいけないことが、あった。
「生まれて数日だという赤さんを見たとき、私は恐くて抱いてやれなかった。自分の意志を持たない、ぐにゃぐにゃした得体のしれないものに見えた。なのに日が経つにつれ、目はものを映すようになる。歯が生えて、お乳ではないものを口にするようになる。歩き出して、言葉を覚える。どんどん、大きくなる」
 ナホは自分の手の甲を見つめ、ずるずると伸びた髪を引っ張った。それからやっと、この瞬間を待っていたように、アサトを見た。
「私は、ずっとこのままだ。伸びるのは身長じゃない。爪と、髪くらいだ」
 ああ……、とアサトは優しげに眼差しを落とした。ナホがなにを言いたいのか、少しだけ、わかったような気がした。
「僕は、ここにいるよ」
 ナホだけに向けられた微笑み。
 それが精一杯。それ以上に、伝えられなくて、それしか手段が残されていなくて。
「彼女と赤ちゃんは、もう来ないの? でも、僕はいる」
 出発した地点から、ちょうど湖の半分あたり。
 首を横に振ったナホの姿が、湖に映った。
「アサトは、知らなければいけない」
 伸ばした手のひらで、トン、とアサトの胸を叩いた。
「私は、人じゃない。人間から見て、最も遠くにいる他人、だ」



「ハルカもその子供も、アサトに出会うずっと前に、生を終えた。でも私はこの姿のまま、ここにいる」
 言い終えて、アサトがいったいどんな表情をするのか、ナホには少しだけ興味があった。 そう、興味。
 他に意味はない。でも……。まるで審判をひかえた罪人のように、胸が痛む。
 ずっとずっと、そこが痛い。
 どうして、痛い?
 アサトの胸で、ナホの掌が汗ばんで。微かに震え出したのをごまかすように爪を立てる。その手にアサトの手が重なって、ナホは瞳を見開いた。
「じゃあ僕も、いつかハルカみたいに、こんなふうにナホと誰かの話題に登ったりする?」 アサトには今のナホはわからない。わからないという空白が、ここでは余裕になっていた。……なっていたはずだった。だから、「そうだな」そんなナホの返事を期待することができた。
 ナホは、アサトの期待には応えなかったけれど……。
「私は、私を裏切った人間の話はしない」
「え……?」
 空白が、埋まる瞬間。
「誰、が……?」
 アサトの呟き。問いかけ。疑問が、また壁にぶつかる。
 誰が、誰を?
「僕はずっと、ナホの傍に……」
「いない」
「ナホ、どうしてそうやっていちいち否定するの」
「言えば、アサトは本当に私を裏切ることになる、だから、言うな。言わせない」
「僕はそんなことしない」
「あいつもそう言った!」
 勢いで言ってしまってから、ナホは慌てて口を噤んだ。
「……あいつ……って……?」
 不審な発言……というよりは行動に、当然アサトは聞き返した。横を向いたナホは「答えるものか」とムキになっているように見えて、だからこそ、腹が立った。
 自分以外の誰かに心を奪われている、他人。
「ナホがなにを考えてるのか僕にはぜんぜんわからない。僕がここでそう言えば、『アサトは私じゃないからな』って、またそう言うのかい? そうして僕が腹を立てて帰ってしまうのを望んでいるの?」
 一見優しそうな言葉を、突きつける。
 手のひらが、汗ばんだ……。


      ◇


 ナホ……。
 今まで、人数なんていちいち数え切れないほどの人間がナホの名前を呼んだ。
 ナホ……。
 あの女は、母。慈しみで。
 彼女は、ハルカ。親しみで。
 そしてあいつ……は……?



「ナホ……」
 アサトの手が、ナホの手を掴み上げた。ナホはアサトを見上げた。
「その名で、私を呼ぶな」
「ナ……」
「呼ぶなと言っている!」
 強い、口調。
「その名はもともと私のものじゃない。私を初めに見つけた人間が勝手につけたものだ。本来私に、名前などない」
 掴まれた手。角度を増す太陽。吹く風が、湖の水面を揺らす。
 ゆらゆら。
 揺れてる。ナホの、気持ちみたいに。
「ねえ、なにをすねてるんだい?」
 抵抗するナホの手を、アサトは離さない。
「僕の手の中にいるのに、無理に、そうして逃げようとしなくていいから」
「……みんな、私だけをおいていく」
 ゆらゆら、不安で、定まらなくて。
「人は日毎に歳を重ねていく。私だけが残されて、裏切られて、癒されない」
 ……あの女。
 ナホが初めて会った人間。「ナホ」という名前の娘を亡くしたばかりだった彼女は、もしかしたら悲しみに溺れて狂っていたのかもしれなかった。迷い込んだ森で出会った少女を「ナホ」と呼んだ。ナホをかわいがって、かわいがって、かわいがって、それで自分だけが満足して、ナホを置いていった。初めて会った人間だったから、狂っていた、なんてナホにはわからなかった。今でも、我が子のように大事にされた記憶しかない。
 ……ハルカ。
 ずっとずっとここへ通ってきた。やがて姿は少女のものではなくなっても、老いてすっかり肌に張りがなくなっても。だから、この先もずっとずっとやってくると思っていた。ある日を境にやってこなくなってからも、ずっとそう思い続けてナホはハルカを待っていた。自分にはやってこない「死」を、理解することができなかった。……する必要が、なかった。
 ……あいつ。
 ちょうど、今のアサトくらいの青年だった。年は十八、そう言っていた。ハルカを待つのに疑問を感じた頃現れて、丁寧に、今までナホの知らなかったことを教えてくれた。それでも理解できないことが多くて、伸ばされた手の意味も、ナホは知らなかった。……知らなかったのだ。名前なんて……忘れてやった。『ナホ……』
 耳元で囁かれた。伸びた手は肩を抱いた。引き寄せられて、唇……。重なった。
 森の中で。
 その後名前すら覚えておく必要がないと判断した男。
 触れた場所が、ざわりと風を生んだ。
 森が揺れた。
 ざわざわと、嵐の前触れのように生暖かい風。
 警告。
 警告。
 警告。
 ここは森。
 おまえは人。
 警告。
 出ていけ。
 払い除けた途端、男はナホを口汚く罵り、その後二度と現れなかった。手に入らなかったものを蔑み自尊心を満足させる。自分を拒んだものには、もう決して近付かない。許さない。小さな心では、許容できることが少ない。我慢できない。だから、自分が傷つく前に、誰かを傷つけて気を晴らす。自分に傷がつかなければ、痛くない。水をやり、手をかけ、大切にしていると見せかけて、踏みつける。むしり取る。
 ここは、森。



「アサトは私に、なにを望んでいる?」
「傍にいること」
 太陽は頭上。影は足下。今は、重ならない。
「……嘘だ、もう私は、わかっている」
 膝を抱えていた少年。街ではさぞ小生意気だったろう彼は、変わった。
「ナホが、欲しいよ」
「素直になったな」
 ナホが、笑った。
 あのとき寒さに凍えてナホを振り払えなかった少年は、「よけいなお世話だ」そんな目をしていたように思えたけれど。悪ガキも成長の過程次第で良くも悪くもなる。ただ……。成長した姿を見たいと願ったことは、一度もなかったのだ。
「悪ガキのままでよかったんだ」
「僕も、たまにそう思うことがあるけどね。うまく行かないね」
「……そうだな」
 思えば、アサトの身長がナホをこえた頃から。……それとも、もっとずっと前から。
 傍に、……できるだけ傍に、いたくて。
「私は、人とは交われない。決して」
 告白。これが最後。
 アサトの欲しいものになれないのなら、自分から切ってしまえばいい。前のように、一方的に裏切られるのはもう御免だった。
 なにより、ナホはアサトを……誰よりも……。
「私はおまえに応えてやれない、だから、これきりだ」
「ナホ?」
「その名で呼ぶなと言った。そんな名前の人間は、ここにはいない」
 掴まれたままの手。引き寄せて。
 これが最後、だから。
「私はアサトに縛られない。だから、アサトも私に縛られるな」
 風のように口接けた。
 直後、森が抗議する。違うものと違いもの、それらは決して一緒になれない、と。
 危険。
 人は森を侵す。
 警告。
 森は森のものであって、おまえたちのためのものではない。
 排除。
 これ以上、悲しみが増さないように。
 出ていけ。
 そして、それきり。



 気が付いたとき、アサトは森の外にいた。
「ナホ……?」
 そんな人間はいなかった。だから、返ってこない答え。
 あとは沈んで行くだけの陽の下で、森は入り口を閉ざしたまま、濃い空気だけを生み出していく。



〜 おわり 〜



えーあー。いろいろ言い訳は06年2月1日日記にて。



別窓で開いています
読み終わりましたら閉じてください