〜 神女神4 〜




 半分だった月は、あっという間に丸くなった。
 その間、セイはそれまでと同じ生活を送っていた。学校へ行き、学校の帰りに森に寄る。陽が落ちたら家に帰る。
 カヅカは、ナーナとセイの縄をほどきにやってきたその日のうちに、長たち教会の役員を集め、翌日には街中の人々を教会に集めた。カヅカは白い垂れ絹の中から人々の前に出て、役員たちと話し合った内容を、自らの口で告げた。
 カヅカは言うつもりでいたのだけれど、混乱から起こる騒ぎを防ぐため、という名目で実は権力の中心を教会に置き続けたい役員全員たっての願いで、街の神女神の本来の役目などの説明は省くことになった。偽りでもなんでも、神女神が中心になることで街は治められてきた。
 カヅカは、森にもうひとりの神女神がいることと、その役割を告げた。人々は言葉を無くし、すぐに、何十人、何百人もの人々が、半月の夜の森での出来事の謝罪を申し出てきた。カズカはすべての人、一人一人の懺悔に、睡眠も取らず付き合い、許した。
 セイには、それまでと同じ生活が約束された。ただし、満月の夜までの。
 黄色い満月が登り始める頃、セイの家には長をはじめとした役員たちがやってきた。
「じゃ、行ってくるね」
 まるで学校に出て行くときのように気軽に言うセイに、ああいってらっしゃい、とうっかり返事をしてしまった父親を睨み付けた母親が、セイの腕を掴んだ。
「まだ遅くないんだよ。断っていいんだよ、だって、なにも、おまえじゃなくていいんだろ」
「母さん……」
 セイは掴まれた腕を見下ろす。
「おれが、おれじゃないと嫌なんだ。この話は、もう何度もしたよね」
「でもおまえ、おまえはまだ父さんと母さんのものなんだよ。母さんたちには、おまえを手放さなくてもいい権利があるんだよ」
「……うん、母さんと父さんと、そして神女神さまのものだよ、おれは。ナーナは、森の神女神さまなんだ」
 そう言えば母は黙るしかない。今までは、こう言うことでこの話を打ち切ってきたけれど。
「ねえ、母さん。おれは、本当は、おれのものなんじゃないかな」
 本当は、ずっとこう言いたかった。
「おれは、おれのものなんだよ。おれは母さんと父さんの子供だけど、そのことには感謝してるけど、でもおれは、今は、誰かに決められてここにいるわけじゃない。おれが自分で決めてここにいるんだ。そうしてここから、ナーナのところへ行く。ナーナと一緒にいるって、おれが決めたんだよ。ナーナが、好きなんだ」
「……セイ」
「ナーナが神女神さまとか、本当はそんなことどうでもいい。なんでもいい。ただ、あの子の傍にいるのはおれじゃないと嫌なんだ」
 役員たちに促されて、セイは家を出ていく。母はその後を追った。
「セイ!」
 振り返ったセイの胸を、母は強く叩いた。反動で咳き込みそうになるセイに、母は、いってらっしゃい、と言う。
「うん、行ってきます」
 セイは叩かれた胸を押さえた。
 自分の神様は、ここにいる。
 ここに、いるから……。
 石畳の終わりから森へ入った。
「ところで、いつまで着いてくんの?」
 まさかこのまま朝ま一緒にでいるつもりじゃあ……、とぞろぞろいつまでも着いてくる役員たちに振り向こうとしたとき、
「セイ!」
 ナーナが呼んだから。
 役員たちに振り向こうとしてたことなんか忘れて、セイは森の奥へと駆け出した。
「セイ……セイっ」
 泣き出しそうなナーナがセイに飛びつく。
 ふたりの姿に、役員たちは森を後にする。
「なに? ナーナ、どうかしたの?」
 飛びつかれた勢いでしりもちを着いたセイは、ナーナの怯えた目を見つけて、その先に森の木々の隙間から見える満月を見つけて、ナーナの黒髪を撫でた。
 一緒にいる。ずっといる。そう言ったのに、この日まで、ときが経つごとにナーナは怯えの色を濃くしてきた。
「セイが、来てくれなかったらどうしようかと思った。ナーナも、今度こそ母様みたいになるのかと思った」
「ナーナの、母さん?」
「街から聞こえてくるみんなの声を見たくて、街に行きたくて、森から出してと望んでた。そして、心が壊れた。母様は、最後にはナーナの名前も呼ばなくなった。ここではない場所を望んで、ここにはないものを望んで、心を壊して、自分を失った。なにも見えなくなる。なにも聞こえなくなる。なにも感じなくなる。壁さえ、見えなくなる」
「ナーナ、ナーナ……」
「母様は壁を消して、母様も消えた。満月の夜だった。母様だけが壁の向こうで、でも、振り向きもしないで壁の向こうに消えていった。ナーナにも、いつかそんなときが来るんだと思ってた。セイに会いたくて、でもセイが来なかったら、そうなるんだと思ってた。母様はナーナを忘れた。ナーナもセイを忘れる。満月は嫌い。森に迷い込んできたあの小さな人間も、いなくなった。目が覚めるとナーナはまたひとりになる。そんな夢を見る」
「……ナーナ」
「ひとりなのが、それが森の神女神なの? だったら森の神女神なんて名前いらない。そんなものでごまかされない。ナーナは、ナーナでいる。他のものになんかならない。他のものになんかなりたくない」
 突然、鐘が鳴り響いた。
 ナーナは驚いてセイにしがみついた。
 セイは、その鐘を待っていた。ナーナを、抱きしめた。
「カヅカだよ。鐘を鳴らすって言ったんだ」
「……こんな、時間、に?」
 不安そうなナーナとは反対に、セイは、やった、と口の中で何度も呟いた。
「壁を、消してくれるって。今日から、本当ならカヅカが御使い様から引き継ぐことを、引き継がないからって」
「壁……」
「そう、壁だよ。天井の壁もなくなって、これからは雨が降るよ。雪も、降るよ」
「本当、なの?」
「うん」
 ナーナは、辺りを見回した。森が少しの間揺れて、それで、それだけで、さわさわと、森は普通の森になった。隔離されていない、街の一部の森になった。
 ナーナは目を凝らして何度も確認した。何度も何度も、目を大きく開きすぎて、目が痛くなって涙が出るまで確認した。
 ほら。
 ほら、もう、壁がない。
 明るくなったら街に行ってみよう、と言うセイに、ナーナは何度も頷いた。
「どこにでも行く。どこにでも、行ける」
 行っておいで、と森が言う。森もずっと、ここにいた少女たちにそう言いたかった。やっと言える。
 たくさんの人の波に飲み込まれることもある。でも、望んで叶わないことなんて、きっとない。たくさんの人の中にいるからって、たくさんの人の一部になるわけじゃない。たくさんの人の中の、たったひとり、だから。
 立ち上がれる。
 ナーナは、黄色い満月を真っ直ぐに見上げた。セイはその横顔を見る。
「誕生日おめでとう、ナーナ」
「うん、セイより、お姉さんになった」
「あー、それを言われると……」
 つらいなあ、とセイが呟いて、ナーナが笑った。セイが差し出した手を、ナーナは掴む。
「セイと、満月を見られて、嬉しい。嬉しいと思えたのが、嬉しい」
 手を繋いだまま、月が奇麗に見える場所を探した。
 月は、風がいたずらするように揺らすナーナの白いワンピースを、ずっとずっと、見ていた。



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