〜 神女神3 〜




 目が覚めたのは、どちらが先だったのか。
 おそらく、ナーナのほうだ。それから、セイ。ほんの少しの差だった。だから、目が合ったのかもしれない。
 差し込んできた光に、目が覚めた。場所的に、ナーナのほうに先に陽が当たる。ほんの……ほんの少しの差、だけれど。
「セイ、二度と、目を開かないのかと思った」
 ナーナが言う。
「ナーナは……二度と、おれには、口を開いてくれないんだと、思ってた」
 セイが言う。
 ナーナの体は泉の真ん中に立てられた木の柱に、胸まで浸けられた状態で縛り付けられていた。セイは、泉から少し離れた木の幹にぐるぐる巻きに括り付けられていた。お互いそんな状態で、目を覚ました。
 森は静かだった。
 人々はどこに行ったのか。ふたりを縛り付けて、それで安心して帰っていったのか。その場所には、ナーナとセイのふたりだけが、いた。
 空気は澄んでいた。泉も、澄んだ水を小川へ押し出している。
 悪夢……だったんだろうか。
 違う、そうじゃない。そんなわけがない。
「どうして、夢じゃなかったんだろ」
 ひどい目にあうのは、ナーナばかり。それでも、
 よかった、
 と、思う。
 セイはナーナから目を離さない。絶対に、もう二度と離さない。ずっと見てる。
「口なんてきいてくれなくてもいい、おれのこと、二度と見てくれなくてもいい。軽蔑されたままでもいい、ナーナが……」
 無事で、よかった。
 目を開けるのが恐かった。
 昨夜、ランプの明かりの中でセイが最後に見たのは、泉から出してともがくナーナの手だった。目を開ける直前、恐いことばかりを想像した。
 目が覚めたのは、セイのほうが先だった。目を開けたのは、ナーナのほうが先だった。ナーナが声をかけてくれなかったら、セイはずっと、目を、開けられなかった。
 そして、ナーナも。
「セイの声が聞こえた。それで、ナーナは目が覚めた」
 重かったはずの体は、今は軽い。泉に入ったせいなのかどうなのか。
「ナーナ、熱があったんだよ。平気? どこか痛くない?」
「うん、痛くない」
 ナーナから、セイは真っ直ぐに見えた。セイからナーナは、思い切り首を曲げないと見えない。相変わらずちょっと小首を傾げながら、セイが、よかった、と言う。
「よくない」
 とナーナが言う。
「セイの声で目が覚めた。セイの声じゃなかったら、覚めなかったのに。セイの声じゃなかったら、セイの声を聞きたいなんて思わなかったのに」
 ぜんぜん知らない人の声だったら、目なんか、覚めなかった。
「セイじゃなきゃ嫌だ、なんて、気付かなかったのに」
 セイは、泣きそうなナーナを見ている。
 ナーナは、よかった、と言ったときから泣いているセイを見る。
「別に、セイじゃなくてもよかったと、思ってた。一番最初から、もしもセイじゃなくても、きっと誰でもよかったんだって思ってた」
 ナーナはずっと、考えていた。
「セイじゃなくても、きっと楽しかった。セイじゃなくても、誰でもよかった。ナーナがひとりじゃないなら、誰でも、いなくなれば寂しかったんだって思ってた。でも」
 セイの声だったから、呼ばれて目が覚めた。
「セイが、いい」
 セイだけ。
「やっぱり、セイがいい」
 他の人じゃ、だめ。ユキナリもカヅカも違う。そして、母様とも違う。
「ナーナはセイといたい。でも、そのためにセイを惑わせたりしてない。だから、ナーナはセイといたいけど、セイは、ナーナといたくないなら、いないで、いい」
 裏切られた。そこにあったものは怒りじゃない。悲しみだった。悲しかった。裏切られたことじゃなくて、セイが、傍からいなくなることが。
「いるよ」
 セイが言う。
「ナーナにひどいこと言ったのに、それでもいいって言ってくれるなら、おれは、ずっといる。いても、いい?」
「うん、ずっと、いて。それから……」
「それから?」
「セイも、ナーナに、ずっといていいって、言って」
「……うん、いて」
「ずっと?」
「うん、ずっと」
 静かな静かな、若草の森の中。
 ふたりの約束が、ふたりのものになった。
 もう誰にも邪魔させない。
 邪魔を、しないで。
 そんな願いが誰かに聞こえたように、かさり、と足音がした。
 セイとナーナがはっとして見向いた先には、カヅカがユキナリと共に立っていた。



「本当ね、絶対ね?」
 カヅカは静かに歩み寄ってきた。
「その言葉に嘘偽りはないわね?」
 セイの前に立つ。腕を組んで、真っ直ぐな眼差しで。
「やっとどうにかみんなを森から帰して、わたしにここまでやらせておいて、それでおまえはまたどうしようもない嘘をつくんだったら、ただじゃ済まさないわよ」
 押し殺した声は、何かを、我慢しているようだった。
 セイもまた真っ直ぐな眼差しで、
「嘘なんか、つかないよ」
「本当に?」
「……本当に」
「絶対ね!?」
 カヅカは身動きできないセイの胸倉を締め上げる。
 セイはカヅカを見下ろした。もしも木に縛り付けられていなかったらカヅカの足元に跪く気持ちで、
「神女神様にだって誓える」
 カヅカが神女神だと言うのなら、誓う。
 なんにだって誓う。
「……そう」
 カヅカはセイの縄をほどいてやる。
 ユキナリは泉に入ると、ナーナの縄をほどいた。少しふらつくナーナを、軽々と抱き上げて戻ってくる。
 セイは締められた首をさすりながら、少しカヅカに同情した。
「今までさあ、森に来るとカヅカが苛ついてたの、なんかわかった。なんかあれ、ムカつく」
 ユキナリはナーナに優しい。ナーナはユキナリに懐いているように見える。まるで、昔からの知り合いか、親兄弟のように。
「おまえが気付かなくてもいいのよ、そんなことっ」
 それまで神妙だったカヅカが慌てて喚いた。図星か、とセイは笑ってみたかったけれど、
「……ていうか、ユキナリ絶対気付いてやっていると思うんだけど」
 縛られてあざになった腕を気にしながらぶつぶつと言ってみた。顔を赤くするカヅカは微笑ましいけれど、自分以外の男に抱かれるナーナの姿は微笑ましくない。セイはカヅカと一緒になって恨めしげにユキナリを見る。
 それでも、ナーナが傍にやって来ると、カヅカは表情を改めた。細く細く息を吐き出して。
「ナーナ、おまえ」
「……カヅカ様」
 ナーナを高い場所からナーナと呼んだカヅカを、ユキナリがたしなめる。
 カヅカは不意に込み上げてきた勢いを飲み込むように、奥歯を噛み締めた。ユキナリが草の上に下ろしたナーナの前に、跪く。何事かと目を見張るセイの前で、ユキナリもカヅカに倣い、ふたりして、ナーナに、深く頭を下げた。
「都合のいいお願いに参りました。無理を承知で、どうか、お聞き入れください」
 厳かなカヅカの声に、こちらも何事かと、ナーナは助けを求めるようにセイを見た。
「……カヅカ?」
 ナーナの声に、カヅカは堪え切れなくなって、手元の草を握り締めた。その手の甲に落ちた雫は……涙?
「カヅカ、どうした、の?」
 ナーナに、カヅカ、と呼ばれて。
 カヅカは握り締めていた草を引き千切ると、ナーナに投げ付けた。
「嫌よ、気に入らないわ! どうしてわたしが、こんな……っ!」
 泣くもんかと見開いた目から溢れた涙が、零れて落ちた。プライドを傷つけられた瞳で、ナーナを睨む。睨むのをやめたら、歯を食いしばるのをやめたら、全部が崩れ落ちてしまいそうだった。
 街の騒ぎに、母から……いや、御使い様から聞き出した……その内容が。
「おまえが……おまえが真実の神女神ですって!? わたしが、おまえを逃がさないよう監視するためだけの、表向きの、飾り物の神女神ですって!?」
「え?」
 セイがまるで理解できないことを聞いた顔で呟き、ナーナはぺたんと座り込み、目線を、確かめるようにカヅカに合わせた。
「ナーナ、が?」
「そうよ!」
 カヅカは同じ目線に返事をする。ユキナリは目を伏せ、静かにカヅカの言い分を聞いている。
 セイは小川に視線を止めた。
 ナーナは赤い色を消した。それはあの場にいた全員が証言できる。
 街では教会に人々が押し寄せていた。どういうことなのかと、森の少女が何者なのかと。……何者かであった場合、その真実はどこにあるのかと。
 赤い色を消したのは。
 罪びとだから?
 それとも、神、だから?
 ……以前カヅカがナーナに感じた予感はこれだった。嫌な予感、それは、カヅカ自身の未来。ナーナと会い、その後に起こることの予感。
「わたしではなく、おまえが、神なのよ」
 自分で自分を否定しなければならない、
 同じ、目線の先に。
 ナーナは、ふいに気付いたようにカヅカの胸元を見た。
「……入れ物」
 ナーナは確かめるように呟く。なんですって!? と激怒するカヅカの胸の真ん中に手の平を押しつけた。
「その中に、ナーナはカヅカの神様を見たことがある」
「わたし『の』、じゃないわ。わたし『が』、そうであるべきだったのよ!」
「違う」
「違わないわ!」
 違っていいはずがなかった。これまでずっと、カヅカはそう信じてきた。
 カヅカはナーナを見据える。
 ナーナは手の平を軽く握り締めた。
 その瞳の強さ。誇りの高さ。
「……見つけた。やっぱり、いた」
 そう、いる。ナーナにはわかる。
「これが、カヅカの神様。カヅカがカヅカであるための、強い意志」
「なん……ですって?」
 カヅカは無意識に、一歩、退いていた。カヅカが退く姿を、ユキナリは初めて見た気がする。
 くるりとセイに見向いたナーナは、嬉しそうに笑った。
「セイ、いた。神様を見つけた」
「え……あ、うん」
 しどろもどろになんとか返事をしたセイは、ずるっと、その場に手を着いた。また、やられた。ナーナの笑顔はいつだって不意討ちだ。
「セイ?」
 どうしてセイまで座り込むのか、とナーナが覗き込む。真っ赤な顔をしたセイと目が合って、ナーナはまた少し笑う。セイの顔に触ろうとした手が、ついまた躊躇うのを見て、セイはその手を掴んだ。
「ナーナも、ナーナだよ。自分ではまだ見つけられてないだけで、ちゃんと、ナーナがナーナでいるための神様はいるよ」
「……うん」
「大丈夫。穢れてなんかない。他の誰がナーナになにを言っても、おれはそう思ってるから、ナーナはおれだけには、躊躇ったりしないでいいんだよ」
「うん」
 そんなセイと、ナーナに。
 カヅカは自分の胸に手を当てた。ユキナリと目が合った。ユキナリはなにも言わないけれど。
「ナーナ、おまえに……穢れなんて、そんなものは初めからないのよ」
 カヅカは手の平を握り締めて、御使いと呼ばれるあの人の言葉を思い出す。自分が伝えるべき言葉を、自分の口で紡ぐ。
 ……大丈夫。
 カヅカというカヅカの神様は、ここにいる。
 大丈夫。ここに、いる。
「街の神女神は、偽物だもの、いなくなってもいいのよ。わたしの代で終わってもかまわないものなのよ。でも、おまえはダメなの。森の神女神はダメなの。いなくなったらこの街は死んでしまうわ。元の荒れ果てた赤い土地になるのですって」
 御使いは、それを森の神女神の罪だと言った。
「今の豊かな土地は、森の神女神のおかげなのよ。森の神女神がこの街を、泉を清めてきた。清め続けさせるために、逃がさないように閉じ込めてきたんだわ。穢れなんて、閉じ込めた街の人々とわたしたちにこそあれ、おまえには、ないのよ。この街でおまえだけが、穢れてなどいなかったのよ」
 こんな……こんな街を救っているその力が、罪なのだと……。
「……本当にナーナが、神女神さま、なの?」
 セイに、ナーナは慌てて首を振った。
「母様に、そんなこと言われたこと、ない」
「言わなかったんじゃないわ、知らなかったのよ。今までの神女神も御使いも、誰もおまえたちに真実を告げなかった。黙ってきたのよ、この街のためという、大義名分を立ててね。そしてわたしも、それを振りかざすのよ」
 カヅカは、荒げそうになる声を、飲み込んだ。
「次の満月の夜、セイ、おまえには最初の予定通り、罰を受けてもらうわ」
 カヅカはもう一度、きちんと、ナーナの前に跪いた。
 ナーナはまた首を振る。
「ナーナが泉に入れば赤くならないなら、ナーナはこれからはちゃんと入る。赤くしちゃダメだって言われてたけど、どうしたら赤くなるのなかなんて知らなかったから、だから今からはちゃんと……」
「それじゃ、駄目なのよ」
「……カヅカ様」
 気遣うユキナリに、
「だって、ちゃんと言わなきゃ。これがわたしのやるべきことだもの!」
 本当は言いたくなんかない。そんなこと、させたいわけじゃない。でも。
「神女神が神女神であるための力を使えるのは、せいぜい十五年なのだそうよ。それが力の寿命なの、限界なの。わたしも、おまえもね。おまえは、あとはいくら泉に入っても、赤を消すことが出来なくなるのよ。赤は消え切らない。新しい命が……おまえの跡を継ぐ者が必要なのよ。そうすれば、今までそうだったように、その子が浄めた水を飲めば、今、水が赤くなったことなんて人々は忘れてしまうわ。忘れることでこの街は続いてきたのよ。忘れるなんてずるいわ。どうしてわたしたちだけがそれを覚えていないといけないの、どうしてそのために犠牲になるものが必要なのかと思うわ。でも……っ」
 一気に言葉にしたカヅカに、ナーナはきょとんとする。
「……ナーナの……跡を継ぐ者……って? それで、セイの罰って?」
 なにそれ、どうして? という無邪気な顔をナーナにされて、セイは言葉に詰まる。
「え、あの……」
 あたふたとセイはカヅカに助けを求めた。
「新しい命、って、まさか、ナーナとおれの子……って、ええ!? って、望みは適うって、そう言うこと!? でもおれ、まだ十四なんだけど、えーと、あの……っ」
「おまえ、さっき誓ったわよね?」
「え……」
「神女神に、誓ったわよね?」
 神女神に。カヅカに。そして、ナーナに。
「おまえ、年を理由に断るのは勝手だけれど、断ったからって事態は変わらないわよ。今回は森に入った馬鹿ものが大勢いるもの。お母……御使い様が、その中からおまえでない誰かを適当に決めるだけよ」
「適当って……」
「だからおまえは断らないわ。いいのよ、そんなことはわかってるから」
 カヅカは、目の前のナーナの肩を、掴んだ。
「でも、あなたは、ミクみたいに逃がしてあげられないのよ。ここにいてもらわないと、困るの。街を殺すわけにはいかないの。偽物でもなんでも、わたしにはやっぱり、そうお願いする義務があるのよ」
 肩を、強く掴んだ。もう他には、言うことが見つからなかった。
「……ごめん、なさい」
 そして、お願いします、と。



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