これは、ずっと昔の話。
まだ街がずっとずっと小さかった頃、到底、街などと呼べるような街でもなかった頃、人々は彼女と上手く暮らしていた。
その街の土地は赤く、ろくに作物も実らずに人々はうんざりと暮らしていた。けれど彼女が現れるようになってからというもの、土地の赤味は薄れ、作物が育つようになった。
彼女は偶然見つけた森の泉が気に入ったので来ているだけだ、と言う。人々にはそれで十分だった。感謝してもしきれないほどの感謝を彼女にしていた。
彼女がどこから来たのかも、いないときはどこへ戻っているのかも、人々は知らなかった。ある日聞いてみると彼女は、あそこから、と青く澄んだ真上の空を指差した。
人々は彼女と一緒になって空を見上げた。
人々は、長い黒髪の奇麗な彼女のことを、神の使わしてくださった女神さま、と呼ぶようになった。
彼女がやってきている間は作物が良く育つ。
はじめ、人々はそれだけのことに満足していた。
けれど、それだけのことに満足し切れなくなるのに、たいした時間はかからなかった。彼女のいる日は作物が育つ。が、いない日は育たない。
なぜいなくなるのか、ずっといてくれ、と人々は彼女に頼んだ。ところが彼女は、自分には帰る場所があるから、と言う。
人々は考えた。
では、帰り道のすべてを閉ざしてしまえ。
彼女を閉じ込めろ。空へ帰ると言うのなら、空も閉ざしてしまえ。
これで彼女は逃げられない。
彼女を、閉じ込めろ!
そんな壁を作ることができたのは、教会で働いていた少女だった。不思議な力を持っていたため怖れられていたはずの少女は、その日から森の神を守る、街の女神になった。
初め、人々は森の神女神も街の神女神も敬っていた。けれどやがて、こう思うようになる。
この土地は森の神女神に支配された土地だ、と。
いつしか彼女を閉じ込めたことを忘れ、彼女に、自分たちこそがこの土地に縛り付けられているのだと思い込むようになった。彼女がいなければ作物が育たない、よくもこんな土地にしたな、と。
おまえのせいだ。
なにが神女神だ。
人々は森の神女神から、神女神の名を取り上げた。
街にふたりいた神女神は、ひとりになった。本当の神女神は彼女だったのに、時が経つにつれ、人々は森に近付くこともしなくなった。
『おまえのせいだ』
それは彼女が、最後に人々から聞いた言葉。
それが、彼女に残された言葉。
もう誰もそんなことを言わなくなっても、彼女にだけ言葉は残った。
おまえのせいだ、と。
だからこんなところに閉じ込められているのだ、と。
それがいつしか、こんなところに閉じ込められている理由になった。
年月を経て、自分が何者であったのかも忘れてしまっても、それだけが残った。
自分のせいだ。
自分には罪がある。穢れている。
彼女たちは代々、そうであることを母から聞かされてきた。否定してくれるもののいない中で、彼女たちは自分がそうであると思い込んできた。
彼女たちが彼女たちであるという価値は、彼女たち以外のものが決めた。
彼女たちは物を食べるという食事をしない。泉から栄養を摂る。そのために泉に入ることで泉の水は浄められた。浄められた水は、小川から街中に流れ街中を浄めた。けれど彼女たちは、自分が街を浄めているなどということは知らなかった。
鐘や森が毎朝毎夕知らせてくれるのは、食事の時間だと思っていた。そうしなければ水が赤くなることも知らなかったし、そもそも、水を赤くするなと言われていたけれど、どうすれば赤くなるのかも知らなかった。
ナーナはただ、食事を取らなかっただけだ。ナーナにとっては、それだけのことだった。
でも街は、たった数日で赤色に染まった。
人々は街中を流れる川の赤をたどって、森へ、やってきた。
◇
「やめろ、やめろよ!」
たったひとりであることの非力さを思い知るのは、こんなときだ。
セイは数え切れない人々に取り押さえられながら喚いた。喚くことしか出来なかった。
街の人々はナーナが奇麗にした小川を見て、躊躇いなく森に踏み込んできた。あっという間だった。
あっという間に、引き離された。
「ナーナ!」
ぐったりしたままのナーナは、騒ぎにも目を覚まさない。
森は強く吹く風にざわめき、セイと同じ侵入者を排除しようとするけれど人々は次々にやってくる。きりがない。きりがないことを悟ると、あとは静かに、ことの成り行きを見守ることに決めたようだった。
森は静まり返る。
ざわめきは、
人々のもの。
ナーナの姿は、幾人もが持ついくつものランプに照らし出されて、青白く見えた。
ついさっきまで……。
ついさっきまで腕の中にいたのに。
セイは、今はナーナの名前を叫ぶだけだ。
ナーナと引き離されると、セイのシャツは、また赤くなった。
『やっぱりあの少女だ』
人々が言う。
『なんだか知らないが、あの少女の周りだけ赤くないぞ』
『見たか? 川の水の色を元に戻したぞ』
『そのまま川の中に放り込め』
『奥に泉があったぞ、そっちに連れていって沈めてしまえ』
人々はナーナを担ぎ、セイをずるずると引っ張って、森の奥へと向かっていった。
森を照らし出すランプがゆらゆらと、昼間とは違う昼間を森に作り出した。
その光景はまるで、大きな……大きな渦のようだった。ぐるぐるぐるぐる悪夢みたいで、セイはいっそすべてが夢ならいいと思った。
目が覚めたらナーナと二人、手を繋いで、ただ昼寝をしていただけ、そうだったらどんなにいいかと思うのに。
目は覚めない。
『いくぞっ』
聞こえたのは、そんな、かけ声。
見たのは……見せられたのは、どろどろの赤が湧いてくる泉に、人としてではなく、浄化剤かなにかのように、ぽんと、投げ込まれたナーナの姿。
「ナーナ!!」
ナーナ。
と、喉が切れるほど叫んだ。そんなことであの子が助かるのなら、いくらでも叫ぶ。
お願いだから、届いて。
……ナーナ。
ナーナ。
と。
……声が聞こえた。
『ナーナ』
それは、ナーナの名前。
自分の、名前。
目を、開けたら、夜だった。……違う、赤色だった。濃い赤色を、夜と間違えた。
ここはどこ? この冷たさは……泉の中? どうして、こんなところに……。
あれは……なに?
白い、たくさんの光が赤い泉の水の向こうに見えた。
雪、だと思った。……違う、雪ならいいのに、と思ったのだ。
一緒にゆきうさぎを作ろうねと約束した。
誰と……約束をしたっけ?
『ナーナ』
……そうやって名前を呼んでくれた人……。
……セイ?
ナーナは目を凝らして、白いたくさんの光を見た。
白いたくさんの光はランプのようだった。水越しに見えたのは、人間の形をした黒い影だった。ふやけたランプの光が、意志を見失って蠢いているみたいで、気味が悪かった。
息が苦しくなって水から上がろうとしたら、棒かなにかで頭を押さえつけられた。
息が出来ない。
もがいてももがいても、水から出られない。
『ナーナ!』
呼ぶのは誰?
どうして、呼ぶの?
……セイ。
やっぱりこれは悪夢なんだ。
セイは息を飲んだ。
泉の水はすぐに奇麗になったのに、みんなが木の枝を持って、みんなしてナーナを泉から出さないように押さえ付けている。
ナーナにはあんなに熱があったのに。ナーナの体調が悪いことに気が付かなかったわけがないのに、こんなの、普通じゃない。
「ナーナ、ナーナ!」
セイは、ナーナの名前だけ、呼んだ。
そうすることが気に入らない連中に殴られても、蹴られても、ナーナを呼んだ。
そうすることしか出来ない自分に、泣けるほど、腹が立った。