ナーナは座り込んでいる力もなくなって、倒れるように横になった。体がしだいに重くなっていくのだけがわかった。
『じゃあね』
最後に聞いたのは、そんな言葉だった。
それからずっと、この場所にいる。一日、二日と時間が経つごとに体は重くなって、ますますこの場所を移動する気力がなくなった。
初めの頃は、憤りしかなかった。
『ほら、母様の言うことに間違いはなかったでしょう? 誰も、好きになんてなってくれるわけないのよ』
これは、母様の声。
たまに目を開けると、暗闇の中に細い月が見えた。月は目を開けるたびに膨らんでいく。
目を開けると、嫌でも月が目に入った。気が付くと夜が来ている。気が付くと、月が膨らんでいる。
「……いや……」
体が重い。口を開くのも重かった。
……セイ。
もう二度と呼ばない名前。
……母様。
もう、二度と呼ばない名前。
他に、呼ぶことの出来る名前がない。
『おれを嫌いにならないで。ナーナを裏切ったなんて思わないで』
これは誰の言葉だった?
知らない。もう、どうでもいい。
もうなにも、思い出したくない。
ナーナは若い草の上に横になったまま目を閉じる。
次に目を開けたときには、月が欠け始めているといい。
そうでないなら、二度と、目なんか覚めなくていい。
……目を、閉じる。
ナーナが目を閉じると、森は、その機能のすべてを停止してしまったように静かになった。
風は遠慮がちに木々の間を通っていく。葉のぶつかる音もしない。木々は昼間、ナーナの眠りの邪魔をさせぬよう陽の光を覆ってさえぎった。
その時間が来てももう、ざわざわとナーナを急かしてその場所へ導こうとはしなかった。諦めたように、ナーナの眠りを助けることに専念した。
森は静かに、森を閉ざしていた。
体が浮き上がるのを感じた。
目を開けると、セイの顔があった。
夢だと思った。だからまた眠った。
セイの向こうにかすかに見えた月は、オレンジ色の上弦の月だった。
◇
「……っ!」
言葉が言葉にならなくて、セイはいい加減に泣きたくなった。
なんだってんだよっ。
声にならないので、仕方なく心の中で毒突いた。
文句を言いたいのは、森に対して、だ。
第一関門は森の入り口だった。
全力疾走でたどり着いた森の入り口はどこもぴたりと閉ざされていた。セイが森を出ていってからほんの数日で草は高く伸び、木々の枝からぶら下がった蔦は伸び放題になって入り口を塞いでいた。分け入ろうとしたら、ぺしっ、と蔦がおでこを叩いた。
「…………」
まさかね。と思って再び挑戦する。ぺしぺしぺし、と蔦も草も一緒になってセイの頬やら腕やらをはたいて、最後には、ぺっ、と木の枝に殴られてしりもちを着いた。
嘘だろ……。
セイはアッパーを食らった顎をさすりながら、途方に暮れて森の入り口を眺めた。
気を取り直して真っ暗な森の奥へと突入を決意したとき、嫌な臭いが鼻をついた。かび臭いような土臭いような鉄臭いような、あの臭いだ。まさかと思って辺りを見回せば、夜の空間が赤く見えた。
水音に見向けば、森の泉から流れてきている小川が、まるでペンキでも流し込んだようにどろどろの赤に染まっていた。腐った沼のようにごぽごぽと沸いた泡が、水面で破裂するたびに赤いガスを吐き出している。
「……なんだよ、どーなってんだよ」
セイは覚悟を決めると、小川の中に足を突っ込んだ。小川なら、少なくとも足元の草に邪魔されることはない。入った途端水の流れが勢いを増したような気はしたけれど、小川は赤を吐き出す事の方のが忙しそうだった。
そうしてなんとか森に入り込んだセイを待ち受けていた第二関門は、風、だった。
強い風がセイを森から押し出そうとする。ナーナがもっとずっと森の奥にいたのなら、どうやってもたどり着けなかったかもしれない。
半月の明かりの下、ナーナはあの日別れたその場所に倒れていた。白い姿が夜の中に浮かび上がっている。
「ナーナ!?」
ところが今度は、そう叫んだ声が、届かない。声を出した途端、風が声をどこかに持っていってしまうのだ。
森にあるなにもかもが、ナーナの眠りを妨げるものを許さない。
風に押され、セイはナーナの脇に倒れ込むように膝を着いた。
ナーナの頬にも唇にも、血の気がなかった。ナーナに近付くほど、ナーナの周りに暖かい風が吹いているのがわかった。
風がナーナを守っているのだと思った。
でも。
でも、違った。ぜんぜん違った。
前髪の揺れるナーナの額に触ってみてやっと気が付いた。暖かいのは……熱いのは、ナーナの体温だった。風はナーナの熱を取ろうとしているのに、それが追いつかないほどナーナの体温は高くなっている。
セイはナーナの頭を抱き寄せた。
……熱い。
ナーナは力なくぐったりしていて、辛そうにまぶたを閉じている。呼んでも声は届かなくて、こんなに近くにいるのに届かなくて、セイは、ナーナを抱きしめた。
そして、息を飲み込んだ。
いつも真っ白なナーナのワンピース。
ワンピースは今も白いままだ。その白が、セイにも移ってくる。ナーナの体温を感じるのと同じ速さでセイに移ってきて、赤茶になっていたセイのシャツを真っ白にした。小川に入ってべったり赤くなっていたズボンも元の色に戻った。奇麗な空気が二人を守るように包んで、薄汚れた赤色の空気と臭いを遮断した。
「……え?」
一体、どういうことなのか。
考えながらナーナを抱き上げ、その軽さにびっくりした。びっくりしたところを風に足元をすくわれて、セイはナーナと一緒に小川に転がり込んだ。
途端に、小川の赤がすっと消えてなくなった。
夢でも見ているようだった。
上流からは次々に赤い水が流れてくるのに、二人の間をすり抜けた水は、その瞬間から元の通りの透明の、水色の水の色になった。セイもナーナもびしょ濡れなのに、決して赤くはならない。
赤く、ならないのだ。
セイは抱えたままのナーナを見下ろした。
……ナーナだ。
水の赤を消し、浄化しているのは、ナーナだ。セイであるわけがない。
これは、カヅカがミルクの色を戻したのと、同じ力。
……ナーナが、カヅカと同じ?
ナーナが水の冷たさに表情を歪める。セイは慌てて水から上がった。小川はすぐに赤色に戻ってしまった。
セイはナーナの熱い体を守るように抱きしめた。もしも……。
もしも、今の様子を誰かに見られていたらと思うとぞっとした。思わず辺りを見回した。その目が、絶望的に見開いた。
セイと同じように小川をたどって森に入り込んできた人々が、セイとナーナを、獲物を見つけた目で見ていた。