〜 赤い色5 〜




 カヅカはたどり着いた部屋のノブを回して眉間を寄せた。鍵が掛かっている。そこへ、等間隔に並べられた廊下の灯の中、夕食を運んでくるものが現われた。両手に一つづつ持っていたトレーを、カヅカを見て仰天して、取り落とした。ツルマだった。
「おまえ、近頃見ないと思ったら、こんなところにいたの」
 屋敷の離れにあたるその棟には、滅多に人は立ち入らない。
「はい、あの、御使い様に、足が良くなるまで簡単な仕事に就いていればいいと仰って頂いて。でも、あのっ……」
「くれぐれもわたしやユキナリには見つかるなと、お母様に言われていた?」
「はい、いえ、あの……」
 どうやらその通りらしいツルマにカヅカは吐息する。
「この部屋の鍵を持ってきなさい」
「でも……」
「いいから、持ってくるのよ! おまえ、わたしの、神女神の言うことを聞かないでただで済むと思っているの?」
 脅しに弾かれたように、ツルマは今来た道を駆け戻っていった。
 カヅカは廊下にぐちゃぐちゃになって残されたままの食事を見下ろした。赤い色のミルクに吐き気がした。こんな食事を平気で運んでくるところを見ると、ツルマにはまだまったく、赤色は見えないらしい。
 あと六日。
 母が……母親だと思っていた人がそんなことを言ったのは、つい先程のことだ。壁にもたれてそのまま座り込みたくなる。
 あの人は誰と誰が親子でないと言ったのだろう。誰と誰が兄妹なのだと言ったのだろう。
 冗談じゃ、ない。
「……あの、お姫、さま、これを……」
 声にはっと見向いた。ツルマが鍵を差し出している。カヅカはそれをひったくると、ツルマを追い返し、ドアの鍵を開けた。
 そのとき、外に出ていった空気に色があった。カヅカは慌てて見返る。けれど部屋の中、倒れている人影が月明りに浮かび上がって、すぐにその空気のことを失念してしまった。セイに、飛びついていた。
「セイ……っ」
 ぐったりと倒れ込んでいる。揺すってみるが起きない。目一杯力を込めて頬を叩いたところで、やっと、セイは大あくびをした。 
「おまえ、寝てただけなの?」
「だって、他にやることないし、動くとますますお腹空くし……赤くって、もう二日もろくに食べてなくってぇ……今じゃなんか周りの空気も赤く見える…………」
 寝惚け眼を擦ったセイは、目の前のカヅカの姿に一気に目が覚めて、後退さった。
「え、カヅ……神女神、さま!?」
 なんだかけっこう、元気そうだ。
 おかげでカヅカはムカついた。
「おまえには、ドア蹴破ってでもあの子に会いに行こうという根性はないの!?」
「え、ええ?」
 思ってもいなかった怒られ方をして、セイはまた後退さる。
 二人の間に、グラスに入ったミルクがぬっと差し出された。磁石が反発するように二人は赤いミルクから思い切り離れた。ミルクを持って現われたのはユキナリだった。
 カヅカは一瞬、どういう反応をすればいいのかまったくわからなくなった。ユキナリを見上げて、それきりで。
 ……兄、だと。
 この無表情、顔の筋肉なし男が兄だと……。
 一方ユキナリも、そうは見えないけれど困惑していた。
 ……妹、だと。
 父も母も同じ妹。父も母も同じなのに、生まれるべきではなかった自分。望まれて生まれた、カヅカ。もしも自分が女に生まれていたのなら、出会うことのなかった、妹。
 大切な……。
 ミルクが、グラスの中でちゃぽんと波打った。カヅカが、ユキナリの腕にしがみついていた。
「……ユキナリ、おまえ……」
「……なんです?」
 聞き返されて、カヅカは泣くと思った。でも、泣かなかった。ふと、なんで泣かなきゃいけないのか、とも思う。
 ユキナリが傍にいるのなんて当たり前のことだ。不承不承今まで当たり前だったように、これからも当たり前であるだけなのだ。その形が、自分が望んでいたものの通りなのかどうなのか、そんなことは知らない。
 いや、望んでいたものの通りに決まっている。望んで叶わないことなど、カヅカにはなにもない。そのための、それゆえの神女神であったはずだった。
『偽りの、街の神女神……』
 そんなのは嘘だ。
 自分は、神女神、だ。
 腕を、強く、掴んだ。
「おまえ、わたしの傍に、いなさいね」
 腕の温もりをユキナリは感じていた。
 カヅカに強く腕を掴まれた。
 その温もりは、ユキナリの望んだものだったのだろうか。望んだものと、同じ形のものだったのだろうか。その形で、カヅカを大切にしたいと思っていたのだろうか。
 知らない。そんなことわからないけれど。
 変わらず、傍にいろと言ってくれる女の子。
 変わりはしない、なにも。
 今さら、誰かになにか言われたからといって想いを曲げるなど、まっぴらだ。そう、冗談じゃない。
「そうですね」
 答えた途端、持っていたミルクが赤く見えた。
「おまえにも、赤く見えるの?」
「今、急にですが」
 カヅカがグラスを受け取る。すると、ミルクは一気に白色に戻った。これくらいは朝飯前だわよ、とカヅカが胸を張る間もなく、セイがグラスを取り上げて飲み干した。
 ミルクが、食道を伝って胃にたどり着く感触に、少し満足する。
「お腹減って死ぬかと思った。なんで赤いの? まさかおれのだけ赤くて、これが罰とかいうんじゃないよね」
 やたらとのんきなセイの横っ腹を、カヅカは踵で蹴飛ばした。
「あの子のせいよ!」
「え?」
「延いてはおまえのせいだわよ! あの子が食事してないってどういうことなの!? あの子が食事をしなきゃ、どうしてこんなことになるって言うのよ!」
「……ナーナが、食事して、ない?」
 セイは身を乗り出して確認する。頷いたユキナリが、言いにくそうに言った。
「このまま餓死してしまうのではないか、と」
 さすがにカヅカもぎょっとした。
「誰がそんなこと言ったのよ」
「ナーナの母親です」
 さらりと言ったユキナリに、セイは呆然とした。
「ナーナの母さんて、生きてたの? 消えたって言うから、死んだのかと……じゃなくて、食事だよ、ナーナの。ええ!? まって、だって、じゃあ、おれはなんのために……」
「なにが、なんのために、ですって?」
 セイは、空になったグラスを両手に強く包み込んだ。
「だって、あんなふうに言っとけば、誰もナーナに近付かないと思ったのに。そうしたらナーナは、おれがいないだけで、今までの生活に戻ると思ったのに」
「それにしてはひどい別れ方をしたそうじゃないの」
「だって、だからそれは、みんな、ナーナを見ただろ。それで害がないってわかったら、みんな森に入る。そんなの、冗談じゃないって思ったんだ。あんな顔させたくなかったけど、おれ以外の誰かに笑いかけるくらいだったら、おれにだって笑ってくれなくていいと思って……」
「……やっぱり馬鹿だったわね」
 わたしに間違いはないのよ、とカヅカはユキナリに確認する。ユキナリは特に否定しない顔をした。
「いいよ、どうせ馬鹿で。おれ、本当にあの子しか見てたくないんだ。あの子に、ほかの奴なんて見てほしくないんだ」
 言葉に、カヅカとユキナリは顔を見合わせた。カヅカは、仕方なさそうに吐息した。
「おまえの望みは、次の満月の夜に叶うわ」
「は?」
「というか、おまえが望もうが望むまいが、あの子はおまえの子を生むのよ」
「なんだよ、それ……」
「それがおまえの罰よ。それが、今までもこれからも、禁じられた森へ入り込んだ間抜けな男の罰なのよ」
 カヅカはユキナリの腕を、強く、掴んだ。
「そして御使いになったわたしは、今のお母様の代わりに、あの森に壁を作るのですって。ユキナリとミクの子供を……自分の娘にして」
 それが、この街で繰り返し、繰り返されてきたこと。これからも繰り返されて行くであろうこと。
「……壁? 壁ってあの壁のこと? 御使い様がナーナを森に閉じ込めてるってこと!? なんで、そんなっ」
「あの子がこの街の罪だからよ!」
「嘘だ!」
「だったら、なぜ街が赤くなっているの!? なぜ……」
 そう、なぜ、
「なぜわたしに知らないことがあるのよ。罪が、あの子がなんだっていうのよ。なぜお母様は………っ」
 言いかけた言葉を飲み込んで、カヅカは息を吐き出した。
 セイはカヅカが言葉を飲み込む姿を初めて見た気がした。
「御使い様が、なに?」
 セイが、御使い様、と口にする。
 それはカヅカの母。……母だと、思っていた人。
「……いいえ……」
 言葉をまた、飲み込む。
 ……カヅカは、言わない。
 セイはまだ明るい窓の向こうの空を眺めた。
「じゃあ、次の満月の夜ってなに?」
「あの子の誕生日よ。十五に、なるわ」
「誕生日……」
『月は、嫌い』
 頭の中に、残る声。
 ナーナの声。
 セイの目の前で、カヅカはユキナリの腕を掴んだままでいる。
 このふたりは、いつも一緒だ。この先も一緒にいるんだろうと、そんなふうに思っていた。
 でも、カヅカは確かに言った。
『ユキナリと、ミクの子供を……』
 と。ミクが誰かなんてセイは知らない。でも、カヅカでないということは、わかる。じゃあ、
『ずっと傍にいなさいね』
『そうですね』
 その言葉は、どこに行くんだろう。
 色々な、大切にされるべき想いは、どこに行くんだろう。
 どこに……?
 ……どこに、なんて、そんなこと、誰が決めたのか。
 誰がなんのためになにを想って決めたのか。
 どうして、大切にしたいと思ったものを、大切にできないなんてことになったりするのか。いったいどんなものに、そんなことをする権利があるのか。
 大きなものに巻き込まれて、そこではもがいてももがいても身動きできない。
 動けない。でもそれが当たり前の世界だと思えば平気なんだろうか。
 平気に、なるんだろうか?
 そんなのは、ごめんだ。
 冗談じゃない。
 セイはグラスをユキナリに返すと、立ち上がった。
「おまえ、どうするつもりなの?」
「知らない。でも、ナーナと一緒に考えるって、約束したんだ」
「……あの子のところへ行くの? あの子がこの街の罪でも? この先、おまえやあの子に、なにが起こっても?」
「でも、行く」
 他に行く場所なんかない。行きたい場所なんて、ない。
 セイは部屋から出ていく。
 カヅカもユキナリも、セイがそうするのを止めることはしなかった。


      ◇


 扉を開けたとき、ミクは姿勢正しく椅子に掛けて、窓の外を見ていた。他にはなにもしたくない、していたくない、そんなふうにカヅカとユキナリには見えた。
「ミク」
 セイの隣の部屋の鍵を開け声を駆けたカヅカに、ミクは振り返りもしない。
「ミク」
 ユキナリの声には過剰に反応して、がたりと、椅子から転げ落ちた。
「いや……です、わたし……」
 もう流す涙もない、そんな疲れきった顔で、けれど必死にどこかへ逃げようとする。カヅカの指示でユキナリが部屋の外に出ると、幾分、落ち着いたように見えた。
 カヅカは手にしていた封筒をミクに渡す。なにが入っているのかとミクは怯えた様子を示したけれど、カヅカに言われて中身を覗くと、今度は、なにがどうなっているのかわからないという顔をした。ミクの給料の何カ月分にもあたる大金が入っていた。
「街を出なさい。外にシドを待たせてあるわ。一緒に、行きなさい」
「お姫……さま?」
「いいから、行きなさい」
 大きく頭を下げて部屋を駆け出していくミクを見て、良かったと、そう思えたことにほっとした。
 ミクはセイと違う。街をうろついても誰も不審がったりしない。ましてこの夜の中だ。ユキナリが馬を用意した。無事に街を出ることができるだろう。
 けれど、ひとまず安心したのも束の間だった。
 すでに街中が騒ぎ始めていた。
 街のものの中でセイだけが気付いていた赤色の空気が、街中に広がった。空気はすぐに、白いものもそうでないものも赤に染めていった。
 白い神女神に守られていた白くあるべき街。その街中が、薄汚れた赤になった。




〜 赤い色 おわり 神女神へ 〜