〜 赤い色4 〜




 祈ったこともあった。
 でも無駄だった。「あの人」に、気持ちなんて届かなかった。
 少年は辺りを見回して、木々に囲まれたその状況に、やっと、自分が森に迷い込んだことを自覚した。ちょっと泣きたくなった。
 いっそ街の外なら、見渡す限りの荒野を、地平線を見ながら進んでいけたのに。森ではどこを見ても木があるばかりで、右も左もわからない。まだ昼を過ぎた頃だろうか。陽は高い。
 うろうろしていると、泉に出た。急にお腹が減っていたことを思い出して、水を飲んだ。飲んでいたら、突然、背中を突き飛ばされた。油断していた少年は頭から泉に突っ込んだ。
 必死で這い上がると、少女が、今まで少年が座り込んで水を飲んでいた場所にちょこんと座っていた。
 少年よりも少し、幼い少女だった。
 真っ直ぐな黒い髪が肩口で揺れていた。
 黒い大きな瞳が、少年をじっと見つめる。
 小さな赤い唇が、無愛想な声で言った。
「たくさん、お食べ」
 少し、舌足らずだ。
「食べる……?」
 なにを? と尋ねると少女は泉を指差した。
 少年は確認するように泉を眺めた。
「水……?」
 少女がこっくり頷く。少年は水際に引っ掛かったまま少女を見つめた。他にどうすればいいのか、よくわからなかった。
 少年のくしゃみで、少女が驚いたように瞬きした。少年も、自分のくしゃみで我に返る。
「食べる、んじゃなくて、飲むんだよ、水は」
「飲む?」
 不思議そうな顔をされた。
 どう答えればいいんだろう。というか、なんでこんなこと真剣に考えてるんだろう、と少年が思ったとき、優しい手に水から引き上げられた。
 長い黒髪の、大人の女だった。
「こんなに冷えてしまって。かわいそうに、迷ってしまったの? ナーナ、街の人間にややこしいことを言わないのよ」
 女は、冷えきった少年を温めるように抱きしめた。少年も、暖かい女に抱きついた。でも、ふっと、その手を緩めた。
「どうしたの?」
 少年は首を横に振るばかりだった。そのうちに、逃げるように女の手の中から飛び出す。泉に映った自分の姿を眺めた。
 穢れていると「あの人」が言った姿だ。
 あの人は、抱いてくれたことなんてなかった。笑顔をくれたことすらなかった。何日か前に、鐘守りの屋敷の使いだという人がやってきたとき、あの人は喜んで言った。
『さっさと連れていってちょうだい』
 と。
『女の子だったら……この子が女の子で生まれてくれば、私はさっさと一人に戻って、やり直すことができたのに。こんな子だけが手元に残ってしまって。なぜ、力も持たない男の子なんて生んでしまったのかしら、穢らわしい』
 少年は表情のない顔で、あの人の言うことを聞いていた。もうそれは毎日聞かされていたことだったから、改めて感情は生まれてきたりしなかった。
 自分のことをただの一度も「母」と呼ばせなかったあの人は、連れていかれる少年を見送ることもしなかった。振り返りもしなかった。振り返らなかったあの人の背を、少年は覚えている。少年は、何度も振り返ったのに。
 ……あの人が、穢れていると言った。
 屋敷の人たちは、みな優しかった。誰も少年を穢れてるだなんて言いもしなかったし、思ってもいないようだった。
 でも、あの人は、穢れていると言った。
 刻まれた言葉は、心に残った。
 刻まれなかったあの人の温もりと一緒に、冷たく、心に残った。
 言われ続ければ、人はいつかそれになってしまう。どんなに自分が違うと言い張っても、周りが言い続ければ、それが正しいことになる。本人の意思なんて関係ない。いつだって正しいのは、大勢のものの意見。たった一人では逆らい切れない。
 立場も価値も、自分が決めるんじゃない。いつだって、周りが決める。周りが「そう」いえば、「そう」なのだ。
「暗くならないうちに帰りなさい。川に沿って歩けば街に出るわよ。森へ入ってはダメだと言われているでしょう? だから、内緒にしておきなさい。大丈夫、黙っていればわからないわ」
 黒髪の女は、泉に映る少年を一緒に覗き込んで、優しく、唇に人差指を押し当てた。
「でも……」
 少年は泉の中で目が合った女から、目を逸らした。
 逃げてきたのに。
 だから、帰れるわけないと、思っていた。
 自分の指先を見つめる。伸びすぎた爪。親指の爪が、深く割れている。
「いらっしゃい」
 女は少年の手を引くと、木陰で爪を切り始めた。ぱちんぱちんという音が、静かな森に響いた。
「……あの子に、怪我を、させたんだ」
 あの子、が誰なのかなんて女は聞かなかった。女にとっては誰でもよかったのかもしれない。でも、言葉は優しかった。
「そう。じゃあ、ちゃんと謝らないと」
「でもっ、我儘な子なんだ。きっと許してくれない。あの子のお母さんも、僕に優しくしてくれたけど、きっともう、怒ってる」
 引き取られてから、一番優しくしてくれた人だった。でも、その優しい人はあの子の母親だから、あの子が一番大切に決まっている。……多分、普通は。
「僕、助けてあげようとしたんだ。あの子、いつも走り回ってて、転びそうになるの、いつもはうまく助けてあげられるんだ。みんなに大切にされてて、僕も大切にしてあげたいんだ。でも、爪が引っ掛かって……」
 割れた爪があの子の手に食い込んだ。左手親指の付け根の辺りだった。血が出た。爪が肉に食い込んだ感触を、今でも思い出せる。
 大切に大切にされていたあの子。
 当たり前だ。あの子は、神女神さまなのだから。
 そんな子に、傷を付けた。
 どうしよう。
 ……どうしよう。帰る場所が、ない。
 どうして自分ばかりこんなふうなのか。帰るべき場所なんてない、いっそ消えてしまえればいいのに。でなければ、ずっとこの森にいようか。
 子供心に、少年は本気でそう思っていた。
 けれど森には……。



 ……森には食料がなかったのだ。
 そんなことを思い出しながら、ユキナリは廊下を歩いていた。
 だからこそ、あのときのことは夢だったと思っていた。食べ物のないところに人は住めない。あそこにいた親子のことも夢だと思っていた。
 夢の中で、森を出る自分をあの少女がずっと見ていたのは覚えている。ユキナリは振り返らなかったのだけれど、そんな気配がしていた。でも記憶にあるのはそれだけで、そもそもどこをどうして屋敷に戻る気になったのかもはっきり覚えていなかった。まだかなりまともだったあの女にうまく宥められたのかもしれない。
 はっきり覚えているのは、カヅカのことだけだった。
 手に包帯を巻きながら、それでも、怪我についてはなにも言わなかった。ただ別の意味でたいそうご立腹しながら、こう言った。
『おまえが、かくれてしまってどうするのよ。どうしてわたしが、おまえを探さなくちゃいけないの』
 同じ年頃の子供がまだ他に屋敷にいなかった。理由はそれだけだったけれど、いなくなったユキナリを必死に探したのだろう。カヅカは泣きそうになるのを我慢して強気で訴えてきた。
『もういなくなっちゃダメよ。おまえ、わたしのそばにいなさいね』
 傍にいろと言ってくれた。
 それがすべてだった。
 唯一の存在になった。
 だから、自分が穢れているとは言えなかった。言えば、傍にいろなんて言わなくなるはずだった。穢れている人間を、穢れているとわかっていて一緒にいるなんて、考えられなかった。
 幼かったせいだろうか? そうでなかったのなら、森で見たナーナやセイのように、自分もカヅカを信じただろうか? 穢れている。それでもいいと言ってくれる人を、信じることが出来ただろうか?
 それを確かめたくて、穢れているなどと、十一年も隠してきたことを口にしてしまったのだろうか。だとしたら、ずいぶん子供染みている。けれどそれも仕方のないことだ、とも思う。
 実際、ユキナリはそれほど大人でない。
『わたし、おまえをさがしてずいぶん、かってに出歩いたのよ。だからこんしゅうは、三十回数えるのは、おやすみにするわ。そのぶんちゃんと、おまえはわたしの、そばにいるのよ』
 自分の年を三十回数えなさい。
 初めはただの、かくれんぼだった。いつのまにか、それがカヅカの唯一の自由時間になったけれど。
「じゃあ、僕五歳だから……」
「五さい!? わたし四つなのに、おまえ、そんなに大きくて五さいなの!? おまえはきょうから七さいよ」
 たくさん数えさせようと、カヅカが勝手に歳を決めたのだ。
 学校に行っていたわけでもない。歳なんてどうでもいいと思っていた。けれど。
『私はナーナを二年もの間、身籠もっていたのよ』
 女は最後にそう言い残していった。
 正確にはカヅカと一つしか違わない自分。同じ歳の、カヅカとナーナ。
 夢だと思っていたナーナという少女は、本当に森にいた。
 ……いた、のだ。
 ユキナリは突然立ち止まった。かと思うとランプの灯を抱え込むように壁際に隠れた。……別に隠れることはなかった。なにをやっているのかと、我ながら思う。
 交差した廊下をカヅカが横切っていったのだ。
 ……それだけだ。




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