〜 赤い色3 〜




 クリームシチュー、のはずだった。
 カヅカの好物はクリームシチューで、ビーフシチューではない。
 シチューの皿を見て困惑した表情を浮かべるカヅカに、食事を運んできた女はどうかなさいましたか、とご機嫌を伺う。カヅカの見つめる皿を一緒に覗き込むけれど、食事の手を止めるほど不自然な点はなにもない、ように女には見えている。
「おまえには、見えていないの?」
 カヅカは眉をひそめた。それはどういうことなのか。
 もしかして巷では赤いシチューが流行っているのか。それにしては濁っていて変な赤色だ。皿を持ち上げてみた。カヅカの体温に触れると、シチューは本来そうであるはずの白色になった。
 それはどういう意味なのか。
 ……穢れている? まさか、この自分に出される食事が?
 カヅカは食事を中断して、母の部屋へ出向いた。御使いと呼ばれる彼女の部屋にもカヅカと同じ食事が運ばれていたけれど、彼女はランプの明かりを頼りに読書をしていて、食事に手をつける気もないようだった。
「お母様……」
 カヅカは、目を疑った。母の衣が、スープと同じ色に見えた。
「あなたにも、見え始めたのですね」
 彼女は、カヅカを待っていたようだった。本を、栞も挟まずに閉じた。
「街のものたちがあなたのように気が付いて食事を取れなくなるのも、時間の問題でしょう。穢れの少ないものたちから気付き始めます。まず幼い子供。それから信仰の厚い老人、そこまで来たら、後はもう止められません。月が満ちるのと同時に、すべてが赤になるでしょう」
 カヅカは彼女のスープを見た。レンガにする赤土を混ぜたような、そんな色をしていた。一度気が付いてしまうと、すべてがその色に見えた。スープも母の衣も、壁紙も空気すら。
「……お母様は、こうなることを、ご存じ、だったの?」
 カヅカにしては珍しく、歯切れの悪い言葉だった。なぜなら。
「誰でも、大切なものと引き離されるのは辛いものでしょうからね。食事もしたくなくなるほどに、ね」
 なぜなら、彼女は笑っていた。
「ユキナリの報告で、森の少女とセイが仲の良いことは知っていました。今、森の少女はひとりぼっちになってしまって寂しいことでしょうね? おかげで、街のものたちは薄汚い赤に染まってしまう」
 彼女は窓の外の夜を見上げる。カヅカも彼女の隣に立ち、同じ仕種をした。上限の月が、気味の悪いオレンジに光っていた。
「でも、それも満月の夜までのこと」
「満月……? お母様はなにをご存じなの? 策があるのなら、満月など待たずに早急に手を打つべきではないの? 教会の鐘のこと、セイのこと、今度は、こんな……。街のものたちはみな正常でいられなくなるわ」
「結構なことね」
「お母様!?」
「カヅカ」
 声を荒げるカヅカがうるさそうに彼女はベールを取り、カヅカとは対照的な真っ直ぐな髪を。肩の後ろに払った。
「あなたに、酷な話をしましょう。平気ですよね? 私も……ええ、私も、同じ話をされて、それでも落ち込んでなどいられなかったのですから。街のものたちはなんとかしてくれない誰かに怒りを向けて、そんなときにばかり一致団結をして、暴徒と化して……恐いこと。食べ物や衣服、土地ばかりでなく、人の心まで薄汚れるのですよ。呪われた街に捕われた神は、永遠に、その血筋をもって、街を浄め続けなければならないのです」
「わたし……が?」
 神という言葉に、カヅカは奥歯を噛んだ。
 神は、この街の神女神は自分だ。他の誰でもない。
「満月の夜まで、浄め続ければいいということ? 街中を?」
 そうだと言うのならやるしかない。そう決意するカヅカを、けれど彼女は簡単に否定した。
「神は、あなたではありません」
 簡単に、否定したのだ。
「あなたがいくら街を浄めても、事態はなにもよくなりはしません」
「お母……様?」
「カヅカ、あなたはただの入れ物なのですから」
「お母様……!?」
 叫んでも、彼女の表情は変わらない。
「告知された気分はどう?」
 彼女は手鏡を、カヅカに差し出した。
「自分の今のその顔を、良く覚えておくといいわ。十七年後、あなたも、あなたの娘に同じ宣告をせねばならないのだから。覚えておくことです。そして、こう言うのですよ」
 彼女は立ち上がり、身動き一つ出来ないカヅカに、自分のベールを掛けてやった。その耳元に化粧気のない顔を近付け、はっきりと、囁いた。
「恨むのなら神を。神女神を恨むのね、と」



 黒い髪の女だった。
 先日、教会の鐘が落ちたときに怪我をした女だ。夜も遅くに訪ねてきた女に、ユキナリは形通り、まずこう訪ねた。
「傷の具合は、いかがですか?」
 戸口で、女は黒い瞳だけでユキナリを見上げた。女の持つランプのせいか、女の肌はやけに青白く、不健康そうに見えた。
「神女神……サマ、のおかげで、すっかり元の通りです。頂いていたお薬が余ったので、お返しに参りました」
 やたらとゆっくりと、そして口先でぼそぼそと喋る女だった。
「わざわざ、ご苦労様です」
 さっさと薬を受け取って、さっさと女を追い返したい。ユキナリはそんな気分だった。
 ユキナリの気分など見通しているように、女はにたりと笑った。また、あの、蛇のような笑みだった。
「元気、そうね」
 女が言う。ユキナリは辺りを見回した。誰に言っているのだろうと思ったのだ。まさか、自分に言っているとは思いもしなかった。
 女は、ユキナリの肩を掴んだ。
「あなたに、言ったのよ。元気そうね」
「………はあ」
 先日、病室代わりにされた部屋で会ったときの自分は、そんなに元気そうではなかったのだろうか。
「違うわ」
 ユキナリの考えたことを、女は否定した。
「十年……もう少し前だったかしら。あのときも、年のわりに大きな子だと思っていたけれど、こんなに大きくなって。もう、自分自身を失ってもかまわないと思うようなことはなくなったの?」
 ユキナリは受け取った薬を、落とした。
「……あなたは……」
「思い出した?」
「忘れたことなどありませんでした、でも……」
 そうだ、先日見たときも思った。似ている、と。でも……。
「あなたがここに、こんなところにいるわけが、ない」
 だから違うと、他人の空似だと思っていた。
「でも、いるのよ」
 女は満足げな笑みを浮かべる。同じ笑みを、ユキナリは見たことがあった。そうだ、御使いである……彼女だ。
「いったい、どうやって……」
「それを知ってどうするの? あの子に教えるの? でも、あの子はそんなことは知っているのよ。ただ、出来ないだけで。出来たとしても、それを許すものは誰ひとりいやしないわ。私もそうだった。私も許されなかった。あと十七年、あの子は誰にも許されない。ずっと、ひとりよ」
「ひとり? あなたは一人ではなかったはずだ」
「いいえ、独りだったわ。あの子は私よ。私は私。ほら、私はひとりきり。ひとりきりで、あんなところに三十年以上も!」
 今までそうしたことがなかったせいか、女はいくら声を上げようとしても、ユキナリには口先でぼそぼそ言っているようにしか聞こえなかった。ただ、雰囲気は伝わってくる。
 激しい、憎悪だ。
 憎悪が言葉を紡ぐ。
「私が一体なにをしたというの。ただあの場所で、あの母親の胎内で生を受けたというだけだわ。父はその日のためだけに選ばれた男よ。母は、見知っていたけれど、愛してなんかいなかったって。私はそんな二人から生まれた。あの子もそう。まさかと思ったわ。でも、母の言っていた通り、その日から数日前に、彼は誰かが導いたかのように突然現れた。それまでは誰一人だって森に現れやしなかったのに。……でも現れただけよ、私は彼の名前も知らなかった。なのに、月のない夜、あの男は私を抱いたのよ。街の神女神さまからそうするようにと言い付かったという大義名分だけで、無理矢理に! その日が私の十五歳の誕生日だったと、後になって聞かされたわ。それまで私は自分の誕生日など知らなかった。街の神女神さまとやらの成人の義と比べて、なんという違い。私の十五歳の誕生日は、あの子を生むためだけに用意されたものだったのに」
 静かな、けれど嵐のような想いにユキナリは息を飲んだ。
 目の前の女を哀れに思う気持ちはなかった。そんなものは今のこの女を前にして生まれてはこなかった。
 けれど。
 哀れだと思う。
 この女ではなく、この女の、娘を。
 ……あの子の……。
「あの子の、誕生日は、いつ、だと……」
 あの子。そう、目の前にいる女の子供。ナーナと言う名の、森に捕われている少女。
「次の満月よ」
 ユキナリはセイの言葉を思い出した。
『満月が、嫌いなんだってさ』
 ……と。
 それはその日の意味を本能で知っているから、だろうか。
「私たちは、そうして穢れを、罪を負い続けていくのよ。罪を祓うために今ここにこうしているあなたとは逆ね」
 彼女はユキナリの落とした薬の袋を拾い上げる。状況を把握できずに呆然としたままのユキナリの手の中に、押し込んだ。
「結局あなたは、あなたが大切にしたいと言った女の子の傍に居るのでしょう? ずっとずっとね。まさか、その子が街の神女神さまだとは思わなかったけれど。じゃああなたにも、あなたのために用意される日があるということですものねえ」



 カヅカは、かけられたベールを握り締めた。
「恨む? 神女神を……? 私が、私を?」
「いいえ、言ったでしょう、あなたは入れ物だと。街の人々が望む偽りの街の神女神の入れ物であるだけなのよですよ。でもそれも終わるわ。入れ物の中に詰まった力を、街のものが望む力を力として使えるのは十五年が精一杯。後はせいぜい二年。その間に、同じ力を宿した子を生まなくてはね」
「子供……」
「ええ、そう。相手は決まっているのよ、そのためにあなたの傍にずっと居たユキナリと」
 冗談じゃない、とカヅカはベールをはぎとった。
「ユキナリですって!? どうしてわたしがユキナリなんかと……!」
 彼女もまた、冗談じゃないという顔をした。
「神女神として力を使ってきたあなたには、子を宿す力など残っていません。幼い頃からあなたの傍に居て、あなたが少しづつ発散する力を吸収してきたユキナリと、ミク。この二人が、あなたの力を受け継ぐ子をつくってくれます」
「ミクと、ユキナリ、が……?」
 カヅカの声は震えていた。赤いシチューの香りが鼻をついた。クリームの匂いに交じる嫌な匂い。食べるべきものではないものの匂い。満月まで、あと六日。六日で、すべてがこの色と匂いに汚染される。
 どうして? そう、そもそもどうして、
「どうして、こんなことに……」
 セイが、あの子が森に入ったから? それならつじつまがあう。
 セイが神女神の手の届かない地へ入ったから……。
 でも、待って。手の届かない地?
 本当に?
 だって、カヅカは森に入ったのに。そこでナーナを知った。ナーナ、あの子。どうして森に捕われているの?
 誰が捕えているの?
 カヅカじゃない。カヅカは森にあんな少女がいることなど知りもしなかった。
 知らなかった。
 この私が?
 ……この、神女神が……。
 ……偽りの、街の神女神、ですって?
「十五年が、支え続けなければならないということの限界。成人の歳も、そこから決められたこと。どうしたの? 嘆くことなどありませんよ。今までも、そしてこれからも同じことは繰り返されるのだから。ここまで赤く穢れるということは聞いたことがないけれど、どうせ、街のものたちは忘れてしまうのです。だから恨まずにいられる。羨ましいことです」



「それにしても、もうこんなに赤いなんて」
 ユキナリは、赤くなりつつあるすべてのものに、まだ気が付いていなかった。
 だが女には、見えていたようだ。
「あの子、どうして食事をしていないのかしら。ああ、そういえば、森に通っていたという少年がいたそうね」
「……ずいぶん、仲が良かったように見えていましたが」
「まあ、まあ、あら、そう。そんなこともあるの?」
 人事のように、女は楽しげに眼差しを細めた。しかし、蛇のそれであることに代わりはない。
「せっかく色々言い残してきてたのに。じゃああの子は、気もない男の赤ん坊を生む苦しみを味わうことはないのねえ」
「ずいぶん、残念そうに言うんですね」
 女に、ユキナリは悪寒を覚えた。どこか、まともじゃない。
 いっそ、なにもかもがまともじゃないのだろうか。
 この女も、この女の話も。
 女は心から残念だ、という顔をした。
「ええ、残念ね。だって、私だけが苦しまなくちゃならないなんて、ずるいと思わない?」
「……あまり、思いませんが」
「そう? でもすぐにあなたにもわかるわ。だってこの先、あなたは、あなたが大切にしたかったはずの女の子のそばには、いられなくなるんだもの」
「……いますよ」
「いられない、と言ったのよ。子を産めぬ神女神のそばに、他の女に子を生ませたあなたがいられるわけないわ」



「でもこんなおもしろいことになるなんて、思ってもいなかったこと。森の少女は、よほどセイという少年を気に入っていたのですね。では今は、よほど寂しいことでしょうね」
「ナーナが、寂しがっている、ですって?」
 言いながら、カヅカには否定できないことが、あった。
 森で見たあの二人。夢のような二人。
 想像なんてしたくなくても、ふたりが手を繋いでいるシーンなど簡単に想像できてしまう。
 水辺の、風が通っていく日向の光景の中にあったのは、禁忌の地だったからこそ、息をひそめるように押し殺された大切な時間だった。
 認めているわけじゃない。
 決して、認めてなんていないけれど。
 あの森で今も二人が一緒にいることを、なんだかムカつきながらも疑えないのは、なぜなんだろう。
 セイは家に帰ったと聞かされていた。だったらセイは……。
 ……だったらセイはやはり森へ行っているのか? 期待を裏切らずそんなことをしてくれて、それで今度は赤の穢れが?
「寂しがっているのではないの? セイなら、ここにいるのですから」
「…………え?」
「大切な駒よ、やすやすと自由にするわけがないでしょう?」
 カヅカはどう、返事をするべきだったのだろう。
「あなたも、いい加減理解なさい。次の満月は森の少女の十五歳の誕生日。それでやっとすべてを入れ替えることが出来るのですよ。ミクとユキナリは新しい街の神女神を、森の少女とセイは、新しい森の少女を生み落とす。満月の夜が終われば、私はやっと、御使いの任から開放される。次に森に、壁を張りこの街の罪を閉じ込めるのは、カヅカ、あなた」
「この街の……罪。あの子が……」
「ええ、罪です。それ以外の何者でもない」
 初めて見せた険しい表情は、
「お母様……」
 娘の言葉にふと和らいだ。
「カヅカ、私は先代の神女神ですよ。あなたと同じ、子を産めぬ体です。ここまで話終えてなお、あなたに母と呼ばれる筋合いはありません。あなたの本当の母親は、私の側仕えだった女。私ではありません。あなたは日々あの女に似てくること。反対にユキナリは日々リキルに似てくる。やっとあの人の子供を手に入れたと思ったのに、また側仕えの女などに持っていかれるなんて、兄妹だと思って情けを掛けて、あなたの側になんて置いておかなければよかった」
 言葉は、痛い。
 彼女はわらう。



 女も、わらう。
「現に、あなたの父親は先代の街の神女神の前からいなくなったでしょう? 初めに男の子が生まれてしまって、仕方ないから、きちんと女の子が生まれるまではこの街にいたようだけれど、その後は、子供を生ませた女も捨ててしまったわ。女も……あなたたちの母親の行方も今では知れないようね。街に残るのは、なにも知らない神女神ばかり。調べるまではなにもわからなかったけれど、なるほど、この街らしい制度ね。密かに密かに行なわれてきたのよ。でも、今回はうまくいかなかったみたい。すべてがどんどん赤くなるわ。満月までまだ六日もある。あの子、餓死してしまうのではないの? もし、あの子が死んでしまったらどうなるのかしら」
 言いながら、女は妙に納得したように、一人で頷いた。
「でもあの子が餓死してしまう前に、街の人たちのほうが先に参ってしまうわね、きっと」
 女は、狂っているのだ。
「あの子はこの街の罪。けれど街はあの子を失うわけにはいかない。……いかないのよ……」
 狂っている。
 その狂っている女に、それでもユキナリは聞きたいことがあった。
 この女は、本当のことなどなにも言っていないのかもしれない。でも、本当のことしか、言っていないのかもしれない。
 女の娘のこと。
 それから、自分の母のこと。
 ……母は、男の子と、女の子を産んだと言った。確かに、そう言った。
「俺に、妹が?」
 あら知らなかったの? という顔を女はした。
「すぐ傍にいたでしょう? 街の神女神よ」




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