〜 赤い色2 〜




「………不味そう」
 食欲の失せた顔でセイは呟いていた。グラスを窓辺に持っていって、朝の新しい光でじっくり確かめてみる。それでもやっぱり、
「飲みたくない、けど。飲まなきゃダメ、かなあ?」
 どうにも飲みたくない、と自分の部屋の三倍ほどもある広い部屋の隅っこで、セイは真剣に考えていた。
 ミルクの色が、赤い。
 赤いミルク。
 ……あんまり飲みたくない。
 隣の部屋に続く扉をノックしてみた。
「ねえ。ねえ、あのね、聞きたいことがあるんだけど、一言でいいんだけど、イエスかノーでいいんだけど、返事してくれないかな?」
「…………」
 しかし、返事はない。確かに人の気配はするのに、絶対に「彼女」は返事をしてくれようとしなかった。
 セイはとぼとぼと窓辺に戻って、またミルクとにらめっこを始める。ミルクのこんな色に気が付き始めたのはいつの頃だったろう。確か、この部屋に閉じ込められて四日目、いや、三日目だったか。
 一日目は、どうして家に帰してくれないんだ、とストライキをしていて食事など見もしなかった。二日目は早々に降参して色など考えもせずにむさぼり食べたので、そう、確か三日目だ。微かにピンク色に見えたのだけれど、そのときは特に気に止めなかった。でも、そのピンクは食事の回を重ねるごとにだんだん赤味を増していった。よく見ればパンの白いところも、クリームスープも赤い色になっていた。これがもっと奇麗な色だったなら、いちご入りかなにかかと思うのだけれど、茶色がかっていてどうにも奇麗じゃない。
 セイは赤茶色のミルクの入ったグラスを、窓辺に置いた。
 お腹は空いている。このミルクを飲もうか、腐ってるのかもしれないしやめておいたほうがいいのか。なめてみると、かすかにミルクじゃない味がする。ほかの食べ物も同じで、かび臭いような鉄臭いような土臭いような、なんだか体に良くなさそうな変な味がする。
 ……しかし、お腹は減った。
 そんなことに悩んでいる自分に気が付いて、ちょっと嫌になった。
「なんで家に帰してくれないんだろ」
 おかげでひとりごとが多くなる。
「お浄めなら、済んだじゃないか」
 あの日、ユキナリに教会に連れてこられた。振り返らなかったから、両親がいつから自分に着いてきていなかったのか知らない。セイは崩れた教会を呆然と見上げて、とにかくその教会に入れとユキナリに言われて、入った途端崩れてきそうで嫌だなあと思いながらも、ユキナリが先に入っていくのに恐る恐る着いていった。さらに、その奥の部屋に通された。
 そこで待て、と言われて、どれくらい待っていたのか。途中昼食を出された。持ってきてくれたのはユキナリだった。
「ねえ、おれ、お浄めされるんじゃないの?」
「カヅカ様がお目覚めになったらな」
「寝てるの?」
 なんだそりゃ、と思ったけれど。
 教会で怪我をした人たちの治療を行ったばかりだから、という説明をされてなにも言えなくなった。
 神女神さまは雨の降らない雨季に雨を降らせたこともある。思ってもいないようなことが、確かにできるのだ。
 空が夕暮れの色になった頃、セイのお浄めは始まった。カヅカとは特に会話を交わさなかった。
 ……交わせなかった。
 禊を終えているのでカヅカ様触らないように、とユキナリに注意されていたのだけれど、されていなくてもそんなことできなかったに違いない。
 目の前に現れたカヅカに。
 その一点の曇りもない雰囲気に、飲み込まれた。
 カヅカが神女神と名乗ったあのときと同じだ。
 初めは、息もできなかった。
 自分の吐き出した息をかけるのも悪いような気がした。
 カヅカの手の平がぎりぎりの距離で自分の顔に近付けられたとき、真っ白な夢を見た。
 それがなんだったのかはよくわからない。
 夢から覚めたときには、この部屋の中にいた。それからずっと、ここにいる。
 いったいぜんたいここはどこなのか?
 着替えも毎日出るし、待遇は悪くない。ただ、白いシャツはやっぱりなんとなく赤く染まっているように見える。もとからこういう色なのだろうか?
 窓は南向きにひとつ。扉はふたつ。一つは廊下に出るものらしい。らしい、とはっきりしないのは、食事はいつもそちらから運ばれてくるのだけれど、まるで囚人のように小さな猫用の扉みたいなところから出し入れされるだけなので、よく見たことがないのだ。
 じゃあ、もう一つの扉は? と疑問を感じ始めたとき、きゃ、と小さな悲鳴が聞こえた。続いてどんという音がした。なにかにつまづいて転んだのか、なにかを蹴飛ばして転んだのかたのか。とにかくなにかがいて、声から察するに人間の女の子のであることは間違いないのだけれど、でもなぜか、声をかけてもうんともすんとも返事がない。
 扉にはどちらにもしっかり鍵がかかっているし、窓ははめ殺しになっている。いよいよとなったら窓ガラスを蹴破るという手もあるのだけれど、せっかく南向きなのに数メートル先には簡単には超えられそうにないくらいのレンガの壁が居座っていて、逃げるのは不可能そうだった。
「まさか、人の噂も何日とかって、街から噂消えるまでここにいるわけじゃあ……でも、だったら、そうだって教えてくれても良さそうなもんだけど」
 ひとりごとはどんどん増える。
 もぞもぞと食事の運ばれてくる扉口に向かう。小さな扉を開けてみる。が、外は見えない。厳重な二重扉になっている。
「囚人……」
 確かに、そういう汚名を着せられるだけのことはしたとは思う。でも、自分で言って、ちょっと嫌な気分になる。
 隣にいる彼女もそうなのだろうか。自由に出入りしているという気配はない。彼女も、赤いミルクに参っていたりしないのだろうか?
 セイは十分参っている。
「ミルク……。赤くないミルクが飲みたい……」
 これが囚人用の罰料理だとするなら、もう参った、降参するから白いミルクを飲ませてくれ。
「赤くないパンが食べたい……」
 赤くないシチューが食べたい。赤くないバターと葉脈がかすかに赤く見えなくてどうにも気持ち悪くないレタスと、赤味じゃないはずなんだからちゃんと白い白身の魚が食べたい。
 廊下に、セイの不満は延々と垂れ流された。



 食事係たちは、ひそひそと噂する。
「赤いんだってよ、変な子だね」
「やっぱりどこかおかしいんじゃないのか?」
「神女神さまはちゃんとお浄めをなさったんだろう?」
「しかし、森にいたって言うじゃないか。食事が赤く見えるなんて、禁忌の森へ入ってた罰だろ」
 このときは、まだ誰の目にも白いものは白い色に見えていた。




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