〜 赤い色1 〜




『アカクナラナケレバイイワ』


      ◇


「セイ、というのね」
 確認して尋ねる彼女に、長は鈍い動作で首肯した。
「いつでもタイミングのいいこと。これはどなたのお導きなのでしょうね。神女神さまのお導きであるわけがないものね」
 クスクスと、口元だけが笑う。
 長は、しかし、と彼女の場違いな笑顔に気圧されながら口にした。
「セイはまだ十五の年を迎えておりませぬ」
「満月は来るのよ。仕方のないこと。今までもそうしてきたのですよ」
「前回とは状況が違っております。罪はセイではなくセイを惑わせた森の少女にあったのだと、街のものたちはそう思い込んでおります。このまま教会にセイを閉じ込めておくべきではないとの訴えも出ております」
「訴え? この教会に?」
「未成年の息子と引き離された両親を哀れんでいるものばかりです」
「面倒なこと」
 遊んでいる最中に手伝いを言い付けられた子供のように、彼女は興の冷めた顔をする。
「では家へ帰したことにしておきなさい。どうせ、当日のことはみなの知らぬうちに済ませてしまう事。当事者だけが納得していればいいのですよ」
 気圧されつつも、長は自分が言わなければならない言葉を、口にする。
「……どうか、誇りをお忘れにならぬよう」
 しかしそれは、彼女には必要のない言葉だった。
「誇り? そんなものがどこにあると言うのです? 昔は持っていました。でも、この神女神という制度そのものが、私のプライドを粉々にしたのです」
 彼女は好んで部屋から出ることはなかった。決まった部屋の中で、決まった一日を過ごす。けれどこの時間、いつもならお茶を持ってくるはずのミクが現れない。昨日も、一昨日も、一昨昨日も現れなかったことを、長は知っている。
 彼女は窓から差し込む白い陽の光の中に立った。白いベール。白い着物。その、白い姿。
 彼女が長へと振り返る。
 その、一瞬。
 長は頻繁に使うことのなくなった顔の筋肉を総動員して目を見開いた。深い皺の中に隠された瞳が見たのは、白い彼女ではなかった。
 赤い、彼女。
 彼女の全身が、一瞬、赤に染まったように見えた。
「なにを驚いているの? おまえも同じ姿をしてるのですよ」
 言われて、慌てて自らを眺めた。途端、好んで身に付けていた草色の着物がすべて赤に染まって見えた。
 すぐに、元の色に戻ったけれど。
 赤といっても、鮮やかな緋色ではなくて、濁った赤銅色だった。
「私は、森の少女とセイを、今、無理に引き離すことはないと言ったはずです。それなのに街のものたちは勝手に騒ぎを大きくする。だから、こんなふうになるのです。いつもならここまで赤くなることはないのに。今回は、このままならあと数日で、この街のすべてが薄汚い赤に変わりますよ。この街にとって、それは死の色。未成年の息子ですって? 両親の悲しみですって? 誰もそんなこと言わなくなるわ。ええ、すぐにね。本当に……」
 楽しみね、と彼女は言った。
 理解できない彼女の気持ちに、長は顔を青くする。
 そんな反応もまた、彼女は楽しそうだった。
「ああ、そう、ユキナリを呼んでもらえるかしら」
 楽しいことのついでに言う。
 長は一礼して部屋を立ち去る。ユキナリはすぐにやってきた。
「ユキナリが参りました。なんのご用事でしょう」
「本当に、似てきたこと」
「………は?」
「声も姿もそっくり同じね。その顔を、もっと良く見せて」
 彼女は、彼女よりもずいぶん高いところにあるユキナリの顔を、大切そうに両手で包み込んだ。
「御使い、様?」
 彼女の手は、冷たかった。いつだったかその姿は青磁で作られた人形のようだと思ったけれど、体温もまた、それに似通っているようだった。彼女の行動と、冷たさに驚いてユキナリは身を退いてしまった。失礼なことをしたとすぐに思ったのだけれど、取り返しはつかない。
「……申し訳、ありません」
「いいのですよ」
 言葉は、額面通りのようだった。声の調子は少しも変わっていない。
「本当に、仕種一つまでそっくり。おまえも、普段カヅカの前では素っ気無いのではないの? あの人もそうだったわ。でも本当は……」
 言いかけて、笑い出すのを我慢するように、細く白い指を口元に添えた。ベール越しで、彼女の表情は、わからないけれど。
「俺の性格の、分析、ですか?」
「そうですね。でも、性格はいくらか分析できても、気持ちを知ることは難しいと思いませんか?」
「……気持ち、ですか?」
「約束を、してほしいと思って。教えてほしいことがあるのですよ」
「カヅカ様のことでしたら、約束などしなくてもいつでもご報告いたします」
「それはおまえが、このままカヅカと共にいるのなら気にすることのないことです。でも」
「……でも、なんです?」
 再び伸びてきた手を、ユキナリは振り払っていた。御使い様の手を払って、けれど、今度は後悔する心の余裕はなかった。
「おまえが欲しいカヅカではなく、ミクを抱いたおまえが一体どんな気持ちになるのかなんて、約束しておかなければ聞かせてもらえないでしょう?」



 苛々も絶好調、いや絶頂だった。
 廊下を走ることは躾られていないので、限界の早足で歩いていた。一応歩いているので、ものすごいスピードでも誰も注意できない。女たちはカヅカとすれ違う度に、なにか言いたげに、しかしなにも言えずに振り返るばかりだった。
 そんなカヅカに、ユキナリは平然と着いて歩いていた。意地を張って速度を保ち続けているため、そろそろ息のあがってきたカヅカに比べ、ユキナリは涼しい顔をしている。カヅカの早足くらいどうという事はない。
「気に入らないわ!」
 カヅカはくるりと見向くと、そのついでに、廊下に飾ってあったどこから見ても高価な花瓶を払い落とした。花瓶は運良く、廊下の真ん中に敷いてある毛脚の長い絨毯の上に転がる。傷の着いた様子はない。それもカヅカは気に入らなかった。
 派手に砕け散ればすっきりしたかもしれないものを!
「さっさとおまえ、自分の年を三十回数えなさい!」
「できません」
「なぜよ」
「先日、俺が長殿たちに呼ばれている間、カヅカ様は勝手に出歩いていたでしょう。その分、次の休日まではお休みにします」
「わたしがいいと言えばいいのよ」
「いいえ。もとは、カヅカ様がお決めになったことなので、守っていただきます」
「覚えてないわよ、そんなこと」
「そうですか」
 どっちでもいいですけど、とやる気がなさそうにユキナリは言外に付け加える。ついでに、いい天気ですね、と廊下の窓を見上げた。
 突然、甘い香りが近付いてきて、ユキナリは目を見開いた。振り向けば、すぐ間近にカヅカが立っていた。
 開け放した窓から入り込んでくる風が伝える香りは、カヅカの髪の香りだ。女たちが珍しい香料を見つけてきては使っているのだろう。
 カヅカがユキナリの腕を痛いほどに掴んだ。
「おまえ」
「……なんですか」
 一瞬、返事が遅れた。カヅカは気付かなかった様子だが、ユキナリ自身は気が付いた。
 甘い香りが、やけに鼻を突く。
「おまえが穢れていると、誰が言ったの?」
 すぐ側から見上げてくる、髪と同じ薄い色の瞳から、ユキナリは目を逸らす。
「またその話しですか」
「忙しくてゆっくり話を聞けないことをいいことに、おまえ、ごまかしてばかりじゃないの」
 ユキナリがセイを連れて帰ってきた日から、屋敷の中はずっと慌ただしいことになっていた。教会の修理に業者が入り浸り、カヅカが重症ツルマの怪我を一夜にして治したと聞けば、せめて教会の外からでも、とお祈りに人々はやってくる。セイの通った道すべてをお浄めしてほしいというものもいれば、いっそ森ごと浄めてくれないかという輩もいる。
「話せば、この忙しさから来る苛つきが、治まるとでも?」
「治まるかもしれないわよ、もしかしたら」
 普段穏やかな暮らしの中にいる分、回りの騒がしさにカヅカは苛ついていた。いつもならこんな午後は、部屋で静かに読書をしているか、屋敷を抜け出して呑気に街を散歩しているはずなのだ。
「穢れているというおまえが、なぜわたしの傍に居るの。なぜ、鐘守りの仕事をこなすことができるの」
「よほど、ご自分の仕事に飽きてきたようですね」
 ユキナリは大きく溜め息した。
 よけいなことを言ってしまったものだ。どうしてあんなことを言ってしまったのか。
「おまえは自分のことを穢れていると、そう思いながら、十年以上もわたしの傍に居たの? お母様にも黙っていたの!?」
「御使い様は……」
 思い出すまいとしていた先日の彼女の話を、嫌でも思い出した。
『ミクを抱いたおまえが……』
 なぜ、あんな話になったのだろう。
 なにかの聞き間違いだったのだろうか。
 だとしたら、カヅカといるときに限って思い出すのは、おかしな話だ。
「御使い様は、ご存じです」
 ユキナリは吐息と一緒に言葉を吐き出した。
 穢れを負った人間なのだ、と。
 それは十年以上も、正確には十一年間、黙ってきたことだった。つい口にしてしまったのは、どうしてだったのか。
「なにも、感じないわよ」
 カヅカのきれいに手入れされている爪が、腕に食い込んだ。
「あの子は、嫌な感じがしたわ。触ったこの手に、なにかを感じたのよ。でもおまえにそれを感じたことはないわ」
「そうですか」
「ええ、そうよ。感じていたら、おまえなどとっととお払い箱だわ。この屋敷から追い出す絶好の口実になったものを。残念だわ」
「そうですね」
「そして今でも、相変わらずおまえを追い出す口実など、ないのよ」
 近くにあった甘い香りが、花に飽きた蝶のように離れていく。
 ユキナリは転がったままの花瓶を台に戻した。ユキナリはこの花瓶の代わりだった。花瓶が割れていれば、それでカヅカの気は済んでいたはずだった。割れなかったのでユキナリに絡んだだけなのだ。
「そう言えば、セイは帰したのよね? その件で騒ぎは起きていないの?」
「今のところ、そういった報告はありません」
「また森に入り浸っているとか、そういうことは」
「ないようですが」
「あ、そ」
 カヅカは、ちょんと肩をすくめた。
「正真正銘紛れもなく確実に馬鹿だと思っていた騎士(ナイト)も、さすがにおとなしくしているのなら、あんがい馬鹿でもなかったってことね」
「そうですね」
 気のない返事に、
「そうよね」
 カヅカも気がなく返した。それから、どこか釈然としない、そんな顔同士を見合わせる。
 カヅカはつんと目をそらして、廊下をゆっくり歩き出した。
「でもあの騎士は、そんな賢い人間には見えなかったけれどね」




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