「いい、天気になったな」
「そう、だね」
セイはまだ、ナーナの手を離さない。
「ユキナリ、おれのお迎えに来たの?」
「そうだ」
「なんだ。おれ、もっと大群で責められて、引き摺られて森から連れ出されるのかと思った」
「森に入ってきたがらなかっただけで、森の入り口まで行けば、希望通りだぞ」
「あ、そう」
ユキナリが背を向けて、今来た道を引き返していく。セイはナーナの手を引っ張って、それに続いた。ナーナは、引っ張られるまま、セイに着いていく。
やがてユキナリが立ち止まった。振り返ると、セイとナーナはとっくに立ち止まっていた。ナーナはもう、そこから先に行くことが出来ない。
「……セイ」
ナーナは壁越しに、森の続きを見つめた。ここにいるのはセイとユキナリだけ。
違う、もっと、人の気配がした。ナーナが指差す。セイは示された場所を見る。そこには、街の人々が集まっていていた。
セイの見知った顔も、見知らぬ顔も、たくさんあった。彼らは遠巻きにセイたちを見ていた。その先頭にセイの母親がいた。父親に肩を抱かれて、他の人たちと同じ目をしてセイを見ていた。
禁を犯した。
そんなつみびとを見る目で見ていた。
それから、
あの少女は誰だ?
禁じられた名を持つ少女らしいぞ。
森に捕われているらしい。
いや、森があの子を捕えてるんだろ。
だから森に入るなと言ったのに。
セイは惑わされたんだ。
神女神さまの加護のない場所に住むものに穢されて、そのまま出てきて街を穢したんだ。
やっぱり、あいつのせいか。
そうだ、あいつのせいだ。
人々の黒い声。
決めつける、尖った声。
ナーナは耳を塞いだ。
声が痛い。
「あんた……」
一番痛い声が、人々の先頭を切ってナーナに近付いた。
「……母さん」
セイが、そう呟いた人の声。
「あんた、セイになにをしたの!? どうしてこんなことになっるんだい!? どうして、うちの子が!!
繋いでいた手を見つけて、ナーナからセイを引き離した。
「どうしてうちの子が、こんなことに!!」
「母さん……っ」
「そうだよ、おかしいと思ってたんだよ。ねえ、セイ。おまえ、この子に惑わされてただけなんだろ!? この子になにをされたんだい? ほら、言ってみな。おまえに罪なんかないってちゃんと言うんだよ!」
大きな胸に、セイを抱きしめる。ナーナからセイを引き離していく。
「母さんっ」
「なんだい、しっかりしなよ、おまえはいいことと悪いことの区別もつかないのかい」
離れてしまった手が、もう繋げない距離になった。
壁があって。
壁があって、壁があって。
壁があって、手が繋げない。
たくさんの非難の目。
たくさんの、無言の罵声。
たった一対の、ナーナからセイを守ろうとする母親の目。
たったひとつの、ナーナからセイを守ろうとするための、母親の痛い声。
なにを、したんだろう。
ふと、ナーナはそんなことを思った。
耳を塞いだまま後退さる。小石につまづいて、尻餅を着いた。思わず出した右手の小指が、まだ痛い。
なんだろう。
なにが起こってるんだろう。
「つみびとはうちの子じゃないよ、この子だよ!! この子に、うちの子は惑わされただけなんだよ!?」
この子、って誰?
つみびと?
ナーナの、こと?
『つみびとだからよ』
つみびとなの?
みんなの目が痛い。
みんなの声が痛い。
痛いから、やっぱり、そうなんだ。
「ナーナは、つみびと?」
細い声は、誰に問いかけたわけでもなかった。
「そうだよ、つみびとはあんただよ!」
問いかけたわけじゃない、でも答えは返ってくる。痛い声が罰するように返ってくる。
「ナーナが、つみびと……」
ナーナはさっきまで繋いでいた手を見た。今はもう、自分の温もりしかない手。
『一緒にいたいのに』
いたいのに、ナーナはつみびとだから、いられない。
手は、離れた。
たくさんの目がナーナを見る。
セイの目も……。
「セイ……」
ナーナの声に、セイが顔を上げた。大きく見開いた目が、なにかを考えている。母を見上げて、たくさんの街の人々を見渡した。セイが身動きしたら、襲いかかってきそうな目だった。なにをするのも見逃さないような、そんな目だった。
鳴らない鐘。
鳴りすぎた鐘。
そういえば、昨日の鐘は、あの狂った鐘の音は、どうして止まったんだろう。尋ねると、落ちたんだよ何人も怪我人が出たんだよ、と母が言った。でもおまえのせいなんかじゃないよあの子のせいだからね。母は付け加える。
止まった時計。
落ちてしまった、鐘。
人々の目。
その罪の全部を、誰のせいにしようかと生け贄を探してる、目。
たぶん、初めはセイのせいにするつもりだった。それがナーナを見つけて変わった。
誰にする?
ターゲットはひとりいればいい。
ひとり……。
「母さん、おれは本当に悪くないって、思ってる?」
「当たり前だろう。母さんだけは、おまえを信じてるんだよ」
必死にセイを抱きしめる。
セイは息を飲み込んだ。爪が食い込むほどに握り締めたこぶしを、なにか決断したように、緩めた。
「……ナーナ、来て」
母に抱かれたまま、食い込んだ爪あとの残る手を差し出した。
「来てよ。一緒に行こう。神女神さまは、許しを請えば、きっとおれたちを許してくれる。一緒に教会に行って、謝ろう」
すぐ傍にいたユキナリは、なにを言ってるんだ、という顔をする。ナーナが来られるわけがない。
ナーナも、ユキナリと同じ顔をした。
セイは言葉を続ける。
「ナーナが森から出ればいいだけなんだ。そうしたらわざわざ森で会う必要なんてないし、こんなふうに変な目で見られることだってないだろ? 一緒に森を出よう。街で暮らそう。穢れなんて、神女神さまがすぐに浄めてくれるよ」
ねえ母さん、と母の顔を仰ぐ。
「神女神さまは、おれたちを助けてくれるよね?」
「あ、ああ」
返事に困りつつも、人々を見回して、母は結局そんな返事をした。ほらね、とセイはナーナをもう一度呼ぶ。
呼ばれてナーナは、セイを見た。
でも、壁が……。
「出られるなら、とっくに出てる」
絶望的な目をする。
絶望? なにに絶望してるんだろう。それは、壁に。それから……。
「おれは罪なんて犯してない。なにも悪いことなんてしてない。ナーナも、つみびとなんかじゃない。悪いことなんてなにもしてない。だったら、出られるはずじゃないの? だって、おれが森に入ってそれが罪でつみびとだって言うなら、おれだって森から、そこの壁から出られるわけないんだ」
「……壁?」
呟いたのは母だったけれど、人々も一斉に、似たようなことを呟いていた。にわかに森が騒がしくなる。騒がしい視線の中で、ナーナは壁に触れた。
「つみびとじゃないなら、出られる……?」
「出られるよ、おいで」
「出られる……」
ナーナは、壁を押した。
その姿に人々はさらにざわめいた。捕われているという漠然としていた意味が、捕われているのだ、という確かなものになる。壁がある。自分たちには見えもしないのに、あの子にとっては確かな壁がある。セイもユキナリもあそこから出てきた。あの子だけが出てこられない。
ナーナは、出られない。どうしても、どうやっても、今までと同じように出られない。
「出れないの?」
セイが、低い声で言った。表情のない顔で、ないゆえに、冷めた眼差しで。
「じゃあやっぱり、ナーナはつみびとなんだ」
「……セイ?」
絶望したのは……。
「つみびとなら、おとなしくそこにいなよ。神女神さまにも見捨てられた森の中に、捕われたままでいなよ。そのほうがいいよ。でも、それで淋しいからって、おれみたいなの引っ張り込むのはよくないよね。もう、やめなよ」
「セイ……」
噛み締めた奥歯の隙間から、名前を呼んだ。
今、人々が見ているのはナーナだけだった。
「こんなことになっちゃったら、おれ、もう来たくても来れないし、来たくなるかもわかんないけど。あ、餞別にこれあげる。朝食まだだよね」
セイは、昨夜家を出るときにポケットに突っ込んできた大きなクッキーを二枚、ナーナに差し出した。差し出してから、ああ、と気が付いたように壁の中に入る。
「はい、どうぞ」
セイの手を、ナーナは力一杯振り払った。勢いでクッキーは飛んでいってばらばらになった。
「いらない」
喉の奥から、かすれた声を出す。
込み上がってきた感情は、憤りだけだった。
セイの冷めた眼差しは変わらない。
「そっか、そうだよね、いらないよね。ナーナ、いつもなにも食べないし。母さんのランチも食べたことないよね。そんなの食べられないって? だったら、いつもなに食べてんの?」
「なにも」
許さない。そんな眼差しで、セイを睨み付ける。大きな瞳はセイだけを睨んだ。
さっきまで手を繋いでいたのに。
離れた途端、こんな……っ。
「ナーナは、セイみたいに食べなくても、生きてきた。朝と夕方、泉に入る。それが食事。母様もそうしてきた。ナーナには食事もなにも必要ない。なにもいらない」
そう、なにもいらない。こんなことになるなら、もうなにもいらない。
もう、戻って来てって、言うこともできない。言いたくない。こんな思いをしたくない。
「セイも、いらない」
「そう」
セイは躊躇いもせずにナーナに背を向けた。
「じゃあね」
二度と振り返らないで母の前を過ぎ、ユキナリと一緒に歩き出す。
「おれ、すぐに教会行ったほうが、街、混乱しないよね」
「そうだな」
「お浄めでもなんでもしてもらうよ」
「そうか」
ユキナリだけが、ナーナを振り返った。ナーナはセイを見ていなかった。空を、見ていた。
「月、探してるんじゃないの? 昨日の夜もずっと心配してたよ。満月になってくのが、嫌いなんだってさ」
見てもいないのに、見ているようにセイが言う。ユキナリはナーナから目を逸らした。
「形の変わるものは、不安にさせるからな」
「変わらないものなんて、ないよ」
「……そうだな」
セイは、決して振り返らなかった。その後を、母親が着いていく。
人々もナーナを一瞥したのち、ぞろぞろと森を出て行った。
鐘の鳴らない朝。
ナーナひとりになった森は、ナーナをなにかに急かすようにざわめいたけれど、ナーナは膝を抱えたままその場を動こうとはしなかった。
昼を過ぎても、夜が来ても、ナーナはずっとその場にうずくまったままでいた。
ゴポッ。
だから、小川や、泉で起ころうとしている異変にも気が付かなかった。
ざわざわ、ざわざわ、森は何度も忠告したのに。
気が、付かなかった。
いや、気が付かない振りを、した。
異変が、起こる。