窓の外の騒がしさに、カヅカは目を開いた。途端、ひどい疲労感に襲われて頭を抱えた。立ち上がることが出来ない。理由ならわかっていた。
「無茶をなさるからです」
「……うるさいわね。耳元で言わないでよ」
言われた通りに迎えに来たユキナリは、けれど手も出さない。カヅカは自分で、ユキナリの手を掴んだ。
「眠りたいわ。部屋に連れて行きなさい」
「俺がですか」
「おまえがよ」
ユキナリは、カヅカを軽々と抱き上げた。
「目蓋が重くて開かないのよ。部屋の様子はどう?」
「ツルマの顔色もだいぶ良くなっています。あとは、みながやってくれます」
「そう」
声には、安心した、というよりは、当然だわ、という響きがあった。
怪我人を収容しておいた部屋の様子は、昨日とはうって変わっていた。怪我の痛みや苦しさに呻いていた人たちは、今は静かに眠っている。誰の傷跡もすっかり塞がっている。
ただ祈るだけで、そうすることの出来る力を持っているのはカヅカだけだった。
「さすがですな」
そう言ったのは長だ。目を閉じたままでも声と口調でわかる。ぱたぱたと忙しげに駆けていくのは女たちだろう。数人がユキナリと自分の回りに集まってきたのが気配でわかった。
「ご苦労様でございます」
「お疲れでしょう。ユキナリ、急いでお姫さまをお部屋へ」
神仕えの女たちは、いつでも手際がいい。てきぱきと部屋を追い出される。その際、ユキナリは患者の一人に目を止めた。黒髪の女だ。肩口に包帯を巻いている。
「彼女は?」
「お隣に眠っている女性と買い物の帰りに雨宿りをしていたそうです。そのときに鐘が落ちて怪我を……」
エプロン姿の女が説明してくれる。
「おまえの知り合いなの?」
重たい目蓋をあげる努力をすでに放棄したカヅカは、目を閉じたまま尋ねる。
「……いえ」
知り合い、というわけではなかった。ただ、どこかで見たことのあるような気がした。
黒髪に縁取られた顔は、不自然なほど白く見えた。
怪我の、せいだろうか。
そんなことを思っていると、女が目を開けた。女はユキナリに、にたりと、笑った。蛇が笑ったように見えて、ぞっとした。
ユキナリは逃げるようにその場を立ち去る。
部屋を出ると、カヅカは窓に耳を向けた。
「街が、騒がしいようね。セイのことで、もうお母様は指示を出されたの?」
「いいえ」
頭の隅にいつまでも引っかかっていそうな先程の女の笑みを振り払って、ユキナリはカヅカの代わりに窓の外を見た。雨は止んでいて、この季節にふさわしい青空が広がっている。その下、街の人々が集っていた。誰の顔も穏やかではない。たった一人にすべての罪を押しつけようとする顔をしていた。
「街のものが、セイが森に入っていくところを見たそうです。噂ではここのところの異変はすべてセイのせいになっています。捕まえて神女神さまに膝まづかせようという計画を立てているようですけれど、セイは今も森にいるようで、誰が森に入るのかでもめているところです」
「おまえが行けばいいわ」
「そうですね」
セイが森に入るところを見たと言うのは、セイのクラスメイトだったとユキナリは聞いていた。親しいクラスメイトだろうと親だろうと、必ず教会に告げてくる。それは街に住むものの義務だった。誰が告げ口したのかなんて、知ったとしてもセイも責めたりはしないし、できない。できるわけがない。
「セイも、覚悟していることでしょう」
「でも、それでこんな朝までいちゃついてるんじゃ、反省してるわけではなさそうね」
「反省して覚悟していたからこそ、一緒にいたかったんじゃないんですか」
「おまえ、他人には優しいのね」
「そうですか」
「わたしにも優しくしているように振舞うのは、こういう、人の目があるときだけね」
女が二人、カヅカとユキナリの後を着いて歩いていた。
ユキナリは肩を竦めた。
「当たり前です」
「そういう性格よね、おまえは」
カヅカは小さな欠伸をした。
「ユキナリ」
「なんです」
「次に目が覚めたときは……」
はい? とカヅカを見下ろす。腕の中で、カヅカはもうぐっすりと寝入っていた。八人もの怪我を治すために、一晩中祈っていた。目覚めたときは、もう午後になっているだろうか。
目覚めたときは……。
「お目覚めになったら、なにかあるの?」
女に聞かれてユキナリは、さあ、と答えた。
「それより、昨日からミクを見ないが、体調でも崩したのか?」
女たちは顔を見合わせ、さあ、という顔をした。ユキナリもそのときはそれ以上追求しなかったのだけれど。その追求を、しておけばよかったと後で思うのか、思わないのか。
先のことは、まだ、このときはなにもわからなかったのだ。
ずっと、手を繋いでいた。
離したらそれきりだとでもいうようだった。
……それきりだと、思っていた。
本当は、もしかしたら、森に入っていること、ずっと、誰にも見られずに上手くやっていけると思っていた。
でもそうしたら、いつまでもいつまでも、森に通い続けたのだろうか。
ずっとずっと、毎日毎日、ナーナに会うために森へ行っただろうか。
いつか、母が気が付くかもしれない。
『おまえ、いつもどこにいってるんだい?』
いつか、母が言ったかもしれない。
『セイ、一体いつになったら、おまえの夢中な女の子を母さんに紹介してくれるんだい?』
いつか、母は聞くはずだった。
『いいかげんに、その女の子の名前くらい、教えておくれよ』
いつかそんなふうに聞かれたら、いつかきっと答えていた。
『ナーナ、だよ』
それは禁んじられた名前で。
ほら。結局その後は同じ。
もう森に来られない。
でも。
でもそれは、いつか、の話だったのに。
今、の話じゃなかったのに。
時間がさらっていく。
ナーナといたいのに。
その時間を、いつか、っていう時間が、さらっていく。
なんだ、まただ。
また、時間が連れていっちゃう。
『一緒にいたいのに』
そう言うなら、いればいいのに。
街の人間は、わからない。
ずっと前、あの小さな人間も、結局街に帰って行った。
泣きそうな顔をして。
泣くくらい悲しいのなら、行かなくていいのに、行ってしまった。
満月はいつも誰かを連れていってしまう。
行かないで。
一体何回そう言ったら、行かないでいてくれるんだろう。
行かないで。
どんなふうに言ったら、伝わるんだろう。
全然、わからない。
繋いでる手は、このまま、ずっと繋いでられるわけじゃない。
いつまで繋いでいられるんだろう。考えるのは、そんな不安なことばっかり。
繋いでいられる、楽しい今のことばかり考えていられればいいのに。今は、ちゃんと繋いでるのに、いつか、のことを考えると、不安ばっかり。
街の人間は、いつか、街に帰っていく。
いつか。
それが、もうすぐ、なんだろうか……。
暖かい夜でよかったね、とセイが言った。
寒かったら、風邪引いてたよ、絶対。とセイが笑った。
今からの季節は、だんだん暖かくなっていく。とナーナが言った。
そうしたら、風邪を引くんじゃなくて、汗をかいて気持ち悪い。とナーナが笑った。
ずっと繋いでいた二人の手は、同じ体温になっていた。差し込んでくる朝日が眩しくて、日陰に入り込んだ。湿った風は、昨夜のうちにどこかに吹き去ってしまった。
吹いてくるのは、乾いた暖かい風。
すっかり目が覚めて、そんな風が、気持ち良いねと、二人して、笑ったときだった。
向かい合っていたナーナの向こうに見つけた人影に、セイは笑顔を消した。ナーナも振り返る。
ユキナリが、立っていた。