〜 月の形3 〜




 ドアをノックされて、セイは閉じていただけの目を開けた。いっそ、眠れてしまったらどんなによかっただろうと思うのに。
「なに?」
 気怠そうな返事をすると、ドアが開いた。どこを見ても本だらけの部屋に、母が入ってくる。
「食事も取らないで、風邪でもひいたのかい? やっぱりレインコート、持っていかせるべきだったかねえ」
「そんなんじゃないよ」
 ベットにうつ伏せになって、セイは抱えた枕に顔を埋めている。母は枕の間に手の平を突っ込んで、セイのおでこを触った。
「熱はないようだね」
「だから、風邪とかじゃないってば」
「だっておまえ、ずぶ濡れで帰ってきたら心配もするだろう。普通、傘なりコートなり、貸してもらって帰ってこないかい? どこで遊んでたんだい」
「…………」
「セイ?」
「………………」
 セイはノーコメントを決め込む。母は溜め息した。
「出てくときはあんなに元気だったのにねえ」
 温めたミルクと、砂糖漬けの果物をたくさん入れた大きなクッキーをトレーごとベットの脇に置く。甘い香りに、セイは少し顔を上げた。
「母さん、神女神さまのこと、なんか知ってる?」
「なんかって?」
「姿とか……名前とか」
 すがるように母を見た。
 カヅカが神女神さまだった。
 ショックだった。助けてほしかった。
 でも、なにをどんなふうに助けてほしいのか、わからない。
「姿? 知るわけないだろう。やたらと目にしたりしたらいけない御方なんだよ」
「……だよね」
 カヅカが神女神さまだった。それはきっとミネキや他のクラスメイトが神女神さまだったと言われても、同じショックだっただろうと思う。
 漠然と心の中で拠り所にしていただけの存在が、形になって現れた。大切にしていたものを壊されたような気さえした。はいそうですかと、納得できなかった。
「ナーナが、神様は心の中にいるって言ったんだ。そんな抽象的なこと言われても、わからない。でも、わかる気もする。大切な呪文みたいなもので……」
「セイ?」
 なにがあったんだい? と優しい声。
「教会の奥に、神女神さまは本当にいるの? いることに、意味があるの? 例えいなくても、いると思うことに意味があるんだったら、カヅカはなんのためにいるの?」
『カヅカは、象徴』
 神女神さまは象徴で、象徴だと言ったナーナはつみびとで森に捕えられてる。捕えているのは、じゃあ、カヅカなの? ほかに誰がいるというのか。
 ……全然、わからない。
 セイにわかることなんて、なにもないような気さえする。
「また、ナーナを置いてきちゃったんだ」
 夜になれば、真っ暗な森の中に今もひとり。止まない雨の降る森の中に、ひとり。
 暗くなったら家に帰らなきゃ、母さんが心配してるから。そんな言い訳をして、セイは帰ってくる。いつも、いつも。正しいと思ってるのに、それは正しいことのはずなのに、じゃあ、どうしてこんなに気になるんだろう。
 今日は帰ってきたくなんてなかった。
 怒ったまま帰っていったカヅカが、黙っているわけがない。森へ行ったことがばれた。きっとすぐに街中に知れ渡る。そうしたらもう二度と森には行けなくなる。ナーナに会えなくなる。
 わかっていて、帰ってきた。
 母さんが心配するから。
 父さんが心配するから。
 そう考えることが、ここでは当たり前だから。
「……セイ、おまえ、今、誰の名前をいったんだい?」
「え?」
 目の前に母がいたことを思い出した。
「名前?」
「カヅカと、ナーナ、と言ったかい?」
「え、うん」
「カヅカと……。なぜおまえがその名前を知ってるんだい!?」
 急に大きくなった声に、セイは首を竦めた。なんだ、やっぱり神女神さまの名前を母は知っていたのか、とセイは思った。でも、違った。
「それは、禁じられた名前のはずだよ」
 言ってしまってから母は、しまった、という顔をした。でももう遅い。言葉は戻らない。
「禁じられた名前……? なに、それ、なんのことだよ」
 セイは起き上がって母に詰め寄った。
「……これは、お父さんにも内緒の話なんだよ」
「わかった、言わない」
 そういう意味じゃないんだけどねえ、と母は間をごまかすようにセイに用意したはずのミルクを飲み込んだ。
「女はね、妊娠したときに教会に報告に行くだろ、そのときにね、子供につけてはいけない名前を、教えられるんだよ」
「つけちゃ、いけない?」
「セイは男の子だったから、気に止める必要もなくて忘れてたよ。女の子の名前だからね。神女神さまにつけられた名前なんだろうと思ってたよ」
「カヅカ、だ……」
「ただ、それが二人分の名前だって言うのが、気になってね」
「二人、……分?」
「ナーナ、だよ。そう言ったろ、おまえ。一体どこでそんな名前聞いたんだい」
 セイは母を凝視した。
「ナーナ……も?」

『ナーナは、つみびとだから』

 禁じられた名前が、ふたつ。
 ひとつは神女神さまの名前。
 もうひとつは……。
「嘘だ……」
 セイは、コートを引っ掴むと、雨の降り続く夜の中に飛び出した。
「セイ!?」
 母の声は聞こえない振りをした。耳を塞いで振り払った。途中、ミネキに擦れ違ったことにも気が付かなかった。
 ミネキは、セイが森に入っていくのを、見ていた。



 森の中、ナーナは厚い雲を見上げていた。湿った風が壁の向こうからやってきて、頬を撫でていく。それは森の合図。森が知らせてくれたことにナーナは少なからず驚いて、でもすぐに、わかりにくいけれど、嬉しそうな顔をした。
「なにか、探してるの?」
 突然背中から掛けられた声に、驚かない。誰が来たのか知っている。森が、教えてくれる。
 ナーナは振り向かずに、答えた。
「月」
 ナーナは空を見上げている。
 声の主も、同じ仕種をした。
「月?」
 声の主はセイ。セイは重たくなったレインコートを脱いだ。厚い雲越しに、真上を見上げる。月といえば、いつでも天辺で丸く輝いているものだと思っている。
「そんなところには見えない」
 ナーナは森が隠してしまっている西の地平線を示した。
「あの辺にある。明後日ぐらいからだんだん膨らんでいって、何日かしたらこの時間でも、天辺に見えるようになる」
 そういうもんだったっけ? と思いながら、セイはナーナと見る奇麗な満月を思い浮かべた。なかなか、いいシチュエーションだ。
「早く、丸くなるといいね」
 月が満ちていくのをナーナも待っているのだと思った。
 ナーナは、首を振る。縦ではなくて、横に。
「え、違うの?」
「満月は嫌い」
 ナーナは唇を噛んで、月を探すのをやめる。
「そういう顔、知ってるよ」
 月明りのない暗闇の中で、セイは間近にナーナを見た。
「前に、おれがなにか聞こうとする度に、ナーナはそんな顔をしてた。言いたいんじゃなくて、言いたいけれど言えない。そんな顔だよね」
「やっぱり、セイはいつもナーナを見てる」
「うん。見てるよ。今は、どんな言いたいことを我慢してるの?」
「言わない」
 言ったら……セイに言ったら、大丈夫だよと言ってくれるかもしれない。言わないかもしれない。
「そう? でも、じゃあせめて今度の満月は、一緒に見よう、きっと、奇麗だよ」
 ナーナは今度はためらいもせずに首を横に振った。
「セイとは、一緒に見たくない」
 言ってから、慌ててセイを見上げた。
「間違えた」
 そう、間違えた。
 セイは、がーん、と言いたそうな顔をしている。だから絶対間違えた。
「セイは、ナーナと一緒にいないほうがいい」
 そう、こう言うべきだった。
「だから、一緒にはいない。ナーナはひとりでいい。今までもそうだった」
「おれは、一緒にいたいのに」
「セイの母様が、心配してる」
 セイはなにしに来たのだろう。わざわざこんな、真っ暗な森の中に。
 思っていたら、セイが手を繋いできた。冷たい手は、ナーナを離そうとしない。
「セイ?」
「……一緒にいたいのに」
 泣きそうな声をする。本当に泣いているのかと思った。よく見えない。手探りで触った頬は、濡れていなかった。
「今は、一緒にいる」
「これからも、いたいのに」
「……セイ?」
「ねえ、ナーナ」
「なに?」
「もし……もしも、だけど。おれが森に来なくなっても、おれのことを嫌いにならないで。おれがナーナを裏切ったなんて思わないで。おれは、ナーナとずっと一緒にいたいと思ってただけなんだ」
 泣いてるはずなのに、泣いてない。
「涙が、ないの?」
「男の子だし」
 繋いだ手が、冷たい。
 壁の外は、雨。
 繋いだ手は骨張っていて、力を込められると痛かった。でも、痛いと言ってもセイは手を離してくれなかった。
 ずっと、繋いでいた。
 ずっとずっと、雨がいつの間にか上がって、差し込んできた朝日に目覚めるまで、繋いでいた。 




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