「おまえと出会ってから、この街にはろくなことが起こらないわ!」
鐘の音にも雨音にも負けずに喚いて、カヅカはナーナを突き放した。
「今度は、おまえのなにがあの鐘を狂わせてるの!? 答えなさい!」
「カヅカ様」
尻餅を着いたナーナの胸倉を掴み上げようとするカヅカを、ユキナリがとどめる。
カヅカはユキナリを睨み付けた。いつもなら子供でもあやすように襟首掴んでやめさせるような場面だ。なのに、今のユキナリはカヅカに声をかけるだけだった。触ろうとしないのだ。
「気に入らないわ」
「そうですか」
「ええ、そうよ!」
カヅカの気はユキナリに逸れる。セイがナーナに手を貸してることなど目の端にも映っていない。
「わたしは、おまえのそういうところが大嫌いなのよ」
「そうですか」
カヅカの話など聞いていない態度だ。ユキナリもナーナに手を貸そうとする。カヅカはがっしりとユキナリの腕を掴んだ。
「帰るわ」
転がった傘を拾うようにユキナリに指示しながら、
「わたしがこんなところにいたって、なにも解決なんかしないのよ。わたしにはわたしのいるべき場所があるわ。しなくちゃいないことだってたくさんあるのよ。それは、おまえになんて聞かなくても、わかることなのよ」
セイの手を取るナーナを侮蔑する。
「わたしには、わかるのよ」
かわいらしい声は、なににも負ける気のない気持ちの形になる。自分の立場も、やるべきことも、わかっている。わかっていなければいけないのだ。
その指先が微かに震えていることに気が付いたのは、ユキナリだけだった。カヅカ自身でさえ気が付いていない。
ユキナリは、眼差しだけでカヅカを見下ろした。
カヅカが抱きついたままの自分の腕。……手。……爪は、いつでも短くしてある。そう、ちゃんと短くしてある。そんなことを思いながら、傘を拾い上げることで、カヅカに従って帰る意を示した。
カヅカは、セイに振り返る。
「おまえ、覚悟は出来てるわよね」
「…………」
セイは言葉もない。言葉もなくカヅカを見つめるだけだった。
カヅカが、神女神さま。
……嘘だ。
咄嗟に、そう思った。
同時に、嘘じゃない、とも思った。
自分が神女神だ、と冗談で口にしたりする人間は街にはいない。そんなことを冗談にする人間がいていいわけがなかった。
嘘だと、そう思ったのは、そうであってほしくないと思ったからだ。
「神、女神さま……」
「そうよ」
簡潔に答える、真っ直ぐな眼差し。
その、強い眼差しに、セイは、その場に座り込んだ。腰が抜けた。
「あ……」
本物、だ。
「セイ……」
ナーナもセイの脇に座り込む。セイはすがるようにナーナの細い腕を掴んだ。
「……ナーナ」
「なに?」
「ここに、いて」
目は、カヅカから離せないままだった。息の仕方を忘れたみたいに、大きく肩で息を吸った。なんとか吐き出して、また吸う。
神女神さま。
いつも、その名前だけを拠り所にしてきた。教会の奥の、白い垂れ衣の向こうにいる神女神さま。色々な相談に乗ってくれるという。会おうと思えば会えないことはない人。でも、直接会うことなんて、本当は、滅多にない。会わないでいる人のほうが多い。
『セイ、森に入るんじゃないよ』
『セイ、また明日ね、って言って』
『セイ、母さんを悲しませたりするんじゃないぞ』
森は、禁忌。
もし入ったら、どうなるんだろう。
なにかが起こるとして……そうしたら、森から出られないナーナは、どうなるんだろう。
どうなるんだろう。
そんなことを考えていたら、鐘の音が止まった。
ピタリと、止まったのだ。
辺りが一瞬静まり返った。その静けさを、雨音が掻き消す。
「行くわよ」
なにが起こっているのか状況が掴めなくて、カヅカは不機嫌な声でユキナリを促した。
「……まったく」
吐き捨てるようなカヅカの声を、三人ともが聞いた。
「……セイ。セイ」
カヅカとユキナリの姿は見えなくなった。
それなのにいつまでも二人の歩いていった方を見ているセイは、ナーナの腕を掴んだままだった。
「セイ、カヅカの雰囲気がおかしかった。セイもおかしい。でも、どうしてなのかナーナにはわからない」
セイは座り込んだまま、
「カヅカ……は、神女神さまだったんだ。おれ、びっくりして……」
「カミメガミサマ……?」
ナーナは、そんな名前を以前にも聞いたことがあった。
「セイと初めて会った日に、誕生日、だった人?」
「……そう」
セイはこっくりと首だけで頷く。ナーナはもう一度、カミメガミサマ、と口にした。
カミメガミサマ。
七つの文字。どこで切れて、どんな意味なのか。
「カヅカは、カヅカ」
ではないのか?
「そうだけど、でもおれたちは神女神さまって言ってる。大切な人だったんだ」
「カミメガミサマ。……長い名前」
「名前、だけど。そうじゃなくて、神様だったんだよ」
「カミサマ?」
「その意味も、わからない?」
それはわかる、とナーナは首を横に振った。
「……神様。ナーナと母様を、助けてくれなかった人」
「え」
「母様が、そう言っていた」
確かにそう言っていた。だから母は……だからこそ母は、消えてしまった。満月の、夜に。
「誰も助けてくれない。神様なんて、いない」
「それも、母さんが言ったの? ナーナも、神様はいないと思ってるの?」
「知らない」
腕にセイの体温を感じる。暖かく強く吹き続ける風が、いつの間にか濡れたセイを乾かしていた。
「神さま……ナーナはまだ、見たことがない」
「カヅカが、そうだよ」
「神、女神……さま」
奇麗な金色に見えた髪。薄い薄い色の瞳。その瞳の強さ。誇りの高さ。
「カヅカが、神様?」
「そうだったんだよ」
「違う」
「違わないよ」
「……違う」
激しい雨は、止みそうにない。風はますます強くなる。
「カヅカは、象徴」
鐘の音が止んでも、雨音は騒がしいままの中、ナーナの声はりんと響いた。
「カヅカは、神様の入れ物。本当の神様は、カヅカの、心の中にいる」
「本当って……」
「セイと、ナーナの中にも、いる」
ナーナは、セイの胸に手の平を押し当てた。
「まだ、見たことないけど、いる」
帰る途中、傘は風の強さに役立たずになった。
びしょ濡れで街に戻ったカヅカは、水分で重たくなった髪をかき上げた。他に、リアクションのしようがなかった。リアクションができただけでも、他の見物人たちと比べればずいぶんましだ。ユキナリでさえ隣で呆然としている。痛いほどに肌を打ち付ける大粒の雨も気にならないほどだった。
カヅカたちの目の前には、ユキナリよりも背丈のある教会の鐘が、教会の前に転がり落ちていた。どんな経路で落ちたのか、赤レンガの崩れたあとを見れば容易に想像ができた。自らの重みと勢いで、石畳に食い込んでいる。
一体どうしたことか、とカヅカは鐘の周りに群がり途方に暮れている技術者たちに駆け寄った。彼らはカヅカにとにかく屋敷に戻るようにお願いするが、カヅカは聞き入れない。仕方なく、技術者のリーダーが教会の天辺を示した。
「鐘を釣り下げていた金具が緩んだんです」
「毎日点検しているはずでしょう!?」
「もちろんです。しかし、こんなに激しく鳴り響くことなど予想できませんでしたから」
「言い訳はいいわ。怪我人は? この鐘のせいで怪我をしたものはいないの?」
いないといい、そう思いながら、いないわけがない、とも思っていた。
「何人か。屋敷のほうに運ばれています」
彼はきつく眉根を寄せた。あまり良い状況ではないらしい。カヅカは大きく破損した教会を見上げた。
「しばらく教会を立入禁止にします。おまえたちは修理を急ぎなさい」
指示をすると、リーダーの返事も待たずに屋敷へと向かった。そこで再び、カヅカはリアクションを失った。
「………っ」
上げそうになった悲鳴を飲み込んだ。
「ツルマ……」
かすれたユキナリの声が、頭の上から聞こえた。
生きているわけがないと思った。
雨足が強くなり、ユキナリとカヅカを探すように命じられたところだったと言う。落ちてきた鐘に、右足を潰されていた。雨で流され出血は多量になり、顔の色はなかった。手当てをしている女たちのエプロンは、元が何色だったのかわからないほど赤く染まってしまっている。
他にもあと七人、こちらはツルマと比べれば軽傷のようではあったけれど、被害が出ていた。教会に祈りに来ていたものや、教会近くの軒下で雨宿りをしていたものたちだという。崩れてきた教会の赤レンガを避け切れなかった。
もしも晴れていたらと思うと、ぞっとした。いつもなら集会の後は子供たちが教会前の広場で遊んでいる。教会に集ったまま聖書を読んでいるものもいる。雨だったから、みな急いで帰った。
でも、これだけの被害で済んでよかった、とカヅカは思ったりしない。
「手当ては、もういいわ」
女たちがカヅカに注目した。
「もういいから、傷を負ったものと、わたしだけにしなさい」
女たちは素直にカヅカに従う。黙礼を残して部屋を出ていく。その中に、いつもなら必ずいるはずのミクの姿がなかったことに、カヅカは気が付いたけど、気にはしなかった。
「おまえもよ、ユキナリ。出ていきなさい」
声には憤りもあせりもなかった。けれど、黙って首を横に振るユキナリに、声はきつくなった。
「行きなさい。行ってお母様にご報告を。誰もこの部屋に近付けないで、明日の朝になったら、おまえが、迎えに来なさい」
ユキナリを追い出し、カヅカは部屋に鍵を掛けた。雨に窓も閉ざされている。部屋の中は、血の匂いがした。
カヅカは濃い臭気を、飲み込んだ。