「祭りが始まるわ」
ミクが耳にしたのは、彼女の嬉しそうな呟きだった。
「御使い、様?」
嬉しそうに、しているのだ。
昨日、時計が止まった。かと思えば今日は鳴るはずではないこんな時間に、狂ったように鐘が鳴り出した。
ここは教会に一番近い屋敷だ。間近で狂った鐘の音を聞いているというのに、彼女は笑っている。
降りだした雨は、鐘の音に負けぬくらいの豪雨に変わっていた。雨粒がばたばたと窓ガラスを叩く。耳を塞ぎたくなるような音の中、もう何カ月も前に成人を向かえたはずのミクは、けれど、まだずいぶん子供の表情で、怯えた。
雨に、ではなく。
御使い様の笑みに、怯えたのだ。
「ねえ、ミク」
狂った鐘の音や雨の声など聞こえぬように、彼女はいつものようにゆったりと椅子に掛けている。うるささに耳を塞ぐこともない。音に負けぬように声を荒げることもない。彼女の声は、いつもの通りに聞こえた。
「……は、はい」
ミクは音に負けぬよう大きな声で返事する。
「おまえ、好きな者はいるの?」
「え、あの……」
突然聞かれた。こんなときに、と思った。それでもその人物を思い浮かべて、怯えていたのも忘れ、頬を赤らめた。
「いるのね。それは誰?」
「はい、あのっ」
彼女に尋ねられれば誰でも、なんでも答えてしまう。お茶を入れかけていたポットを手にしたまま、想う相手のことを口にする恥ずかしさに、ミクは俯いた。
「お隣の、マシタ様のお屋敷に勤めています、シドのことを……。あの、お互い、小さな頃に両親を亡くしてお屋敷に引き取られました。それで気が合って……」
どこまで言えばいいのかと戸惑い出した頃、もういいわ、と彼女が言った。
「シド、そう。知っているわ。でも、かわいそうに」
ミクは顔を上げた。かわいそうに、と言った彼女はやはり、笑っていた。
「おまえ、シドと結ばれることはないわ。ええ、決してね」
彼女の言葉は、絶対だった。
「おまえは、意に沿わぬ男の子を生まなければならないのよ。かわいそうね」
白いベールを上げた彼女の顔は、それは嬉しそうに笑い続けた。
鐘は鳴り続けている。
彼女の声は、奇妙な程よく通った。
ミクは言葉にできない動揺に、ポットを取り落とした。陶器のポットは床で弾けて粉々になった。その壊れる音は、強い雨と鐘の音に掻き消され、ミクの耳には届かなかった。
滝のように降る雨に煙る教会を見上げる女の顔には、特に表情はなかった。
家に帰れば学校に入ったばかりの子供がいる。それくらいの、まだ若い女だ。
「なんだい、どうなってるんだい」
隣の女は買い物袋の中身が濡れないように、雨宿りする雑貨屋の軒下の奥に身を潜める。その目は怯えていた。教会を見上げ、いつまでたっても動きを止めぬ鐘に見入っている。
女は耳を塞ぐのに、隣の女は耳を塞ぐことも忘れ、雨と鐘の音の中で怯えていた。神に祈るように、両手をしっかり組んでいる。
風が強く吹いて、スカートの裾が濡れた。女は軒下で、雨から逃げるために後退さった。
「すごい雨、ね」
女は口先だけで呟いた。黒い髪が頬に掛かるのがうっとうしそうに、何度も首を振る。そうしながらも、教会と、目の前で振り続く雨から目を離すことはしない。教会を見ることも雨を見ることも、物珍しそうにしている。
「あんたはこの町に越してきたばかりだからよく知らないかもしれないけれど、こんなこと、珍しいどころか、滅多にあることじゃないんだよ」
隣の女は組んだ手を解こうとしない。言葉も、自分に言い聞かせるためのひとりごとのようだった。
「……そう」
女は視線を、教会と反対に見える森の木々へと移した。それから急に、肌寒そうに身震いした。
もう、すぐに、月のない夜が来る。
その次の日からは、月はどんどん丸くなる。
新緑の季節も深まり空気は暖かくなっていくというのに、雨はひどく冷たかった。
「雨って、冷たいものだったのね」
そうすることがすっかり身に付いてしまっているように、女はまた、口先だけで呟いた。
「……次は、あの子の番……ね」