カヅカがしたのとまったく同じ嫌そーな顔を、セイもした。ついでに口にもする。
「うわ、ほんとに来た」
しかも今日はカヅカはひとりではない。年も身長もセイより高い青年が後ろに控えている。傘を一本だけ持っているところを見ると、彼が傘をさして差し上げてきたようだ。
「お姫さまでもナーナの『また明日ね♪』にメロメロ? お姫さまは穢れたりしないわけ、森に入っても」
後ろに控えている彼の怒ったような顔は恐かったけれど、二人の時間を早々から邪魔された腹いせはする。仕返しするなら受けてたつぞ、と構えるけれど、青年は我関せずといった顔をしている。
なんだ? ボディーガードじゃないのか? とセイはファイティングポーズを取ったまま小首を傾げる。
恐い顔をして文句を言ったのは、お姫さまのほうだった。
「穢れるですって? 誰が? わたしが!?」
ふん、と鼻でお笑いになる。
「おまえ、誰に向かってそんな口をきいているのかわかっているの?」
ずいと踏み出してくるので、セイはナーナを庇う。庇われたナーナは、どうして庇われているのかわからない様子で、また森に一人増えた青年を、珍しげに見上げている。
ナーナはそのまま、つと、空を見上げた。どんよりした雲の向こうに浮かんでくるはずの月を思う。細く細くなった月は、明後日には消えてしまう。次の日からは膨らみ始める。
月はまた満月に向かう。
そんなナーナの不安げな表情を見逃さなかったのは、ユキナリだった。
森に捕われているという少女。見た目はカヅカとあまり変わらない年のごく普通の、街のどこにでもいそうな少女だ。その少女が、自分をじっと見ていた。だからユキナリもじっと見下ろしてみた。
昨日流れていった赤い水。時計が止まり、街は混乱した。それは本当にこの少女の穢れの仕業だったのだろうか。カヅカを疑うわけではない。そうではなくて、本当に穢れを受けていると言うのなら、だったらなぜ、この少年はこの少女の傍に居るのだろう……いられるのだろう。
結果的に二人がとても熱心に見つめ合ってることに、セイとカヅカが同時に気が付いた。
「ナーナ?」
とセイが。
「ユキナリ?」
と、カヅカが。
呼ばれて、二人ははっとする。
その拍子にナーナは小石を踏みつけて滑って転ぶ、と思った瞬間、そこに差し出されたなにかに掴まって事無きを得た。ユキナリの持っていた傘だった。ナーナは瞬きした後、ユキナリを見上げる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ユキナリは反射的に応えていた。言うつもりなどなかったのについ言ってしまった。そんなまずそうな顔をした。
カヅカがユキナリを突き飛ばした。
「おまえ、この子に触れるなときつく言っておいたでしょう!?」
カヅカに突き飛ばされたくらいではしりもちを着くどころかふらつきもしないユキナリだったけれど、ナーナが掴まったままの傘のバランスまでは保てなかった。ふらついて、ナーナは傘と一緒になって倒れ込む。
「ナーナっ」
セイはすぐに助けようとしたけれど、ナーナを寸前で支えたのはユキナリの腕だった。ナーナを抱きかかえるようにして、地面との間に入り込んでいる。つまり、ユキナリはめちゃめちゃしっかりナーナに触っている。
「ユキナリ、おまえ、わたしの言いつけを守る気がないの!?」
怒りに任せているカヅカを、ユキナリは表情なく制した。
「では、あなたも俺に、触らないでください」
同じ、表情で。
「俺も、穢れているんですよ、カヅカ様」
「なん……ですって?」
カヅカの動きが止まった。ユキナリはその反応に失望したようにも見えた。満足したようにも見えた。睨んでくるセイと目が合って、ナーナを、セイの手に返した。
「え、あ。どうも」
セイは戸惑いつつナーナの手を受け取った。自分で助けてあげられなかったのが悔しくて情けなくて黙っていたけれど、あと三秒もしたら絶対に言っていた。
ナーナに触るな!
むちゃくちゃな独占欲。
それを見透かしてユキナリは、落ち着け、とセイの頭を小突いて目を細める。
取ったりしないから安心しろ、と言われたようだった。
セイは赤面した。
・・・
そんな感情に、気が付いた。
ナーナに関しての自分は、少し変だ。
ここに二人きりで居たいと思う。
誰も、自分たちの邪魔をするな、と思う。
「ごめん……」
ナーナの手を取って、自分の額の高さに掲げた。
「ごめんなさい、十五歳になるまで不埒なことはもう考えません、神女神さま」
ナーナはされている意味がわからずにきょとんとしている。ユキナリはセイの考えていることなど見通していたように微かに笑む。カヅカは、おもしろいことを聞いた、というように大仰に胸を反らした。
「おまえ、まだ未成年だったの!? なのに色々とこのわたしに意見してたのね」
「え、カヅカ、もう十五歳なの?」
確かユキナリという青年が、彼女のことをそう呼んでいた。
「おまえ、わたしを誰だと思っているの。カヅカ様と呼びなさい」
「……女王様?」
セイの言い様に、ぷ、と噴き出したのは、
「ユキナリ、おまえ、なにがおかしいのよ!」
「いえ、申し訳ありません、つい」
相変わらず顔は全然申し訳がっていないが。
「ユキナリ、だっけ。ねえ、街の西のお姫さまたちって、みんなこんなん?」
「だいたい」
「ふーん、あんたも難儀だねえ。おれ、卒業してもそっち方面に就職すんのやめよ。給料いいって聞くけど、鐘守りとかにあたると大変そうだし」
ナーナがぶんぶん手を振ったので、セイはずっとナーナの手を掴んでいたことを思い出す。あまり離したくはなかったけれど、さっき神女神さまに謝罪した手前慌てて離した。
「ユキナリもおまえも穢れ憑きの子にでも優しくできるのね、奇特なこと」
「穢れって言うなって言ってるだろ。理解してくれる気が無いなら一緒に居たくないとも行ったろ。あんた、なんでわざわざ来てんの?わざわざそんなことばっかり言いに来てんの? わざわざ? ご苦労だよね」
「神女神さまに謝らなければならないような事を考えていて、浮かれ気分で状況を理解しようとしていないのはおまえのほうだわ。また時計を止められたら適わないと、わざわざ出向かなければならないよのわたしたちは、ええ、わざわざね」
「時計が止まったのはナーナのせいじゃない。すぐに動いたじゃないか!」
「お浄めをしたからよ!」
「……お浄め?」
なんのことか、と小首を傾げたセイは、カヅカでなくユキナリに問いかける。単純に、こちらのほうが話がわかりそうだと思ったのだ。ユキナリは案外セイが気に入ったらしく、すぐに答えた。
「神女神さま御自身が、お浄めをされた」
「神女神さま……が?」
「そうだ」
神女神さまの名を出されて、セイのテンションが下がる。勢いを失って、控え目に聞いた。
「お浄めって、毎朝、毎晩……されてるの?」
カヅカとユキナリは顔を見合わせた。
「おまえ、なにが言いたいの?」
わざわざ毎朝毎晩しているわけではない、というその言い方に、セイは確信して、勝ち誇った。
「ほら、ナーナの穢れなんかじゃないじゃないか。ナーナは朝と夕方あの泉で毎日行水みたいなことしてるんだ。ナーナが穢れだっていうなら、神女神さまも毎朝毎晩お浄めしてなくちゃいけないはずだろ。ほんとは水源だって間違いで、ここじゃないかもしれないじゃないか」
「でも、ユキナリは血が流れたのを見たと言ったわ。その子怪我してるじゃない」
「川で洗い流した血が、そのまま水に混じりもせずに、血だってはっきりわかるくらいに流れてくわけないだろ」
「……おまえ……」
我慢ならないというように、カヅカは手の平を握り締めた。唇を噛む。ユキナリがなにが助け船を出す気配はない。
「気に入らないわ」
「おれは間違ってない」
まっすぐな眼差し。
背に庇われている少女。
「間違っていない、ですって!? それは神女神を侮辱するということ? 神女神のしたことが間違いだと言っているの!?」
敬称を付けずに街を守護する神の名を呼ぶカヅカに、セイは息を呑んだ。
「セイ……」
ナーナも怯えたようにセイの腕を掴んだ。その目はカヅカを見つめていて、カヅカ以外のなにかも見えているようだった。セイには、そのなにか、なんて見ることも感じることもできないけれど。無意識に、自分の手をナーナの手に重ねていた。
「おれ、神女神さまを侮辱するなんて、そんなこと……」
あるわけがない、と、目に見えないなにかに圧倒されて、最後まで言うことができない。
「だったら謝罪なさい。今すぐこの場で!」
「え……」
言われている意味が、よくわからない。教会に出向けと言われるならともかく、この場でとはいったい……。
「カヅカ様……!」
ユキナリがカヅカの次の言葉を止めようとしたけれど、聞き入れられることはなかった。
カヅカのかわいらしい声が、
「わたしが神女神よ、この街の神よ」
その意味をわからせるように、ゆっくり紡いだ。
カヅカはナーナの手を掴み上げる。
「わかるのよ、おまえが普通のものではないことくらい。でもわたしはおまえに触れたくらいでは、その穢れに冒されたりしないわ」
壁の外の雨が激しくなる。
水分を含んだ生暖かい風が、壁の内側に吹き込んでくる。
森の木々が揺れた。森の端にある泉の水面が大きく波打った。
朝の鐘はとっくに鳴り終わったはずだった。夕刻の鐘の時間にはまだずいぶん早いはずだった。
なのに、
街中に、狂ったように鐘の音が鳴り響いた。