教会の鐘が鳴らなかったことなどまるでなかったように、街は次の日の朝からいつも通りに動き始めていた。いつも通りの、街の朝の風景があった。
「セイ! いつもいつも言ってて飽きたけど、遅刻するんじゃないよ!」
教会に行かねばならない休日の朝は、いつでも母が同じことを言って先に出ていく。セイだって、そういつもいつも遅刻しているわけではない。遅刻することのほうが珍しいくらいで、今日もきちんと賛美歌の始まる前に席に着くことができた。
お祈りをして、長の説教を聞く。一時間もしないうちにそれらは済んで、まだ少し眠たげにセイはあくびをした。
「また本でも呼んでたんだろ」
「うん、もう読んじゃったからって、ミネキがガフ船長シリーズ、届けてくれたからさ」
「髪の赤い子だろ?」
「そうそう」
教会を出たセイは、父と母に挟まれて歩きながら伸びをする。チラリと森の入り口を見た。見ただけで通り過ぎる。
一度帰って、そうしたら森へ行こう。そう思った矢先。
ポツリ……と、雨が降ってきた。
「おや、珍しいね」
教会からぞろぞろと出てくる人々も、母親と同じようなことを口にしながら空を見上げていた。乾いた夏に雨が降るのは珍しいことだった。もちろん、まったく降らないということはないし、これくらいで異常気象だの天変地異だのと騒いだりはしないけれど、小さな子供たちがはしゃぎ出すくらいには十分珍しい。
家に帰ったセイは昨日と同じようにバスケットに大量のランチを詰め込んでもらう。森に降る雨を想像しながら家を飛び出していく。
「セイ、コート着てかないのかい?」
母に呼び止められて、セイは、いらない、と大きく手を振った。
「そんな暑苦しいの、着てられないよ」
傘を差す習慣はこの街にはあまりなかった。雨が降るのは夏前の涼しい季節で、頭からすっぽり被っていればレインコートは暖かいし便利だったけれど、すっかり半袖の季節にあまり進んで着たいものではない。
小雨だし森の木陰に入ってしまえば大丈夫だろう、とセイは軽い足取りで出掛けていく。
浮かれ気分絶頂の息子の背を、しょうがないねえ、と母は見送る。
「セイ、そのまま若さと気分に身を任せて、大切な子に手を出したりするんじゃないよ」
「わーかってるって」
セイはまた大きく手を振る。
「そんな心配しなくても、十五歳になるまでは、おれはちゃんと母さんと父さんと神女神さまのもんだよ」
「はいはい、信用してるよ」
大声に、通りのパン屋のニイが顔を出してきた。髭もじゃの四角い顔を支えている太い首には、いつも真っ白なスカーフを結んでいる。ふわふわの白パンも絶品だけれど、彼が得意なのは野菜を使ったパンケーキだ。
「小雨の中のデートとは粋だね、セイ」
「だろ?」
「羽目を外して、母さんを悲しませたりするなよ」
「うん、同じこと、昨日ニイの奥さんにも言われた」
十五歳になるまでは子供で、一人前じゃない。だから色々なことに対してみんなが心配をしてくれる。間違って道を踏み外さないように。誤って、神女神さまの子供である幼子たちが傷付かないように。いつか必ず大人になるのだから、あせって、健やかな時を壊してしまわないように。
神女神さまの教えのもと、これが当たり前の生活をしている。セイも、母たちの言葉をうるさいとは思わない。心配してくれていることが嬉しくて、足取りはさらに軽くなる。
が、軽い足取りとは裏腹に、森に入ると雨足は強くなってきた。灰色の空を見上げ、あちゃー、やっぱコートあったほうがよかったかなと少し後悔する。それでも今さら戻るのも面倒で、取り敢えず走った。
その足がふと止まる。すぐそこまで、ナーナがお迎えに来てくれていた。
嬉しい。嬉しいけれど、でも、止まったのは嬉しかったからじゃなかった。こういう場合は、走るのをやめたりしないで駆け寄って抱きつきたい。実際にはそんなすごいことしないけれど、それくらいはしたい気分でとにかく駆け寄っている。
なのに止まってしまったのは、ボソボソと頭から濡れていくセイとは対照的に、ナーナがまったく濡れていなかったからだった。
ゆっくり歩いていくと、その境目がわかった。境目から向こうは、雨が降っていない。
「壁……」
呟いて、実感した。そうかこれが壁なんだ、と。その境目を跨ぐとき思わず目をつむった。ぶつかりそうな気がした。大股で、またぐ。
感じたのは、雨が止んだ感触だけだった。他にはなにも感じない。でももうここは壁の中で、見上げてみると同じように灰色の雲がかかっているのに、どうしてか、雨は降っていない。
「すごいや」
言ったらますます実感して、ナーナに笑いかけた。
「なんか色々すごいけどとりあえず、濡れなくて遊べるんだ」
「雨も、ナーナが嫌いなだけ」
ナーナはセイが笑うからつられて笑いながら、壁を触っている。仕方ない、そんな笑顔を浮かべながら手の平を上へ向けて、雨を受けるような仕種をする。
「ナーナは泉の水しか知らない。雨も雪も、入ってこない」
「不思議だね」
「不思議? 違う。きっと、雨も雪もナーナが嫌い。街の人間と、一緒」
「そんなことないよ」
セイはナーナの手の平に、べっとり濡れた自分の頭を差し出した。毛先から落ちる雫がナーナの手の平に落ちる。それは雨の感触。ぽつりぽつりと落ちてくる、水の感触。
「これが雨の水だよ」
「これが、雨の、水?」
ナーナは瞬きしてセイを見て、自分の手を見下ろした。泉の水以外に、初めて触った。
「嫌ってなんかない。おれが持ってこられるくらいだから、そんなことない。ほら、おれなら、持ってこられるんだ。雪も持ってきてあげるよ」
だから一緒に作ろう、と言う。なにを? とナーナの眼差しが問い返す。セイはじっとナーナを見て、べ、と舌を出した。いたずらを思いついた子供みたいだった。
「ゆきうさぎ」
木漏れ日の差し込む場所に置くと溶けちゃうけれど、日陰に置いておくとなんだか淋しい感じ。
「たくさん作ろう」
日向に置いて、溶けてもいいように、たくさん作ろう。
「うん、一緒に、作る」
ナーナははにかんで俯いた。
まだずっと先の約束だ。
新緑の季節、猛暑の季節、落ち葉の季節、その次にやっと雪の季節がやってくる。
今まで季節は順番に巡るだけだった。体感温度が変わること以外に、感じることなんてなにもなかった。次の季節が早く来ればいいなんて思うこと、なかった。
「雪の季節が、待ち遠しい」
はにかんだままのナーナが笑う。
「うん……あの、そう、だね」
セイは、そんなふうにしか答えられなかった自分がなんだか悔しかった。やられた。また笑顔に見とれてしまった。
「ちょっと、またいちゃついてるわよ」
セイが来たのと反対の場所からやってきたカヅカが、嫌そーに呟いた。