〜 鐘の音4 〜




 その頃お姫さまがどんな顔をしていたかというと、とても満足げだった。やっとありつけた朝食を頂いているユキナリの向かいに腰掛けて、にこにこと上機嫌な顔をしている。
「お浄めしたらすぐに鐘は鳴ったじゃないの。やっぱり穢れてたのよ、ほら見なさい」
 カヅカのことは気にしないで食事をしていたはずのユキナリは、口元に運びかけていたスプーンを止めた。
「それは誰に向かって仰っているんです?」
「おまえや、おじじさまたちではないわね」
「……そうですか」
 ま、どうでもいいか、という態度でユキナリは食事を再開する。パンを千切って口の中に放り込んだ。
 一般的には昼時のこの時間、二人がいるのは食堂で、食堂には他の男たちも集っている。男たちばかりなのは、ここが西の棟の食堂だからだ。食堂に入ってくる男たちは、なぜこんなところにお姫さまがいるのかとぎょっとする。二人は他人の目など意に介さない。
「森に行かれたんですね」
 ユキナリはコーヒーを飲み込む。飲み込むついでに言ったのか、言ったついでに飲み込んだのか。
「時計を動かしてる水の元があの泉かも、と思ったら行くでしょ、普通」
「普通は行きません」
 だから技術者たちは原因の追求よりも故障カ所の追求に努め、長たちもユキナリの証言を頼りにしたかったのだ。
「行ったおかげで原因がわかったのよ。それにもうひとつ、おもしろいことがわかったわ」
「なんです?」
 興味なさそうにユキナリは聞く。聞かないと怒るのだ。
「壁よ。女の子のほうが、森に捕われていたわ。捕われているのよ、森から出ることができないのよ」
「そうですか」
「そうですかって、おまえ、興味がなくてもわたしの話は真面目に聞きなさいよ」
「聞いてますよ」
「食べるほうが忙しそうに見えるわよ」
「食堂で他になにをしろと?」
 カヅカが取り上げたマグカップを、ユキナリがまた取り上げる。飲み欠けのコーヒーだ。
「あなたの口に合うようなコーヒーじゃありませんよ」
「知ってるわ」
「そうですか」
「おまえたちのものはわたしの口には合わない。同じように、わたしのものはおまえたちの口には合わないのよ。当たり前じゃない」
「そうですね」
 確かに、と納得して、ユキナリはカヅカから視線を外した。
「森に捕われているという少女は元気でしたか? 怪我をしていたのは彼女でしょう」
「そうよ、その血が穢したのよ。なのに相変わらず、騎士(ナイト)といちゃついてたのよ。生憎、元気そうだったわ」
「気に入りませんか?」
 話をしているうちに、ユキナリの皿はどんどん片付いていく。周りを見れば、男たちの顔ぶれはすっかり入れ替わっていた。東の女たちの棟の食堂と違ってやたらに混んでいないように見えるのは、回転がいいせいらしい。
「森の中にはいつもあの二人しかいないみたい。二人だけの世界みたいで、苛つくわ。騎士は言い張るのよ。この子は穢れてなんかない、って」
「だから騎士なんでしょう」
「お浄めをしたら時計は動き出したわ。お姫さまは、やっぱり穢れてたのよ」
「満足そうですね」
「わたしが間違っていないことが証明されたのよ。ええ、わたしが間違えるはずないわ」
「そうですね」
 コーヒーを飲み干して、ユキナリはトレーを持って立ち上がる。食堂のおばちゃんにトレーを返すと、カヅカの動きを目で追った。
 カヅカはユキナリがトレーを返すのを見て、食堂を出る。ユキナリはその後を着いていく。それは二人にとっては当たり前のことだった。カヅカはユキナリに振り返らずに、口を開く。
「ねえ、ユキナリ」
「なんですか」
「おまえは、わたしを、理解しようと努力している?」
「カヅカ様を、ですか?」
「わたしを、よ」
 中庭に出る。よく手入れされている花壇には季節の花が咲き乱れている。
 ユキナリはどんなふうに答えるべきかと、カヅカを見る。目を逸らしたのは、カヅカのほうだった。ユキナリの返事を待つ気はない。
 しばらくしてカヅカの口から出てきたのは、まったく違う言葉だった。
「明日も、森へ行くわ」
「そうですか」
 ユキナリはカヅカの歩調に合わせて、どこまでも着いていく。



「あの姿だけ見ていると、幼い頃となにも変わっていないように見えますな」
 花壇の奥の窓からカヅカとユキナリを眺めていた長は、立っているのが大儀そうに、用意された椅子に掛けた。
「カヅカ殿は、昔から気丈でおられた」
 窓の外に残しておいた視線を部屋の中へと移す。部屋の主である彼女は、ベール越しに薄く笑んだ。
「私の娘である以上、気丈でなければ」
「そうですな。でなければ、老いた身には適わぬことです」
「この土地を豊かに保つためだと、割り切ることです」
 彼女もまた、窓の外を眺める。
「かつての私もあの二人のようであったのなら、見ているものたちは微笑ましく思っていたことでしょうね」
 御使い様、と呼ばれている彼女は懐かしげに、遙か遠くなった風景を思い出す。だが、眼差しを細めたのも一瞬のこと。
「今でも、月が欠けていくのを見る度に、泣き出したくなります。月のない夜でした。カヅカは……」
 常に手近に置いてある厚く綴られた手帳の一ページ一ページを、重そうに開く。もう何度も何度も開いて、すっかり暗記してしまっているはずのそのページに目を落とす。
「あの子は、満月、になるのですね」
「では月が満ちていくのを見る度に、あなた様と同じ思いをされるのでしょう」
「同じ?」
 おもしろいことを聞いた、とでも言うように、ひそめた声で、く、と笑った。
「御使い殿?」
 長の期待に応える気などないように、ついと視線を躱す。立ち上がり、窓を開き、花壇の隅にいる二人を確認してベールを上げた。濃い栗色の髪が零れた。
 カヅカが彼女に気が付いて、大きく手を振った。
「ごきげんよう、お母様」
 傍らのユキナリも小さく頭を下げる。彼女も手を振って応えた。カヅカのように元気よく大声を出したりはしない。微笑むだけで十分だ。
 けれどその笑みは、どこか作り物じみていた。カヅカやユキナリには遠すぎてわからなくても、長にははっきりとわかる。
 彼女は窓を背にして立つと、逆光の中、泣き出すように両手で顔を覆った。そのまま、誰かに許しを請うように天井を仰ぐ。零れた髪は真っ直ぐで、その色も髪質もカヅカのものとは似ても似つかない。
「長殿、同じ思いなどというものは、どこにもありはしません。カヅカの思いはカヅカのもの、私の思いは、いつでも、今でも、リキルのもの。誰かの語った思いが、自分の置かれた状況と同じだからといって同調させてしまうのは、自分に酔いたい者がすること。自分と誰かを比べなければ安心できない者がすること。同じ思いなど、ありはしません。これは、私の想いです。私だけの」
 彼女は泣いてはいない。
「泣くのには飽きました。残っているのは恨み言ばかり」
「私は今でも、あなた様のその言葉を信じることができません」
「そう、誰も信じてくれない。だからこそ私たちは、より恨むのですよ」
 窓の外には例年通りの、乾いた夏がやってきている。なにもかも、例年通りの……。
「先代様も、以前、同じことを言っておられましたな」
「ええ、そうでしょうとも」
 勝ち誇ったように彼女は唇を歪めた。顔を覆っていた両手を長の前に付き、どうしても欲しいものをねだる子供のように、長を覗き込む。
「それで、今回の贄娘(にえむすめ)は誰に?」
 欲しいものがもうすぐ手に入る。期待し、無邪気で、無防備で、その先のことなど知らない。なにも考えていない。とにかく今は、それさえ手に入ればいい。
 そんな、欲しいものだけしか見ていない彼女の目の色に、長は息を飲み込んだ。そんなところまで、以前となにも変わらない。今は先代様と呼ばれている彼女も、同じ目をした、同じことを尋ねた。
 長もまた、同じ答えを用意している。
「奇なことを仰られる。贄娘ならミクに決まっております」
 決まっていることを彼女も知っているはずだった。それでも、彼女たちはいつでも、確かめるように尋ねてくる。
 コン、と彼女はテーブルを叩いた。
「そう、そうだったわね。可哀想なこと」
 欲しいものを手に入れた。嬉しそうに、彼女はさらに唇を歪めた。
「名誉あることだと仰っていただかなくては、面目が立ちません」
「名誉? そう、確かに名誉ね。ミク以外のものは、みな、そう言うことでしょうね」
 彼女の嬉しそうな表情は変わらない。
 部屋に午後の陽が差し込む。
 教会の時計が動き出したことを知って、街の生活もいつものように落ち着いていく。
 月が欠け、月が満ちていくことなど、気にも止めない。
 誰も……。



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