〜 鐘の音3 〜




『母様もナーナもつみびとだから、だから誰もこんなところにはやって来ないわ』
『つみびと?』
 昔、確かに聞き返したことがある。あのあと母は、なんと言ったのだろう。
 ナーナは、カヅカと別れてからもずっと繋いでいる手に力を込めた。セイが、どうしたの? と聞いてくる。
 なんでもない、と答えるナーナは、けれど手の力を緩めない。
 母は、なんと言った?
『みんなは母様たちを嫌っているのよ。だから誰も森にはやって来ないのよ。誰も私たちを見ないし、誰も私たちに触れないわ』
『嫌い? ナーナのことも、嫌い?』
『ええ、誰も好きになってくれないわ。母様以外はね』
 その母の言葉に、寂しいとか悲しいとか思った記憶はない。
『母様はナーナを好き?』
『もちろん大好きよ。ナーナだけが大切よ。ナーナも母様が好きでしょう? だからナーナ、おまえも母様以外を好きになっては駄目なのよ。そんな必要もないのよ。簡単なことね、だってここには、母様以外、誰もいないんだもの』
『うん』
 無邪気に、返事をした。
 あの頃は、母以外の人間なんて知らなかった。母以外の誰かと話をすることも、母以外の誰かを好きになることも。そんなやり方さえ、知らなかった。
 必要のないことだった。必要ないと思うことに疑問など持たなかった。
 でも。
 ナーナはセイをじっと見上げた。
 セイは、好きだと言ってくれた。
 母様の言ったことは、嘘だった、の?
 母様以外にも、好きだと言ってくれる人がいた。
 母様が、嘘をついたの? 
 じゃあ、母様以外の誰かを好きになってもいい、の?
「……セイ」
「なに?」
 呼べば答えてくれる。それだけのことにひどく安心する。ナーナを好きだと言った母は、今は、いない。好きだと言ったのも、あれも嘘だったのだろうか。嫌いになったから、だからいなくなったのだろうか。
「セイは、ナーナをずっと、好きでいて」
「大丈夫。自信あるから」
「うん」
「あ、ほんとだよ?」
「……うん」
 ぽつりぽつりとゆっくり交わす会話は、時間が流れていくのと同じ速さのようだった。
 ゆっくり、ゆっくりで。
 壊れることのない時間のようだった。



 ふと気が付いたら、間近にナーナの顔があってセイは跳ね起きた。大木の根元に座り込んでいた二人はいつの間にか眠っていた。
 ナーナの寝顔が間近にありすぎて、セイは思わず飛び退いた。繋いでいたままの手のせいでナーナばったり横に倒れる……のを、なんとか抱き止めて一息ついた。完全に目が覚めた。
 ナーナはまだ、小さな寝息を立てている。セイがしっかり抱き止めてるのに、さすがに逃げずおとなしくしている。できればずっとこのままでいたい、と思った途端、セイのお腹が鳴った。
 見上げれば、太陽は真上に近い。
 セイはナーナをそっと木に持たれさせると地面に書き置きをする。眠っているナーナを起こさないように、しー、と唇に人差指を押し付けながら森を出ていった。
 ほんの少し、また、時間が流れる。
 手の平に感じていたはずの体温を失って、その体温を探すように指が開いた。はじめ、手だけが、そこにいるはずの人を探す。でもいなくて、やっと、ナーナは目を開いた。
「セイ?」
 木漏れ日に顔をしかめる。眩しさから逃げるように思わず下を向いた。そこには「すぐに戻ってきます」と走り書きがあった。目に入らないほどの大きな文字に安心する。
 ナーナが安心したのを確認したように強く吹いた風が、森を大きく揺らした。
 太陽はもう真上にある。森が揺れるのに急かされるように、ナーナは水辺へ向かった。



 大きなバスケットを腕に引っかけてスキップしていたセイは、ピタリと立ち止まると挙動不審に辺りを見回した。初めてのときそうだったように、森の入り口ではいつもドキドキする。森へ入る姿は、誰にも見られてはいけない。
 森は禁忌。森は神女神さまの手の内の外。
 そういえば、結局名乗りもしなかったあの街の西のお姫さまだって、森の中に入り込んでいた。人のことを穢れだなんだと見下していたわりには、あの子だって禁忌の地に思いきり踏み込んでいた。自分たちはいけなくて、あの子ならいい、とでもいうのだろうか。
 まあ、なんでもいいけれど。
 セイはこそこそと森に入り込むと、あとはナーナのところまで一直線に駆けた。
 ナーナは、大木の根元にはいなかった。セイの書き置きの続きに「泉にいる」と小さな文字で書いていてあったので、深く考えずにそちらへ向かった。小川を上っていって、泉にたどり着く。そこでやっと、この成り行きは少々よろしくないことに気が付いた。
 脱ぎっぱなしにされたナーナのワンピースを泉の脇に発見して、ぼっとり落としてしまいそうになったバスケットを慌てて抱え直す。
 服がある。ということは、その中身は?
 見てはいけないと思いつつ、泉に目をやる。水面一杯に黒く広がっているのはナーナの髪……で。空気ほどに透き通った水中にナーナの肢体が見えて、セイは今度こそバスケットを落とした。
 水面が風で揺れていたからはっきり見えていません、と言い訳できるくらいには確かにはっきり見ていない。それでも、肌の白さは脳裏にしっかりくっきり焼き付いてしまった。……なんで毎日裸で泉に、と見当違いにもちょっとナーナを恨みたくなる。ひっくり返したバスケットの中身もひっくり返ってしまった。ここは一つ、ナーナに恨み言でも言ってみよう、とこぶしを握る。
 固い決心のまま待つことしばらく。
 ……ナーナはなかなか出てこない。見ていないのではっきりしないが、水の中で動いている気配もない。まさか。
「ナーナ!?」
 呼んだところで果たして聞こえるのかどうか。水際に寄ってもう一度呼ぶ。
 呼ぶのと、ナーナが水から上がってくるのが同時だった。なに? と平然とした顔をして、ナーナは堂々と水から上がってくる。
 ナーナの姿に、セイは草の中に突っ伏した。
「セイ?」
「ちーかーよーらーなーいーでー」
 顔を草の中に突っ込んだまま、半泣きで訴える。今度はあろうことか、正面からまともに見てしまった。不運だ、と嘆く。
 鐘が鳴り響いたのは、そんなときだった。
 ナーナは教会のある方向を見やる。
 セイは相変わらず草の中に顔を埋めたまま呟いた。
「鳴ってるじゃん。なにが穢れだよ」
 ナーナは泉の中にいた。
 穢れているというナーナは、水の中にいたのだ。それでも、鳴っている。
 時計の調子が少しおかしかっただけなのだ。今頃あのお姫さまはどんな顔をしているだろう。これで自分たちの疑いも晴れただろう、と思うと気分はすがすがしく晴れ晴れしい。固いはずだったなにかの決心も、どうでも良くなった。
「ねえ、ナーナ。鐘が鳴り終わるまで、おれ、こうしてるから、その間に体乾かして、服着たらお昼ご飯にしよう」
 バスケットを引き寄せる。
「急いで母さんに作ってもらって詰めてきたんだ。ちょっとくちゃくちゃになっちゃったけど、きっとおいしいと思うよ」
 セイにはもちろん見えなかったけれど、ナーナが、わかった、とこっくり頷いたのが感じて取れた。
 頷いたのを合図にするように、初夏の暖かい風が吹き始めた。雨季はもう終わった。湿っていない風は、すぐにナーナの体を乾かしてくれる。
 ナーナはワンピースを引き寄せながら、セイの脇にちょこんと座り込んだ。
「セイは、裸のナーナは嫌いなのもわかった」
 母と二人きりだったとき、裸だからダメだと言われたことがない。多分そんなことだと思っていたセイは唸る。
「嫌いとか、正直に言うとそんなこともないこともないんだけど、でも、ダメ。しかもおれまだ十五歳になってないし、ものすごくダメ。十五歳になったっらオッケーってわけでも全然ないけど」
「でも、ナーナは朝と夕方は泉に入る」
「え、毎日?」
「そう、毎日。でもセイはダメ。うん、わかった」
「ブー! おれ以外でもダメダメ。もしおれ以外がここに来るようになったときは、やっぱりダメ」
「どうして?」
「それはね、その人たちはみんな、ナーナの母さんじゃないからだよ」
 鐘の音の合間に喋る。特に大声を出さなくても、お互いの声はよく聞こえた。
『簡単なことね。だってここには母様以外は誰もいないんだもの』
 セイ以外の声が耳の奥に聞こえて、ナーナはキョロキョロした。セイは草の上に突っ伏したままだ。
 声は、母の声。
『母様以外は……』
 母だけの、声。
「セイは、母様じゃないから、ダメ」
「そうそう」
 やっとわかってくれたか、とセイの声が弾む。
 ナーナは、両手で頭を抱えた。
『ダメダメ』
『駄目よ』
 頭の中で、色々な声がする。少し、混乱する。どっちがどっちの、だめ、だっけ?
 たしか……。
「セイの前では、服を着てなきゃ、だめ」
 そうそう、とセイは草に顔をさらに押し付けて、くぐもった声で頷いた。
 ナーナは鐘の音を見上げて、それからセイの頭を見下ろした。
「ダメ……うん、わかった」 



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