カヅカは立ち止まって、振り向く。本来必ずそこにいるはずの人間がいなくて、不思議な違和感を感じた。
「ユキナリ?」
庭先で誰かの気配を感じて再び振り返る。おずおずと現われたのはツルマだった。カヅカは数いる男たちの中のツルマのことなど知らないが、ツルマはカヅカのことを知っている。知らないわけがない。
「あの、ユキナリさんなら長(おさ)殿の所に……」
訳を聞けば、
「ユキナリさんが、あの、なにか流れ込んでいくのを見たと言うんです、その、水量調整室で」
「水量調整室?」
なによそれは、という顔をし、ツルマから聞き出した情報でカヅカは水量調整室とやらに向かった。
ユキナリが見たというなにかがどこら辺に引っ掛かっているのかと、技術者たちは図面を広げ真剣に検討しあっていた。
「いったい、なにが流れてきたっていうの?」
「いえ、それが……」
技術者たちは一様に顔を見合わせるだけで、カヅカが期待するような、落ち葉や紙くず、小石といった具体的な返事をなかなか返そうとしない。彼らにもわからないのだ。
「ユキナリがはっきりと言わないので、我々が苦労してるんですよ」
「はっきりと、ね」
くるりと見向けばツルマはあせって、僕はなにも知りません、という顔をする。実際、なにも知らないのだろう。カヅカは自分の横をさらさらと流れていく水を眺めた。
「ねえ、この水、どこから流れてきてるの?」
「ナーナの泉……」
ナーナは昨日、爪がもげた辺りまで一気に駆け出した。セイも慌てて追いかける。
「ナーナ?」
ナーナは水辺に膝を着いた。
「アカクナラナケレバイイワ」
呪文のように呟いて、小川に沿って歩き出す。セイは小川を挟んでナーナの横を、ナーナと同じ速さで着いていく。
その先は、やがて壁になる。
ナーナは立ち止まる。
セイはそのまま歩いていく。壁を抜けたところで、ナーナが隣にいないことに気が付いた。振り返ると、ナーナはずっと後ろにいる。
「ナーナ……?」
どうしてこないの? と質問する。
質問されて、ナーナは眉根を寄せた。
「もう、この先には行かないの?」
小川は続いている。セイが手を伸ばす。
「行こうよ」
ナーナは伸ばされた手を見つめることしかできない。セイの手は、壁の、ずっと向こうにある。
「……時計の動力は、この、水」
へえ、とセイは感心しながら、伸ばした手の平をひらひらさせた。
「その時計、見に行こうか。もう直ってるかもよ」
気楽に考えていた。学校は休みで、朝からナーナに会えてラッキーで、森の中は静かで、騒ぎになっていたことなんて忘れていた。
時計が止まった。鐘が鳴らない。母親たちが大騒ぎするほどには、セイは大変なことだとは思っていなかった。森に来る途中で出会ったミネキもそんな感じだった。今日は一日、図書室で本を読むんだと喜んでいた。セイから借りた本を、腰を据えて読む気らしい。
『セイはどこに行くのよ』
昨日、本運びをさぼったセイにさんざん文句を言ったあとに聞いてきた。
『デート』
『あ、そ』
まったく信じていない様子でミネキは行ってしまったが。
「行こう、ナーナ」
ナーナは自分の手を見つめた。
伸ばされた手を、掴みたくて。
伸ばした手が、こつん、と壁にぶつかる。
こつん、と、確かに音がした。
「え?」
セイは目をこする。耳の掃除をしてみる。小川をまたいで、ナーナの目の前に立った。
ナーナはセイの目の前で壁を叩く。叩いて、叩いて、諦めて、その手の平を壁についた。
セイはナーナに手の平を重ねた。
「ナーナ?」
「壁が、ある、の」
「……壁?」
ナーナが壁から手を離すと、セイの手はそのまま前に出た。ナーナの手がまた壁に触る。まるでパントマイムでもしているように、手は、そこから前には出ない。
「ここに、壁がある」
壁を叩くのは左の手。
「ナーナは、ここから先には行けない」
セイに、何度も壁を叩いて見せた。手の平を押しつけて、壁を押す。力一杯押す。
セイは、たまらずにナーナの手を掴んだ。セイの手は簡単にナーナの手を掴んだ。セイにはなにも見えない。ナーナの手しか見えない。ナーナの手にしか触れられない。
「街に、行こう?」
そんなふうに言うくらい、信じていなかった。信じられるわけがなかった。ナーナの手を引っ張ったら、簡単に引き寄せられると思っていた。
ナーナの手を引っ張る。
でも、引っ張ったナーナの手だけがなにかに引っ掛かったように引き寄せられなかった。 ふと見れば、風が吹くのにナーナのワンピースの裾が、壁だというその場所からこっちになびいてこない。それは、まるで、そこに、壁が本当にあるようで。
「……なんで……」
素直な疑問。そんなことあるはずないのに。
「なんで……なんだよ、どーなってんだよ!」
ナーナを引き寄せられない。そんなことあるはずない。
無理に引き寄せた。
そうしたら、ナーナはバランスを崩して、思わず出した右手を壁にぶつけた。
「痛っ……」
小指の傷口が開いて、ハンカチから滲み出した血が小川に落ちて、にじんで広がった。赤色は、小川を流れて、壁を通り抜けていく。
ナーナは痛そうに表情を歪めた。小指を庇うようにうずくまる。
セイは呆然とナーナを見下ろした。
森にいるナーナ。
教会は赤レンガ? と聞いたナーナ。
神女神さまを、知らないナーナ。
「ごめん、おれ……」
色々なナーナを理解していない。そのせいで、ナーナを痛い目に合わせてしまった。
ナーナは、俯いたまま顔を上げない。
「違う、悪いのはナーナ」
「でもっ、今のは……」
体中探して見つけた新しいハンカチを、ナーナに押しつけるようにあせって差し出した。いつも無理矢理とはいえ奇麗なハンカチを毎日持たせてくれる母に密かに感謝した。
それまで縛っていたハンカチは、すっかり血に染まってしまっている。
「うわ……恐っ……」
血に目眩を起こしそうになるセイに、
「……ナーナの血が、時計を止めた」
「は?」
「教会は奇麗な場所。白い場所だから、汚いものに穢される。昨日、ナーナは小川で血を洗ったから」
「ちょっ。汚いって、血って、そんなのっ」
「ナーナは、つみびとだから」
新しいハンカチをナーナに結んでやろうとしたセイの動きが、止まった。
「ナーナも、ナーナの母様も、母様の母様も、みんな、つみびとだから、森から出られない。ナーナは森の外を知らない。街に行きたいけれど、行けない」
「つみびとって、だから、待ってよ。なんでこんな街の真ん中の森の中にわざわざ……」
「森の、中……?」
ナーナは、聞き慣れない言葉でも聞いたような顔をした。見上げればセイは、小指のことを純粋に心配している。
目が合って、ナーナは眉根を寄せた。
「ここは、森の中じゃなくて、街の外。母様はよくそう言っていた。街の外には誰も来ない。ナーナたちは、街の中へは入れない」
「街の外……、って」
セイがなにか言いかけたとき、側の茂みが大きく揺れた。そこから少女が突然出てきた。ずかずかとやってきて、ナーナの首元を締め上げた。
「ちょっと、中とか外とかどうでもいいから、肝心な話をしなさいよ、肝心な話を。教会の時計を止めたのは、おまえなの!? はっきりしなさい。おかげで街がどんなことになってると思っているのよ!」
一気にまくしたてたのは、柔らかそうに波打った金色に見える髪に、葉っぱをたくさん付けた、カヅカだった。