〜 街の外4 〜




 鐘の番は、宿舎の男たちの役目だった。
 鐘は時計さえ合っていれば勝手に鳴る仕掛けになっている。その時計は一定量の水を流し続けることで動いていた。男たちは交代で毎朝一番に起きては、水量を確かめる。
 流れ込んでくる水は樋のちょうど半分、青い印と赤い印の間でなければならない。雨の降る日は多く流れ込んでくるので、元の栓を少し閉めなければならないし、乾季は栓を開いておかないと渇いてしまう。
 それさえ怠らなければ、今まで何百年もそうであったように、鐘は正確に鳴り続ける。
 今朝も当番の男がやってきて、水量計を確かめる。今日の当番はツルマだ。
 まだ少年のように見える彼は、この新緑の季節に卒業したばかりの新人だった。朝の点検に出るのは今日が始めてだ。
 水はちょうど、青と赤の印の真ん中で流れている。
「このままでいい、ということですよね?」
 始めて、ということで付き添ってくれている先輩にドキドキしながら尋ねる。
「そうだな」
 先輩は無表情でつれなく答えてくれる。ついでに栓の開け閉めの仕方を教えてくれるのだけれど、とにかく表情に乏しく、新人に優しくホホエミかけてやることなどない。乏しいだけならともかく、乏しいがゆえに常になにやら怒っているようにも見えてツルマは不安になる。
「あの、ぼく、なにか間違えましたか?」
「なぜだ?」
「だって、ユキナリさん、怒ってるから」
「別に、怒ってない」
 でも怒っているように見える。
 はあ、と控え目に返事しつつ、結局ツルマはその後ほかの先輩たちに、気にするなユキナリはいつもあんな顔だ、と説明されるまで、いったい自分がどんなミスを犯したのかとびくびくしていることになる。
 そんな新人ツルマの悩みなど意に介していないユキナリは、水量調整室の中をツルマが物珍しげに眺めている間、とくにすることもなく、流れ込んでくる水を眺めていた。
 土地の水は豊かで、枯れることはない。ここに引かれている水が万が一涸れたとしても、すぐに別のところから水を引いてくる仕組みになっている。と、ユキナリはユキナリが新人だった頃に先輩に聞かされていた。もっとも、その仕組みがどうなっているのかまでは専門家ではないので、図面を見せられてもよくわからなかった。
 とにかく水は毎日管を通ってこの場所まで引かれ、時計の本体へと流れ込んでいく。
「あ」
 流れ込んでいく水を見ていたユキナリが、突然声をあげた。なにが起こったのかということよりも、ユキナリが声を上げたことにびっくりして、ツルマが振り返る。
「どうしたんですか?」
「……いや」
 ユキナリは少し当惑したように眼差しを細めながら、手を振った。
「なんでもない」
 そう、なんでもない、はずだ。
 赤く……。
 水が赤く染まっていたように見えた。血の色に染まった水が、管からするりと出てきて、あっという間に本体に吸い込まれていった……ような気がしたのだけれど。
 今はもう、なんともない。
 赤に、一瞬、昨日森で見た足元の草を染めていた血を思い出したけれど、関係があるわけないだろうとすぐに忘れる。
 いったいなんだったのか。
 ……気のせい、だな。
 そう思った直後、ぎりぎりとなにかがきしむような音がした。
 歯車になにかが引っかかってうまく回らない、そんな音だ。
 音は始め、うるさいくらいに鳴り続け、やがて締め付けるような音と共に止まった。
 止まった、のだ。
 ユキナリは部屋を飛び出し、教会の鐘を見上げた。ツルマも一緒になって見上げた。その後は、二人がどれだけ見ていても、鐘と連動している時計の針が動くことはなかった。


 時計が、止まった。


 その日の朝、街に鐘が鳴り響かない。
 人々はすぐに騒ぎ始めた。



 平日のこの時間なら、人々は働きに出たり学校へ行ったり、洗濯や掃除を始めたりするはずだった。そうして、街の一日は穏やかに過ぎていくはずだった。
 鐘が鳴らないだけで、人々はリズムを崩した。何事かと大勢の人々が教会へ詰めかけた。そんな中。
「お姫さま? どこです、お姫さま!?」
 傍仕えの女たちの目を盗み、カヅカは騒ぎに乗じて屋敷を抜け出していた。



 寝返りした拍子に打った小指が痛くて飛び起きた。直後はなにがそんなに痛いのかわからなかった。寝惚け眼をこすりながら、そうか小指か、と思い出す。思い出すと安心して、ナーナは習慣のまま窓を開いた。
 開いた途端に差し込んで来た強い朝日に驚いた。もうずいぶん陽が昇っている。それなのに、鐘が鳴っていない。耳を澄ませば、街全体がずいぶん騒がしい。
 けれど、なにが起こったんだろう、と思うのは一瞬だった。
『母様とナーナには、関係ないのよ』
 何度も聞かされた言葉は、タイミングよく思い出される。
 鐘が、鳴っていようが鳴っていまいが、関係ない。眩しさに閉めかけた窓を思い切って開けて、小屋の外に出た。
 セイが来るのは午後からだ。そう思いながら見やった逆さまの木の小道から、当のセイが現れた。
「おはよう、ナーナ」
 朝早くから、元気がいい。
 ナーナは、声に撃たれたように、その場にぺたんと座り込んだ。
「うわあ、ナーナ!? どうしたの!?」
「……だって……」
 やっとのことで呟いて、胸元を押さえた。
「びっくりした」
「え、おれのせい?」
「うん、本当にセイが来たから、びっくりした」
「え、あの、ごめんね」
 大丈夫? と覗き込まれて目が合った。ナーナは胸を押さえていた手で、セイの顔に触ろうとして、躊躇ったのちその手を引っ込めた。
 触れなくてもわかる。暖かくて、確かにここにあるもの。
「うん。平気。おはよう、セイ」
 セイは、昨日から突然もらえるようになった笑顔に、一緒になって胸を押さえた。嬉しくて、このまま死んでも悔いはない。君の笑顔は朝日より眩しいよ。あんた小説よく読むわりには文才ないわね、といつだったかミネキにはっきり言われたことを思い出しながらも、思うくらいは勝手だ、と勝手に思う。
「鐘が鳴らなくて、休校なんだ。でもナーナここにいると思ったから」
 言って、セイはふと自分の言っていることがおかしいことに気が付いた。気付いたことでやっと、状況を受けとめた気になった。
「……うん、ナーナはいつでも、本当にここにいるんだ」
「ナーナはいつでも、ここにしかいない」
「……うん」
「朝も、昼も、夜も、ずっとここにしかいない」
「うん」
 それがなぜか、なんてところまではもちろんわからない。ナーナは街には住んでいなくて、学校にも行っていない。別に、ただそれだけといえばそれだけのことでもある。
「眠るのも、目覚めるのも、この森の中、なんだね」
 すべてが森の中。ナーナはほんの一瞬躊躇って、その後に頷た。
「そう」
 セイはナーナの躊躇いに気が付かない。
「……そっか」
 すとんと、つかえていたものが落ちるように納得する。盲目になっているわけじゃない。でも、森に来ればこうしてナーナがいる。それならそれで、いい。
「あ、でもやっぱ、惚れた弱みかも。おれってこういう性格だったのか」
 どうして森なの?
 どうしていつもひとりなの?
 聞きたいのに、聞かなくていい。そう思うのにはきっと、深い意味なんてない。
 ナーナが座り込んだままなので、セイはその場に大の字に寝転んだ。とりあえず、学校が休みなのが嬉しい。
「鐘が鳴らないなんて、初めてだよね。すごいよ、母さんも父さんも隣のおじさんも、なにがあったのか気が気じゃないって顔して何回も教会まで往復してんの。教会の時計が止まっちゃったみたいなんだけどさ」
「時計?」
 ナーナはそんなもの見たことがない。なのに、なぜか唐突に、その時計を知っているような感覚に襲われた。
「教会って、赤レンガ、の?」
「え、うん、そう」
 誰でも知っているはずのことを聞かれてセイは戸惑う。まさか、いくらナーナが森に住んでいるといっても、森から出たことがないとまでは思っていない。
 けれど、ナーナのほうがもっと戸惑っていた。
 赤いレンガで造られた教会。大きな大きな広場の向こうに建っていて、高い時計台のさらに高いところに鐘が取り付けられている。
 そんな、見たこともないはずの街の光景が、なぜか突然手に取るようにわかる。
 そんな自分が気味悪くて、すがるようにセイのシャツの袖を掴んだ。立て続けに頭に浮かんでくる光景は……。
「時計の動力は、水……」
「水?」
 教会の仕事に従事している人間以外は、そんなことは知らない。もちろん、セイも知らない。
「水力で、時計を動かし続けてる。時計はその時間になると鐘を鳴らす」
「ふーん」
 詳しいんだね、とセイは呑気にしている。ナーナは奥歯を噛んだ。セイが知らないように、ナーナだってそんなこと知らなかった。なのに、頭の中にどんどん浮かび続けてくる光景がある。
 時計の動力となるのは水。パイプに詰められた水。その水は……。





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