〜 街の外3 〜




 夕食を済ませたその時間になると、ユキナリは必ずその場所へ出向かなければならなかった。暗くなった廊下を、ランプを持って一人で行く。突き当たりの部屋をノックした。
 どうぞ、と声がかかる。部屋の中もまた暗い。中央に置かれた机に着くように指示され、ランプをいつものように机の脇に置いた。腰を掛けると、ユキナリを待っていた人物が向かいの席に掛け、机の上で指を組んだ。
「今日は、なにをしていたのです?」
 ユキナリの倍は歳を重ねている彼女の声は、穏やかだった。問い質すような声ではない。
「今日は、森へ、行きました。御使(みつか)い様」
 ユキナリの返事に、彼女は胸元まで覆っていた白いベールを取った。
「森へ? そう」
 彼女は、なにかを期待する目をした。ユキナリは気付いていて、気付かない振りをする。
「申し訳ありません」
 祈るように机に肘を着き、組んだ指に額を押しつけた。
「おまえが悪いわけではありません。そうでしょう?」
 彼女は微笑する。穏やかさと優しさしか知らぬような微笑だと、ユキナリはいつも思う。
 陽に当たらない彼女の肌は青くて、触れれば通り抜けてしまいそうに現実感がない。ひびひとつなく焼き上げられた青磁の聖母像、そう、そんな感じだ。
「それで、森の様子はどうでしたか? 私の言っておいた通りだったのでしょう?」
 なにかを期待する眼差し。恐れ多くて、ユキナリは目を合わせることも出来ないのだけれど。それが許されていたとしても、果たして、しただろうか。
「はい、御使い様の仰った通りでした。森には、少女と少年がひとりづつ……」
 ユキナリは起こったことのすべてを報告する。それは日課で、そうすることに疑問を持つことは許されていなかった。



 同じ頃、セイは気持ちが悪かった。セイが体調を崩して気分悪がっていたわけではない、セイを見ているのが気持ち悪かった。
「なんだい、ランチに変なもんでも入れたかねえ?」
 朝はいつも通りだったのにねえ、と母親は傍に寄るのも気味悪げに夕食の後片付けをする。いつも通りに朝出ていった息子は、元気よく勢いよく帰宅して、後はもうずっと顔の筋肉がだるだるに緩みっぱなしだった。
「笑い茸でも入れたかねえ」
「病院に連れていくか?」
 両親はけっこう真剣に心配している。
 セイは幸せなだけだった。思い切ってそう言ってみると、
「それで不幸だっていうなら、本当に病院に連れてくよ」
 見ればわかるくらいには、とにかく幸せなのだ。
 やれやれと母はセイの頭を小突いた。
「美女の名前がわかったのかい?」
「なんでわかんの!?」
「……わからいでかい」
 洗い終わった食器を棚に片付けるように言い付ける。いつもは文句を言いながら渋々手伝うくせに、今日のセイは素直に手伝う。
「名前を教えてくれたほどには、嫌われてなかったんだねえ」
「って言うか、母さんのアドバイスがおれをどん底にしてた気がする。余計なこと考えちゃってさ」
「それくらいで諦めるなら、その程度だったんだよ。なんだい、その子に嫌われ続けたらおまえも傷付くから、さっさと諦めな、とでも言ってほしかったのかい?」
「諦めないで頑張れ、とも言わなかったじゃないか」
「そうだったかね?」
「そうだよ」
 頬を膨らます。でもすぐにだらんと緩む。
「ま、いっか」
 今なら、心の中でナーナの名前を呟くだけで、なんでも許してしまえる気がする。ラブラブパワーって偉大だなあ。
「で、その子の名前、なんていうんだい?」
 その質問を待ってましたとばかりに、セイは満面の笑みで答えた。
「まだ内緒」
「なんだい、それは」
「おれ、やっと聞けたのに、もったいなくてすぐには教えられないんだなあ、これが」



 それからもう少し時間のたった頃。贅沢に灯された明かりの中で、湯船から投げ出した自分の腕が勝手に洗われていく様子を、カヅカは眺めていた。
 大理石の浴室の中では、カヅカはなにもしなくていい。体も髪も、勝手に磨かれていく。自分の屋敷に仕えている女たちが何人いるのか、なんて、たくさんいすぎてわからない。
「お姫(ひい)さま、足首が少し腫れていますけれど、どうされたのです?」
 湯から上がったときに聞かれた。この少女の名は知っていた。ミクという、カヅカと同じ年で、幼い頃からいつでも傍に居る少女だ。カヅカはミクにちょんと肩を竦めて見せた。
「転んだの」
「まあ、ユキナリはなにをしていたのかしら」
「それが聞いてよ、見てただけなのよ。しかも、わたしの悲鳴に耳を塞いだのよ」
「そんなにすごい悲鳴だったんですか?」
 カヅカはこぶしを握り締めた。
「そこは感心するところじゃないわ。ユキナリはわたしの侍従のくせにわたしのことが嫌いなのよ。手も貸したくないって顔するのよ」
「あら、お姫さま」
 ミクが驚いた顔をする。他の女たちも、慌ててカヅカの周りに寄ってきた。
「お姫さまをお嫌いなものなどおりません」
「そうかしら」
「お慕いこそすれ、嫌いになるなどとんでもございません」
「あら、そう?」
「もちろんでございます」
 一斉に頷かれて、カズカは途端に、そーよねーえ、と踏ん反り返った。
「それはそうよね、わたしを嫌いなものがいるわけないわよねえ。それもそうだわ。だったら、もうしばらくユキナリで我慢しておいてあげてもいいわ」
「それがいいですね。御使い様もユキナリを気に入られているご様子ですし、ええ、もうしばらくそのままで」
 女たちはにこにこしながらカヅカを着替えさせる。その後も女たちは、やれ髪の手入れだ、やれ爪の手入れだと入れ代わり立ち代わりする。
 部屋まで見送られて、ベットに入るとやっとひとりになる。眠った振りをしてしばらくすると、見張りのように戸口に立っていた者たちもいなくなる。カヅカは部屋を抜け出して、ついでに窓から屋敷も抜け出すと、屋敷の西にある棟へ潜り込んだ。
 二階の、奥から二つ目の部屋をノックする。
 返事はない。
 気配もない。
 カヅカとわかっていつものように居留守を使っているわけでもなさそうだ。
 三回に二回は完全に居留守か寝た振りを決め込み、三回に一回はいつでも無表情で興味がなさそうに、迷惑そうに面倒くさそうに嫌そうに出てくる顔が、今日はない。
「まだ『御使い様』のお部屋でお喋りしてるのね」
 扉にもたれて座り込んで、廊下の窓に光を差し込んでくる月を眺めた。
 盛大な式典の行なわれたのはついこの間で、そのときは満月だった。その日から月はどんどん欠けていっている。今はずいぶん薄くなった月が夜の空の端っこに引っ掛かっているだけだ。
「わざわざ言わなくてもいいのに、森に入ったことでも事細かにご報告してるのかしらね。お母様もお母様だわ。そんなこと、わたしがいくらでもお話して差し上げるのに」
 すっくと立ち上がると、扉を思いきり蹴飛ばした。なんだか無性に気に入らない、ような気がする。文句は小声でも、蹴飛ばせばすごい音がする。西の棟は、男たちの宿舎になっている。音に彼らが出てこないうちに、カヅカはまた身軽に素早く自分の部屋へと戻っていった。



 細くなった月を、ナーナも見ていた。
 月が細くなっていくのを見ると、安心する。
 満月は嫌い。
 満月は、大嫌い。
 丸くなっていく月を見るのも嫌い。
 あの姿が……。
  嫌な思い出なんかにしたくないのに、それはどんどん嫌な記憶になっていくから。
 満月が近づくに連れ狂っていったあの人のあの姿を思い出すのは嫌。思い出すと、自分まで狂ってしまうような気がする。……狂っていたのだ。
 髪を振り乱して、どこも見ていない目で、なにを言っているのかわからない口で、なにが聞こえているのかわからない耳で、捜し物を永遠に見つけられない手を伸ばし、出ることの叶わない壁を叩く。
 壁を、叩く。
『セイ!』
 壁を叩いてセイを呼んだ。そんな今日の自分は、その始まりではなかっただろうか。
 あんなに壁を叩いて、もしセイが戻ってきてくれなかったら、本当にセイを、諦めただろうか。
 ……始まりのような気がする。
 ナーナはもらった薬を塗り直した小指を、そっと包み込むように抱き締めた。
 痛い。さっき棚にぶつけた。簡単に涙が出てくるほどにはとても痛い。
 痛いけれど。
 始まりかもしれないけれど。
『明日も来るよ』
 明日になれば、また来てくれる。
 始まりかもしれないけれど、なにも始まっていないかもしれない。
 小屋にガラスの窓はない。木の板の窓を閉めると、細い月明りが消える。目を閉じているのかいないのかもわからない夜の中になる。
 満ちていく月も欠けていく月も、ナーナの眠りの邪魔をしない。眠りに落ちてしまえば、耳に痛いほどの静けさも聞こえなくなる。いつものことだ。
 そして朝、いつものように鐘の音で目を覚ますのだ。




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