〜 街の外2 〜




「セイ」
 ナーナが呼ぶと、セイは泣きそうな顔をした。……泣きそう、というよりは、情けない、という顔だった。
「ずるいよ。おれの名前、呼ばないでよ」
「でも、セイ……」
「呼ばないでよ。嫌いなら、ごめん、もう、ここに来てうるさくしないから」
「もう、来ない?」
「絶対来ないよ、約束する」
「……約束。もう、来ない……?」
 ナーナは口の中で繰り返す。
 もう来ないのは、帰り道がわかったから? そうしたら、もう来ない。来なければ、二度と見ない。あの小さな人間のように。母親のように。
 それが、どういう意味なのか。
「じゃあ、ね」
 セイが背中を向ける。壁はすぐそこで、歩き出したセイはすぐに、壁の向こうの人間になった。
「……セイ?」
 追いかける。壁がある。行けない。
『じゃあ、ね』
 それは、
『また明日ね』
 とは違う。今度こそ約束がない。
 セイはもう来ない。それが、新しい約束。
 ナーナはまたひとり。
 今までの通り、ずっと、ひとり。
 ナーナは壁に手を着いたまま、怯えたように自分の後ろに広がる森を見回した。
「……セ、イ……」
 壁を叩いた。
 消えていくセイの姿。
 追いかけたい。
 追いかけたいと思うのに追いかけられない。
「また……なの?」
 みんな、ナーナをひとりにする。
 嫌。
 こんなのはもう嫌。
 ここから出して。
 ……違う。出してくれなくてもいいから、だから、行かないで。
「セイ!」
 手の平を何度も壁に叩き付けた。こだまするのはナーナの声ばかりで、背後の静けさがナーナを追いつめた。
「セイ……!」
 右手の小指の爪が壁に引っかかって、剥がれて、落ちた。痛みに、ナーナは小さな悲鳴を上げた。溢れた血が指に伝って流れていく。
 落ちた爪が、あの日、腐って倒れた小屋の扉と重なって見えてぞっとした。知らぬ間に腐っていた。腐っていて、気が付いたときにはもう手遅れで、誰にも気付かれないままばったり倒れる。
 誰にも、気付かれないまま……。
「セイ……っ」
 最後に、もう一度壁を叩いた。そのままもたれるように壁に体を押し付けて、後は、心の中だけでセイを呼んだ。
 泣き出してしまったら悲しいのがいっぱいになって、声でセイを呼べなかった。呼ぼうとしても嗚咽に掻き消されてしまう。泣き疲れてしゃくり上げるばかりになった頃には、諦めていた。
 森が揺れ、風向きが変わったことなんか、気が付かなかった。
 風向きが変わるのは、森の合図。


「泣いてるの?」


「なんで、泣いてるの?」
 囁くような声に、顔を上げた。
「……セ、イ?」
 自分こそ泣きそうな、拗ねたような顔をしたセイが、壁の向こうに、でもすぐそこに立っていた。ナーナがずっとずっと呼び続けたから、その声を振り払えなくて、つい、戻ってきてしまった。
 つい……と言い訳する。
「なにが、そんなに悲しいの?」
「明日も、来て。また明日ねって、約束して」
 壁の、向こう側とこちら側で。
「でも、君はおれのこと……」
 壁の向こう側と、
「……ナーナ」
 壁のこちら側で。
「え?」
 セイは小首を傾げる。ナーナも一緒に傾げた。
「ナーナの名前は、ナーナ」
 小さく、笑った。
「……ナーナ?」
「それが、ナーナの、名前」
 しゃくり上げながら、ナーナは笑う。
「セイはいつもナーナの名前を聞きたがるから、言わなければ、また明日も聞きに来てくれると思った」
 来てほしかった。ナーナは、行けないから。
「嫌いじゃない。意地悪したのはナーナだから、嫌われるのはナーナのほう。でも、セイはそこにいる」
 すぐ、そこにいる。
「セイ、そこにいて、ナーナを嫌わないで」
 言いたかったことを言ってしまったら、すっきりした。そんな顔をする。小さいけれど、それがナーナの満面の笑顔。
「いつでも、また明日ねって、言って」
「………きっ」
 セイはボディーに一発、パンチでも食らったように、ずさーっと後退さって、がっくりとその場に両手をついた。
 ずっと見たいと思っていたナーナの笑顔は、強烈パンチだった。
「……きいた……」
 思わずお腹を押さえる。顔中、耳まで真っ赤になった。
 ナーナの笑顔。
 そう。
 ナーナ。
 この子の名前は、ナーナ。名前も知ってダブルパンチ。ノックアウトカンカンカン。しかし体はマットに沈んでも気持ちは大浮上。
「ナーナ、だね」
 やっと名前を呼ぶことができる。好きだよ、と初めて告白した子の名前。
 傍に居てほしいと言われた。
 嫌わないで、と言われた。
「ナーナ、なんだね」
「そう」
「……ナーナ」
「なに?」
「ううん」
 セイは安心したように小さく首を振った。そのまま、草の上をずるずると匍匐前進する。
 セイが壁の中にやって来る。ナーナも安心したような顔をした。セイを真似て草の上に横になる。
「明日も来るよ、ナーナ」
 照れくさそうに言った言葉は小さい。ナーナはよく聞き取りたくて、顔を寄せた。
 ナーナのひたいにセイもひたいを寄せる。いたずらのつもりで、コンとぶつけた。そうすると相変わらずナーナはものすごくびっくりして、ひたいを押さえてちょっと逃げる。
 どうしてそんなにいちいち驚いたりするのかセイに理由はわからないけれど、頭の中がスペシャル幸せモードになっているので今はそんなこと気にもならなかった。そう、そんなことは気にもならなかった、のだけれど。
「うわあっ」
 ひたいを押さえたナーナの右手の小指に、今、気が付いた。それはとても気になった。血だらけの指に爪がない。いや、爪がなくなっているので指が血だらけだ。いったいどうしたらそんなすごいことになるのか。
「あの、痛く、ないの?」
「痛い」
 即答するくらいには、少なくともとても痛いのだ。痛い、と言いながらもどこか遠慮がちなナーナの血だらけの手を、セイは恐る恐る眺める。すぐにでもその手を引っ掴んで、ちょうど小川もあることだし、血を洗い流してやりたかったのだけれど、触るとまたナーナは逃げてしまうのだろう。
「水で、自分で洗える? 痛いけど、我慢して。おれ傷薬持ってるし、ハンカチも奇麗だから、そしたら手当て、できるけど」
「水?」
 ナーナは水面を眺めて、少し考え込む。
 躊躇うナーナを見て、痛いから嫌なのだろうな、とセイは単純に考えた。
「奇麗にしてから薬、塗るんだよ。昔はおれもよく転んで、この頃はあんまりそんなに派手に転んだりしないけど、薬、よかった、母さんに持たされてて」
 ナーナは言われた通りに水の中に指を入れた。唇を噛む。それくらいには十分痛い。左の手を握り占めて我慢する。けれど顔だけでいえば、手当てしているセイのほうがずっと痛そうな顔をしていた。
「あのさ、そんなに無理矢理我慢しなくても、痛いって言ってくれていいんだけど。そのほうが多分、気分、紛れるし。おれなんて泣き喚いたけど、って、小さい頃だけど、えーと……」
 手当ての間中、セイこそ痛いのを我慢するように一人で喋っていた。
 ハンカチを結んでもらったナーナは、指を洗った小川を見る。
 指を入れた瞬間、水は血の色に染まった。ゆらゆら真っ赤に染まって、ゆらゆらと血は水に混ざりながら流れていった。今はもう、赤い色はすっかり流れていってしまって、元のように澄んでいるけれど。
「ナーナ?」
 食い入るように川面を見続けるナーナを何回呼んだのか、やっとナーナがセイに見向く。ナーナは瞬きする。
「それ、驚いてる顔だよね?」
 瞬きするのは驚いているから。
「今は、なにに驚いたの?」
「……セイが」
 ナーナはもう一度だけ小川を眺めて、眼差しをセイに戻した。
「セイが、ナーナを呼ぶ声にまだ慣れてないから」
「それで驚いてんの?」
「そう」
 こっくりと頷いて、ナーナは柔らかく眼差しを細める。
 そんな仕種一つ取っても爆裂かわいい。とセイは感無量。ついさっきまで痛んでいた心もあっという間にゼンカイしている。全壊ではなくて全快だった。



「覗き見は、いい趣味ではないですね」
 息をひそめていたカヅカは、いきなりかけられた声に飛び上がった。かろうじて上げかけた悲鳴を飲み込む。
「おまえ、ぜんぜん気が利かないわ」
 小声で喚いて、身を隠していた茂みの中へユキナリを引っ張り込んだ。二人から少し先にあるのは、泉だろうか。その傍で、黒髪の少女と茶髪の少年がいちゃいちゃしている……ように見える、ここからは。
「おまえ、なに当たり前みたいな顔して森に入ってきてるのよ! わたしはともかく、おまえがっ」
 ユキナリはカヅカの声がうるさそうに、ついでに頭も痛そうに目尻を人差指で押さえた。
「俺が数え終わるまでに戻ってくる、と仰いましたよね」
「きっとね、と言ったのよ」
「戻ってこなければ、俺は森でもどこでも入りますよ。ご存じでしょう」
「はいはいそうね、それはそうだったわねっ」
 わかったわよ、わかったからもうそんなことはどうでもいいから静かにしなさいよ、と茂みからさっさと出ていこうとするユキナリの頭を押さえ付けた。
 ユキナリはされるがまま押さえ付けられながら、
「二人、いるように見えますが、カズカ様は一人と仰いませんでしたか」
「今でもわたしが気配を感じているのは一人分よ」
「そうですか」
 どうでもいいように、ユキナリはどうでもいい返事をする。
「ねえおまえ、あの二人、こんなところでなにをやっていると思う? それに……」
「その台詞、まったく俺たちにも当てはまると思いますが」
「なんでよ、わたしたちはあんなに仲良しじゃないし、ラブラブでもないわよ」
「……あたりまえです」
 ユキナリには珍しく、はっきりと、冗談じゃない、という顔をする。カヅカもその顔を真似た。ただし顔は同じでも、意味合いは違う。じっと目を凝らすと、やっぱり、と呟いた。
「壁が、あるわ」
 カヅカには、確かに壁が見えた。よく見ないとわからないが、というかよく見てもその壁そのものが見えるわけでもないのだけれど。
「確かにあるのよ」
 あの少女と少年の間に見える。見えないけれど、見えるのだ。
「そうですか」
 ユキナリの口調は変わらない。どうでもいいと思っている。が、カヅカの言うことを否定もしない。ユキナリには、あの少女と少年と、泉と森の木々以外、まったくなにも見えないけれど。
「カヅカ様があると仰るのなら、あるのでしょう」
 疑わない、けれど信じてもいない。ただ、否定しないだけだ。
 そんなユキナリのものの言い方にはカヅカも慣れていた。慣れていてもユキナリを少し睨むくらいはする。あとはそれ以上なにを言っても無駄だということをわかっているので、なにも言わないけれど。
「それで、いつまでここにいるおつもりですか」
「しっ」
 カヅカはユキナリの大きな体を、これ以上無理というくらいさらに押さえ付けて小さくさせ、自分も頭を引っ込めた。茂みの隙間から、少女と少年が仲良く場所を移動していくのが見える。行ってしまうと、カヅカは茂みを飛び出した。
 ユキナリは溜め息しながらカヅカの後を着いていく。カヅカが立ち止まった場所を、一緒に見下ろした。
「血、ですね」
 ユキナリは座り込んで確認する。カヅカはずっと空を見上げた。伸ばした手でなにかに触れる真似をする。実際には、触れるものなどなにもないのだけれど。
「壁、ですか?」
「おまえ、ちょうどその壁をまたいでいるわ」
 言われて、ユキナリは壁を避けるようにカヅカの方へと寄った。
「光の屈折や、風の歪みでも見えますか?」
「ぜんぜん。光にも風にも、わたしにも、ここにある壁は意味がないのよ。だって、ない、と同じなんだもの」
 足元の血を踏まないように、カヅカは壁を抜けてあちら側へと行く。ユキナリと向かい合わせになる。そちら側からでも壁に触れることはできなかった。
 壁の謎はわからない。けれど、一つ、わかったことがある。壁のこちら側にいるカヅカは、今、二人分の気配を感じ取っていた。あの少女と少年の分だ。おかしなことに、目の前にいるユキナリの気配が感じられない。壁を抜ければユキナリの気配はすぐ傍にあって、けれど、あの二人のそれはまったく感じられなくなってしまう。
 人の気配を完全に断ってしまう。
 壁は確かに、あるのだ。
 なんのために?
 そんなこと、カヅカは知らない。
 ここは森の中。神女神さまの手が届かないと言われる場所。確かにこれでは、手が届かない。壁の内側は、なにも感じ取れない。
 森の中に入ってしまえば、どちらが内側なのか外側なのか、一見わからない。少年と少女の間に壁があった。どちらが中にいたのか、どちらが外にいたのか。カヅカが感じた一人分の気配はどちらのものだったのか、そこまではわからないけれど。
 カヅカは二人が行ってしまった方を振り返った。二人のいるほうが壁の内だとすれば、
「どちらか一人は、常に壁の内にいたということよね」
 だから一人の気配しか感じられなかった。それはわかる。
 でも、どういうこと?
 どちらかが壁の中。どうしてそんなことになるのか。こんな、禁忌の森の中で。
「わたしは、なにも知らないわ」
 手の平を悔しそうに握り締めた。
「そして誰も、知らないのよ。……きっとね」 見つからない答えにこれ以上振り回されるのはごめんだ。カヅカはさっさとユキナリの横を通り過ぎる。
「知ってていいわけないわ」
 ひとりごとなのか、そうじゃなかったのか。ユキナリは返事をしない。
 カヅカも、返事を催促したりしなかった。




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