〜 街の外1 〜




  木々の間に、尖った悲鳴が響いた。
「いっっったあーいっ!!」
 鼓膜を突き破りそうな細い高い声は、
「……あん、もう、痛かった」
 普通に喋ると、途端にかわいらしくなった。
 鼓膜が破れるといけないのでしっかり耳を塞いでいたユキナリは、悲鳴がおさまったのを目できちんと確認してから、やっと手を差し出した。
「大丈夫ですか、カヅカ様」
 濃い茶色の硬そうな髪の隙間から、下手な役者が下手くそに台本でも呼んでいるように、まっすぐ無表情で喋る。
 頭上を飛んでいった小鳥に気を取られていて石畳の終わりにつまずいて、すっとんきょうなお声を上げられたカヅカ様は、恨めしげにユキナリを見上げた。
「おまえ、わたしの身より自分の耳を守ったわね」
 ちょうど街と森の境目に座り込んで、少し捻った足首を大袈裟にさする。カヅカの波打つ髪は光の加減で華やかな金の色に見える。
「申し訳ありません。つい我身がかわいくて」
 言葉は低姿勢でも、筋肉の動きの鈍い顔は、申し訳ありませんという顔をしていない。
「言っておくけど、小鳥に気を取られていて石畳の終わりにつまずいたわけじゃ、断じてないわよ」
「そうですか」
「そうなのよ」
 カヅカは胸元を押さえた。
「悲鳴が、聞こえたのよ。それは声ではないから、おまえには聞こえなかったでしょうけれどね」
「そう、ですか」
「そうなのよ。それがちょうど、小鳥を見上げていて、石畳の終わりに差し掛かったときだったのよ」
 ユキナリの手首を引っ張った。
「ところで、足が痛くて歩けそうにないわ。手を貸しなさい。このわたしを抱き上げることを許してあげるわ」
 金の髪が縁取る細い顎の、紅をさしている唇が微笑する。
 ユキナリは掴まれたままの爪の短い手を、ひらひらと振った。
「ご遠慮いたします」
 初めて、にこりと笑う。これは嫌味だ。
「その程度なら、ご自分で歩けるはずです」
「……歩けないわよ」
「では、ずっとそこにいらっしゃい」
「おまえ……」
 カヅカの表情がすっと曇った。対してユキナリはますますにこやかな顔をした。
「なんです?」
「おまえはわたしに、そんなことを言える立場?」
 外見ではなくて、声が、カヅカの年齢を正しく表わしている。かわいらしい声。かわいらしい、少女。
「いいえ」
 にこやかなまま、ユキナリはカヅカの掴んでいた手を振り払った。乱暴にしたわけではない。それでも、無理矢理引き剥がすようにしてカヅカから離れる。
「あなたに気軽に触れていい立場でもありませんでした。申し訳ありません」
 つまずいたカヅカに手を差し伸べたところから、すべてを謝罪する。
 カヅカは奥歯を噛み締めた。けれどそれきりで、なにかを激しく言いたそうだった眼差しも、伏せる。
「まったく、ストレスがたまるったらないわね」
 あーあ、と大袈裟に溜め息をついて、つまずいたときに脱げかけた靴を履き直した。ユキナリはあくまでも手を貸そうとしない。
「おまえ、自分の年を三十回数えるまで、そこから動いちゃ駄目よ」
 言い置いたカヅカは、ユキナリに見向きもせずに森へ歩き出す。石畳が終わった場所から先は、すべて森の入り口になる。平然とそこから中へ入って行こうとする。
「そこから先は、神女神さまの御領地ではありませんよ」
 念のため言ってみるユキナリの顔にはもう、にこやかさはなかった。言っても無駄だろうが、という雰囲気をありありと感じる。
「もちろん、わかってるわよ」
 ユキナリのにこやかさを吸い取ったように、カヅカは笑う。
「そんなことは、神女神さまもご存じよ」
「それはそうでしょうね」
 ユキナリは表情のないまま肩を竦める。カヅカは再びくるりと森へ向いた。
「人の気配がするのよ。悲鳴が聞こえたって言ったでしょ」
 カヅカは嘘をついているわけではない。だから笑うのに、ユキナリは笑わない。その目は疑っているようにも見える。
「そうですか」
 ユキナリには、そんなものわからない。でもカヅカはわかると言う。
「確かに一人、森の中にいるわ。確かめてくるから、おまえはゆっくり数えていなさい。おまえは森に入る必要もないし、権限もないのよ。だからゆっくり、ゆっくり、ね。わたしはその間に帰ってくるわ。きっとね」
 どちらの足をくじいたのか、見た目ではわからない足取りで、
「たった、五百四十、よ。ゆっくり数えなさい。わたしの自由な時間はそれだけなんだから。おまえがいつもよりもゆっくり数えるくらい、神女神さまもお許しになるわ。ええ、きっとね」
 背を向けてしまったカヅカの表情は、ユキナリからは見えない。
 カヅカの姿が森の中に消えた。
 ユキナリは数を数え始めた。



 隣の街まで、馬車で丸一日かかる。汽車ならずっと早いが、二日に一本しかない汽車を利用するものはあまりいない。
 この街は、始めは閉鎖的な小さな街だった。森の周りにぽつりぽつりと人が暮らしていた。豊かな壌土に恵まれ自給自足できていた街は、やがて資源にも恵まれていることを知った。元からいた人々は農業を。後からやってきた人々は工業と商業を受け持って、街は大きくなった。この街から出ていこうとするものはいなかった。入ってくる者もやがて落ち着いた。閉鎖的な、大きな街になった。
 人々は豊かな暮らしを、今も昔も、神女神さまに感謝する。今も昔も変わらないのは、豊かな暮らしと、神女神さまへの信仰と、そして、森。街は徐々に大きくその形を変えていくのに、森だけは変わらない。形も大きさも、何年前の地図を何枚重ね合わせてもピタリと一致する。
 地図の上で、森は空白になっている。森から出ている小川も小道も、森に入った途端、地図上では真っ白になる。
 森の中は真っ白。
 誰も入ったことがない。
 誰も入るわけがない……はずだった。
「……五百……四、十」
 最後の数字を声に出して呟いて、ユキナリは森の奥を眺めた。眺めただけで、あとは特に迷う様子もなく、眺めた場所へと入っていった。




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