うるさくて嫌われていたのか、と思ったら、もう、会いになんて行けなかった。
それからのセイは毎日、つい森に向いてしまう足を無理矢理方向転換させながら帰ってくる。夏に向かって日に日に明るい時間が長くなっていく。特に用事のない日は、学校の図書館に寄って時間が過ぎるのをごまかした。ごまかさなければいけないくらい、ごまかしがきかなくなっていた。
「だーめだ」
しおりも挟まずに本を閉じて、ばったりと机に突っ伏した。大好きな小説なのに、目は文字をなぞるばかりで、内容がちっとも頭に入らない。
あの子の姿がずっと頭の中にある。
さらさらの長い黒い髪。大きな目。
そういえばあの大きな目はいつでも、セイを見つけると、驚いた、というふうに何度も瞬きを繰り返した。初めて会ったときも、その次も、その次も……。あの目は、なににそんなに驚いていたんだろう。
それから、いつもなにか言いかけては噤んでしまう口。どんなことを飲み込んだんだろう。本当はなにが言いたかったんだろう。なにを、我慢してたんだろう。
気になる。気になる気になる。
気ーにーなーるー。
その気持ちをなんて呼ぶのかなんて、知っている。だからますます気になる。気にしないなんて、今さらできない。
「ダメって、そんなにその本、おもしろくないの?」
赤い髪をポニーテールにした少女がセイを覗き込んできた。クラスメイトだ。
「なんだ、ミネキか」
「なんだはないでしょ、その本、ガフ船長の冒険シリーズの最新巻でしょ? あたしの予約、セイの次なんだから早く回してよね」
ミネキは周りに気を使って小声で喋りながら、セイの隣に掛けた。
「ここ何日か姿見ないと思ったら、今度は通いづめでさ。でもマジメに本読んでるわけじゃないし、なにやってんの?」
図書館を利用する生徒は多くない。やってくる顔ぶれは大方決まっていて、今日は誰が来ていて誰が来ていないかなんて、ちょっと通いつめていればわかることだった。ミネキは図書係で、趣味と実益と実務を兼ねて、放課後は毎日必ず図書館にいる。
セイは閉じた本をパラパラとめくって、またばたんと閉じた。ハードカバーの、持ち帰るには少々重すぎる本をミネキの前に置いた。
「いいよ、先に読んで」
「え、ほんと? ラッキー」
実はそれを待っていたとばかりにミネキは本を抱きしめた。
「嬉しいついでに、明日また南校の図書館ご招待に連れていってあげちゃう」
「南の学校……って、それ荷物運びじゃん。なんだよ、なんでいつもおれなんだよ」
セイは全然嬉しくない。ミネキは顔だけにこやかに、げんこつでぐりぐりとセイの腕を押した。
「なーに嫌な顔しているのよ。本を貸し出ししてもらうのよ、取りに行くのは当たり前じゃない。あんたよ、あんた。うちにない本の貸し出しをやたらに希望してるのは。希望カード出したらそれで本が勝手に向こうから歩いてきてくれる訳じゃないんだからね。本を読む気もないのに図書館に通ってるっなんて、暇なのか、それともすぐに帰りたくないからのどっちかなんでしょ。手伝うくらいいいじゃない」
鋭い。
「女の直感て恐いよね」
「恐いわよ、だから明日、サボらないでよね」
ということで翌日の放課後。
「……森に行きたい」
抱えられるだけ抱えさせられた本を荷台に積み込みながら、セイはしみじみと思った。
「あ、ごくろーさまでーす」
扉を開けてくれる南の学校の図書係は、いつもやたら元気がいい。そしてその図書館の中も、やたら騒がしい。
北の学校とは対照的にこちらの図書館の人気は高い。といっても、本を静かに読んでいる生徒はいない。北の学校より本は豊富にそろっているのに見向きもせずに、みんなおやつを持ち込んで、大声で雑談している。静かに本を読みたければ中庭に行け、と張り紙がしてある。
セイはさっさと本の積み込みを終わらせたのだけれど、ミネキは図書委員長の代理で、事務の手続きに手間取っていた。
「ごめん、あともうちょっと。それまで、次に借りる本でも物色しててよ」
セイと同じく手伝いに借り出されていた他の連中は、楽しそうなお茶会に紛れ込んでしまっていた。
セイは本棚を見上げた。
「森に行きたい、な」
あそこはまた特別に静かだった。
あの子も、こんな気持ちなのかな。
そんなふうに考えてみると、あの子がいつでもあの森にいる理由がわかる気がした。
街の南には、印刷所や材木屋、製鉄所も板金屋も石屋も、ついでに街に唯一の汽車の止まる駅もあって、商店街もオフィス街も、活気に溢れていて騒がしい。中庭に出たって、決して静かではない。
ここと比べると、森の中にはまるで音がなかった。今までもこちらの学校へ来るとうるさいとは思っていたけれど、森の静けさを知った今はさらにうるさく感じる。耳を塞いで大声をあげながら逃げ出したくなるくらいだ。
といって逃げ出すわけにもいかず、セイは我慢して本の物色を始める。
いつの間にか、ずいぶん奥の棚まで来ていた。一番奥の本棚に見慣れない赤い背表紙の本が一面に並べられている。適当に一冊を開いてみると、アルバムだった。新緑の季節を迎え、新しいクラスになる度に撮る写真がその年毎にまとめられている。セイは一番新しいアルバムを開いた。
こんなところにはまず写ってないよな、と思いながらも、あせるのをやめて一年生のページから見ていく。七歳クラスの一年生。順に、二年生、三年生……。セイより二つ年下になる六年生あたりから、少し緊張した。白黒に写る顔をひとつづつ確かめていく。けれど、最終学年の十年生まで見終っても、目的の顔は見当たらなかった。
長い黒い髪と、黒い瞳。それから白い肌。技術はまだこれから進歩すると言われているこんな写りのよくない写真でも、すぐに見つけられると思った。名簿で名前を知ることができると思った。
なのに何度見直しても、アルバムの中にあの少女の顔を見つけることができない。
周りのざわめきも忘れるくらい必死に探した。でも、どんなに探してもいない。いないんだ、と探すのを諦めたとき、周りの音が耳の奥に響いた。
うるさかった。
森に、行きたい。
『カミメガミサマ……?』
初めて聞いた言葉を初めて口にする。明らかにそんな感じだった。
新緑の季節になって初めての休日だというのに、あの日あの子は森にいて、教会に行こうとしなかった。行かないと言い張るので、セイは置いていってしまった。実際、教会には来ていなかったはずだった。
教会にも行かない、神女神さまも知らない。
そんなことは別にどうでもいいと思っていた。どうでもいいと思えたくらい、出会えたことに浮かれていた。名前を聞きたくて、毎日森に通った。
「ちょっと、セイ!?」
「ごめん、おれ、先に帰る」
ほんとーにごめん、と目の高さで両手を合わせて、セイはミネキが止めるのも聞かずに南の学校の図書館を飛び出した。全力疾走で北の学校まで戻る。森を突っ切っていけたらどんなに早いかと思った。大回りするのがもどかしくて、何度も森に足を向けようとしたけれど、街の南は人口が多くて人目に付きやすいので我慢する。
『いいね、森に入るんじゃないよ』
母親なら、誰でもきつく言い聞かせている。子供なら誰でもきつく言い聞かされている。
『森の中は、神女神さまの加護がないんだよ』
神女神さまの、手の内の外。
でもあの子は森の中にいた。
毎日いる。
今日も、きっといる。
どうして?
だけど知りたいのは、あの子がいつも森にいる理由じゃない。
知りたいのはただ、あの子の名前。
それだけだった。
セイは飛び込んだ図書室でアルバムをひっくり返す。うるさいな、という周りの目なんて気にしなかった。北の学校のアルバムの背表紙は青だった。
その中にも、あの少女の姿はなかった。
セイはアルバムを閉じて、ちゃんと本棚に戻して、その場にずるずると座り込んだ。
あの子の名前がわからない。
「おれの名前は、セイだよ」
小さく呟く。
『おまえは……』
言いかけたあの子のワンピースは、いつでも白だった。普通、学校を卒業した女の子たちは、結婚式まで白いワンピースを着ることはない。だから卒業するまでの時間を惜しむように白いワンピースを着る。
十五歳の成人を過ぎて、十六歳で卒業する。もう立派な大人だ。高等学校では白い制服のところもあるという噂を聞いたことがあるけれど、この街には高等学校はない。汽車で隣の街まで行かないとないし、通っている人は少ない。知り合いもいない。だから、本当のことなど知らない。噂でしか知らない。
この街で白いワンピースを着てるのは学生だけ。なのにあの子の写真がない。学生じゃない。
あの子は誰?
思った途端、現実にいると思っていたあの子が、遠くなった。
膝を、抱えた。
「おれの名前は、セイだよ」
『セイだよ』
静かに風が揺れて、森が連れてきたセイの声はそのまま風に溶けて、霧散した。 粉々になった声の破片が、ナーナの周りにきらきら落ちる。木漏れ日に混ざってゆっくり落ちて、暖かさにナーナは目を覚ました。
夕方の鐘が鳴っている。
水辺に裸のまま寝ていた。少し前まではこの時間になるとセイが来ていたから、そのあとに水辺にやって来ていたけれど、もう来ないから、ナーナは時間をいつものように過ごしていた。
セイが来なくなって、セイの足音も、セイの声も、聞かなくなった。探さなくなった。
「ほら……ね」
森に言い聞かせるように、自分に言い聞かせる。
帰り道を教えた人間は、戻ってこない。
ただ、それだけのこと。
『また、明日ね』
そんな約束を、最後の日はしなかったのかもしれない。約束を守ると言ったセイは、じゃあもう、やっぱり来ないのだ。していない約束は、守れない。
ナーナは草の上に小さく丸まった。
目を閉じる。
鼻先に、揺れる草の青い匂いがする。
音は、動いている水と風の森の声しかない。
そこに、かさり、と、地面を踏む音がした。
急に……ではなくて、ずっとしていたはずの音に、ナーナは気が付かなかった。その足音はいつものよりずっとずっと静かだったから、おもしろがった森が音を隠していた。
くすくすと優しく笑う森に隠されて、ナーナが気付いたとき、セイはすぐ傍まで来ていた。
顔を上げたナーナーとセイと、まともに目が合った。
「……セイ……?」
びっくりした。セイだった。
大きくした目は、瞬きも忘れた。
ナーナは驚いている。
セイも驚いている。思わず一歩後退って、あせって後ろを向いた。
「あ、ああああああああの、さあっ」
な、ななななななななんで裸なんだろう。と聞いたら教えてくれるんだろうか。
ナーナが立ち上がる気配にセイは固まった。
「ふ、服を着てください」
丁寧にお願いすると、嫌そーな声が返ってきた。
「濡れたまま服を着ると、気持ちが悪い」
「でも、あの、お願い」
ナーナはしぶしぶワンピースに袖を通す。
衣擦れの音が止んで、セイはやっと振り向くことができる。
白いワンピースを着ている写真の中に探し続けた女の子が、確かに目の前にいる。
口の中が渇いて、息を飲み込んだ。
いつも森にいる女の子。
名前も知らない女の子。
「ねえ、君は、誰?」
どこの、誰?
「……セイ」
ナーナはセイの頬に触った。セイは、うん、と頷いた。
「おれは、セイだよ。街の東の、ニイのパン屋の通りに住んでる。君は?」
君はどこに住んでるの?
「ここに」
この森に住んでる。という。
「嘘、つくの?」
セイは信じない。
「嘘じゃ、ない」
セイが信じていないことを、ナーナは信じていない。
「嘘なんか、どこにもない」
ナーナは真っ直ぐにセイを見上げる。セイは、小首を傾げた。
「君の、名前は?」
ナーナはセイを見上げたまま、トン……と、軽く握ったこぶしを、セイの胸に押しつけた。なにか言いかけた唇を、なにも言わずに結んで、俯く。
「……明日」
「明日? 明日になったら教えてくれるの?」
押しつけられたこぶしが少し震えていて、セイはナーナを見下ろした。
「明日、だね?」
確かめるように尋ねるセイに、ナーナは答える。
「そう、明日」
手の平を、強く握った。力を込めたこぶしはセイの胸にある。そのこぶしを、セイは、押し返した。
風が、強くざわめいたような気がした。
「明日来ても、また明日ねって言うの?」
セイは無理に笑おうとして、やめた。
「おれのこと、やっぱり嫌いなんだ?」
ただ、名前を知りたかっただけだった。ふと思い出したとき、眠る前とか、夢の中とか、なにより本人を目の前にしたときに、ちゃんと呼べる名前が欲しかった。嫌われてるなら嫌われてるで、でも、心の中で名前を呼んでるくらいは許してもらえると思っていた。
もう一度だけ聞いてみよう、これで最後にするからと、森に来た。
ほら、やっぱりこの子は森にいた。でも、今日もまた、名前を教えてくれない。
そのたびに、こんな思いをする。
こんなに心が痛くなる。
「おれは、君が、好きなのに」
告白するこんなときですら「君」なんて呼ばないといけない。
心が、どんどん痛くなる。
だから、もういいことにしようと思った。
「好きだよ。でももう、森には来ない……よ」
セイは、手の平を握り締めた。
ナーナは、瞬きする。
背後の森が、ざわざわと揺れた。