満月の次の夜は満月じゃない。だからそのあとは二度と茶色の髪を見ることはない、とナーナは思っていた。
ずっとずっと前、茶色の髪と同じように森にやってきた人間がいた。小さかったナーナよりももう少しだけ大きかったその人間は、母が帰り道を教えてやるとそのまま走っていってしまった。二度と、戻ってこなかった、のに。
『なんだ、おれ、こーゆうこと得意だったんだ』
あっさりオノを抜き取ったセイは、ナーナがさんざん苦労した木を特に苦労もなく切り倒して、扉をつけ直して、いっちょあがりと満足げに言った。その日から毎日、夕方の鐘が鳴る頃になるとやって来る。
『ところで、帰り道、どっちだったっけ?』
森に入るとすぐに方向感覚をなくすセイは、毎日そんなことを聞いた。
満月だった月は日に日に欠けていく。ナーナは毎日、これが最後だと思いながら帰り道を教えていた。
でも次の日になると、やっぱりセイはやって来る。始めは、帰り道を教えていてもそれでも一晩迷ったあげく次の日またナーナの所へ迷い込んでくるのかと思ったくらいだ。
でも、ずっと前やってきた小さな人間は、セイのように元気じゃなかった。迷い込んできたのだと母が教えてくれたその小さな人間は、母が消えてしまう直前に見せたのと同じ顔をしていた。全部に疲れて、全部を恨んでいた。ここから消えてなくなりたいと願う顔だった。
……セイは、そんな顔とは縁がなさそうだ。
今日もまた、夕方の鐘と一緒に、逆さまの木の小道から、元気にやってくる。
「おまえは、消えそうにない、ね」
ナーナはしみじみと呟く。
「え? なんか言った?」
ここまで走ってやってきて、のどが渇いたからと小川に顔ごと突っ込んで水をがぶ飲みしていたセイが聞き返す。髪までびしょ濡れになっていることなんて、気にしない。
「なに? もう一回言って?」
それが癖なのか、セイはこんなふうによく小首を傾げた。濡れた茶色の髪が、額に張り付いている。
「おまえは……」
ナーナは言いかけて、はっとしたように口を閉ざした。小川が流れていくのを見て、それきり、黙り込む。
シャツの裾で顔を拭いたセイは、黙り込んだナーナの眉間を人差指で突いた。いきなりの行動に驚いたナーナはその場に腰を抜かした。びっくりして大きくした目でセイを見上げる。
なにをするのか、というナーナの非難がましい視線などセイは頓着しない。一緒に隣に座り込む。
「そんなとこにしわ寄せたら、美人が台無し」
ナーナも小首を傾げた。これは癖ではない。セイがなにを言っているのかわからない、という仕種だ。というか、セイのすることなど全部よくわからない。どうして隣にいるのか、とか、どうして毎日意味もなくやってくるのか、とか。わからないからこんなに困惑しているのにどうしてセイは気が付かないのか、とか。ナーナが気にしていることも、セイはまったく気にしていない。
「それから、『おまえ』じゃなくて、セイ」
「……?」
「セイだよ。それがおれの名前だよって、毎日言ってるのに。あ、で、君の名前は?」
セイはじーっとナーナを見つめる。
ナーナはぷいと横を向いた。
うわ、やばいな、とセイは思った。この反応の後にくる言葉は決まっている。
「帰って」
このひとこと。いつもいつも。
「おれ、毎日聞いてるのに、毎日、教えてくれないよね。なんで……」
「帰って」
ナーナの言葉は、静かな空気によく響いた。
ナーナは立ち上がってセイに背を向ける。背中で、セイも立ち上がる。音を確かめるように、ナーナは振り向く。
ナーナはいつも振り向いた。その姿は、なにかに怯えているようにセイには見えた。
なにに怯えているんだろう。
それが気になって、名前を教えてくれるくらいいいじゃないか、そんなふうに言いたい文句を飲み込む。
なにに、怯えているんだろう。
「……帰り道、どっちだっけ?」
そう言うしかない。
「じゃあさ、また、明日ね」
セイの背中がすっかり見えなくなってしまうと、ナーナは吐息して小川沿いに歩き出した。
簡単にまたいでしまえるほどの小川を、流れとは逆に上っていく。もうすぐそこに壁がある。そんな場所にある泉から小川は流れてくる。泉の水面は、数カ所に分かれて湧いてくる水の勢いで波立っている。
ナーナは水の中に裸足のまま入っていく。刺すような冷たさは一瞬だけだ。裾が濡れる前に服を脱ぐ。中央まで行く前に、頭の天辺まで浸かった。
目を閉じて数を数える。ずっと数える。
息が苦しくなって、もうこれ以上無理だと思ったら水から上がる。体は濡れたまま、そのまま水辺の草の上に横になった。目を閉じると、遠くに足音を見つけられる。
ゆっくり歩いていく音。帰りはいつも歩いている。ひとりで森を抜けていく。これは、セイの足音。
セイの足音しか聞こえないのは、森にセイしかいないから。セイがひとりだから。ひとりだから、声も聞こえない。
「ナーナと同じ」
ひとりごとは、一人だから、ひとりごと。
『ゆきうさぎみたいなひとだなあ』
ふいに、いつかの声が頭の中で蘇って、ナーナは目を開けた。上半身だけ起きて、辺りを見回す。
『ゆきうさぎみたいなひとだなあ』
声は、ただのキオク。
ここにはない声。
ここには誰もいない。ナーナ以外、誰もいない。
これが、あたりまえ。
これが、今までと同じ。
『ねえ、名前は?』
それでも、聞こえる声。
「名前は、ナーナ」
壁沿いに遠くを見る。逆さまの木の小道からセイはいつもやってくる。学校の帰りだと、どうしてもその道になるのだと言っていた。そこまで走ってやってきて、そこかまらまた、走ってナーナを探す。名前を知らないから、名前を呼べない。呼べないから、自分で探すしかない。
「……セイ」
呟いて、セイを真似て小首を傾げてみた。
「ナーナの名前は、ナーナ」
遠ざかっていくばかりの足音に語りかけても、届かない。
『ナーナ』
記憶の中の母の声が呼ぶ。
記憶の中でナーナを呼ぶのは、母の声だけ。
これも、今までと同じ。
なにも変わってない。
静かな森の中で、湧水が水面を揺らす音だけがする。
これも、同じ。
水は今日も、どこまでも透明。……同じ。
水は、透明。
「アカクナラナケレバ、ソレデイイワ」
眉間にしわを寄せて水面を見つめて、ナーナは口先だけで呟いた。
「また、明日ね。セイ」
振り返ってみても、見えるのは森を形成する木々だけだった。
「……幻聴が……」
あの子に呼ばれたような気がした。
気のせいでなく確実に呼ばれた気もする。
でも、どちらも気のせいだ。ぼちぼちと歩き出しながら、セイはあらためて落ち込んだ。
神女神さまの成人の儀も終わったというのに、あいかわらず白い服ばかりを着た森の少女とは、あいかわらず、仲良くなれない。
「おれ、そんなに不審人物なんでしょうか?」
言葉が丁寧なのは、神女神さまにお尋ねしてみたからだった。教会に行けば神女神さまは相談に乗ってくれるという。けれど、別に、本当に返事が欲しいと思っているわけではなかった。返事なんて、本人に聞くのが一番早くて正確だ。その本人に聞けないのに他の誰かに聞くのはなんだかずるい。
……あの子の声で、名前を呼んでほしい。
「セイ」
タイミングよく呼ばれた。よく聞き慣れた声だったのに、つい期待して見向いてしまった。
「いいところで会ったよ。荷物、半分持っとくれよ」
母親だ。息子の返事など待たず、抱えていた荷物のきっちり半分以上を押しつけてくる。
「え、ああ、うん……」
「なんだい、その心から残念そうな返事は」
「ちょっと、現実に帰ってきた気分になっただけ」
黒い髪と瞳。赤い唇。それ以外は肌も服も真っ白な線の細い少女。目の前にいるのは、ぼよよんと肉付きのいい母親。
街に帰ってくるといつも、あれは夢だったんじゃないのかと思う。森の中には人のざわめきも、馬車が立てる埃っぽい風もない。
……夢だったんじゃないのか、と思う。
一緒に歩いていた母親が、はじめは通り過ぎるつもりだった雑貨屋に入り込んだ。思い出して買ったコーヒー豆を一袋、セイの手荷物に追加する。小麦粉にせっけんに野菜。さらに追加されたコーヒー豆の重さにふらつくのをなんとか踏ん張って、セイは生活に疲れた主婦のように吐息した。
森の、新しい緑が風に揺れる木々も、日差しで暖かくなった足元の草も、その奥にある小川や小屋も。
「……やっぱ、夢かも」
あの子はいつもあそこにいるけれど、まさかあそこにたったひとりで暮らしているわけなどない。そんなことあるわけない。あの子も自分と同じように、学校帰りに入り込んだ森で遊んでいるだけなのだ。セイはそう思って疑っていない。
夢を演出しているのはあの子ではなくて、静かな静かな、あの森だ。
「なにが夢、なんだい?」
「も」
「も?」
母親は変な顔をする。セイはうっかり「森」と言ってしまわなかった自分に心の中で拍手した。毎日森へ行ってるなんてことがばれたら大目玉だ。「も」から「森」を連想されないうちに、セイは慌てて先を続けた。
「も……もしも母さんなら、どんな相手なら名前教えたくないかな、と、質問しようかと思って」
話を逸らそうとしたら本音が出てしまった。
ふーんと、感心したような呆れたような様子で、母は息子を見下ろす。
「夢に、名乗ってくれない美女でも現れたのかい?」
「……まあ、そんな感じ」
「そりゃあ、おまえのことが嫌いなんだろ」
「………………ええ!?」
と、セイの受けたダメージなどおかまいなしに、母は、あんたも不憫だねえ、と明るく付け加える。
「あんたが知らない子ってことは、南の学校の子かねえ?」
街には森をはさんで、北と南に学校がある。「夢の中の美女」はともかく、学校帰りにかわいい子でも見つけたのだろう、と母は単純に考えていた。
「嫌われてるんだったら、それ以上しつこくするんじゃないよ。かわいそうだろう」
セイはさらに大ダメージを受けた。
かわいそう?
しつこくしたらかわいそう?
た……確かにそうかもしれない。その証拠にあの子はにこりとも笑わない。いつでも眉根を寄せていて、ちょっと触っただけでものすごく驚いたりする。あれはなに触ってんのよ、気安く触らないでよ、という意味だったのだろうか。
気付かなかったけれど、今まで気が付かなかったのが不思議なくらい、
「そんなに嫌われてたのか……」
嫌われるようなことをした記憶はないけれど、やることなすこととにかく気に入られない場合もある。森の中で、あの子はひとりで静かにいたかったのかもしれない。そこに他人が入り込んだりしたら、それはとても気に入らない、だろう。
……気に入らない……。
がっくりと肩を落としたセイは、
「おまえのお父さんは、モテたのにねえ」
「母さんにだけだろ」
「それで幸せなんだから、十分じゃないか」
「…………そうだね」
なんだかますますがっくり肩を落として、とぼとぼと家路に着いた。