本鈴はとっくに鳴り終わっていて、セイが式典に参加したのは聖歌の二番からだった。
舞台の上には白く着飾った少女たちがたくさんいる。
セイは森の少女のことを思い出した。途端に歌詞を間違えた。いかんいかん集中しよう、と思えば思うほどなぜだかますます集中できない。
あの子と森の姿が余韻のように頭に残っていて、白いイメージが舞台の少女たちと重なった。聖なる歌詞を間違えまくり、最後には舌まで噛んで、隣の母親に睨まれた。
しかし母親がセイを睨もうとも、噛んだ舌の痛さにひとりでセイがのたうち回っていようとも、式典のほうはつつがなく進んでいく。
街中の人間が一同に会した広場の奥の教会のさらに奥。白い垂れ絹に隠された席には、一般人がその姿を見ることなど叶わない神女神さまが、静かに座しているはずだった。
少女たちの白い舞いが始まる。
セイはつい、その中にナーナの姿を探してしまう。いるわけがないのにいるような気がして、そんなことばかりを考えてる自分がおかしくて笑った。心の中だけで笑っていればいいものを、厳かな式の最中に思わず噴き出したりするので、今度は父にも睨まれた。ごめん、と手振りで謝る。
『行かない』
どんなに誘っても来なかった女の子。そういえば名前を聞いてない。後で聞こう。
楽しみにしていた華やかな式典よりも、セイは森の中で出会った少女のことばかりを考えていた。
森は禁忌。
そんな言葉、すっかり忘れた。
だってあの少女は平気であの場所にいた、禁を犯したからといって、特になにかが起こりそうな気配もなかった。
これでもう何度目になるのか、ナーナは、振り返ってその場所を見ていた。
茶色の髪の人間が現れた場所と消えていった場所だ。
どうにもなんともならないオノと、オノの刺さった木を諦めて、ナーナは足の向いていたほうへと歩き出した。目的はない。真っ直ぐ、ぶつかりそうな木だけをよけて、真っ直ぐに行く。もう少し行くと街が見えるはずだ。そんな場所まで来て、立ち止まる。
「やっぱり……」
確かめたかったことを確かめて、確認して、落胆したように、あるいは安心したように視線を足元に落とした。それから、ずっと、上を見上げる。伸ばした手で、それ、に触る。
壁だ。
向こう側を見ることはできるのに、通り抜けることはできない。そんな壁が、ナーナの小屋を中心にして廻っていた。
壁は固い硝子のようでもあったし、速い風のようでもあった。
ナーナはここから出られない。街というものを見たことがない。
どん、と壁を叩く。びくともしない。
体当たりする。傷もつかない。ぶつかった腕が痛いだけだった。
壁づたいに歩き出す。一周して、同じ場所に戻ってくる。今までも、何度も、同じことをした。
出入り口なんてない。
壁の繋ぎ目もない。
強い風が吹いた。ナーナの髪をくしゃくしゃにする。風は壁の向こうから平気でやってきて、ナーナに触って、どこかに行ってしまう。山犬も小鳥も壁の向こうから来て、壁の向こうに帰っていく。
見えないのに、見える壁。見えない街。知らない人間。うるさい鐘の音。
鐘の音……。そう言えば、いつの間にか静かだ。代わりに、ざわめきが風に乗ってやってくる。たくさんの人間が、街の西に集中しているのがわかった。
『え、行かないの? どーしても? 絶対?』
しつこく誘った茶色の髪の人間の声を、風に乗ってくるたくさんの声の中から探してみる。耳を澄ますのに目に映るものが邪魔で、ナーナは目を閉じた。
すぐに、茶色の髪の人間の声を見つけることができた。歌を歌っている。歌詞を間違えたり、舌を噛んだり、あまり上手とは言えなかったけれど、ずっと聞いていた。
歌が終わると、後は厳かに静かになった。
座り込んだナーナは耳を澄ますのをやめ、壁にもたれた。壁は固くて冷たい。それが嫌で、若い草の上に寝転がった。新しい緑の匂いがした。
気持ちがいい。少し眠った。木漏れ日が照らす足首が暑くなって、無意識に体を丸める。
「ゆきうさぎみたいな人だなあ」
もう探すのをやめていた声が、突然耳元で聞こえて、ナーナは目だけを開いた。 セイが、すぐそこにいた。
「ゆきうさぎ、作ったことある? 雪をこう、丸めて赤い実を目にして、小さい葉っぱで耳、作んの。日向に置いとくと溶けちゃうんだけど、でもだからって日陰に置いとくと淋しそうな感じでなんか嫌なんだ。日向のほうが、雪がきらきらして奇麗なんだよ」
ナーナはゆっくりと、気怠げに顔だけをセイに向けた。
「寝てたの? 起こしちゃったから、機嫌悪い?」
さらさらの茶色い髪が覗き込んでくる。もうずいぶん高いところまで登った太陽がセイの向こう側に見えて、ナーナは目を細めた。
眩しい。
ふいと目を逸らして、ナーナも立ち上がる。
街の西に集中していたざわめきは、今はもう、いつものように街中のあちらこちらに散らばっていた。
ナーナはセイのやってきた道を振り返る。街の声を聞く仕種に、セイも振り返った。
「式典なら終わったよ。神女神さまがお疲れになるから、午前中だけなんだ」
って、そんなこと知ってるよね、とセイは母親にきちんと締め直されたネクタイを緩めた。上着を脱いでシャツの袖を捲った。キョロキョロと辺りを見回す。あれ? と首を傾げた。
「どの木、切るんだったっけ?」
森に迷った顔をする。
ナーナはセイにかまわずに、壁に触った。
壁は、確かにある。確認して、目の前の体にも触った。胸、とか、腕、とか、顔、とか。
「……積極的ですね、お嬢さん」
くすぐったいのでやめて、とセイはナーナの手を掴んだ。
「お」
今度は簡単に掴めたことに感動した。
一方ナーナは、なにが起こったのかわからないというように、掴まれた手を振った。振ってもその手が離れないので、今度は振り回す。
「こらこら」
セイが力を込めた。セイに比べたらナーナはずっと非力で、動きは簡単に止められてしまう。ナーナは気に入らなげにセイを睨んだ。
セイは慌てて手を離した。お手上げのポーズをして、困ったように視線を泳がせて後退さる。
「ごごごごめんなさい、嫌だったらもう二度としないから泣かないで。……泣かないでってばっ」
「泣く?」
誰が? とナーナが聞くと、君が、とセイはナーナを指差した。
「そんな顔、してない」
ナーナはセイを置いて歩き出す。
「してたってば。って、あ、ねえ、ちょっと、置いてかないでよ。おれのこと迎えに来てくれたんじゃないの?」
「迎えになんて、来てない」
「そう? だったら、ここで会えてよかった」
よかった? なにが? とナーナは立ち止まる。セイは、だって、と森の中を見回した。
「おれひとりだったら、迷っちゃうし」
「帰り道なら、今来たところを戻ればいい、のに」
「そうじゃなくて、あれ、だって、約束しただろ? 約束は守るよ、おれ」
「約束?」
「木、切ってあげるよって」
「そんな約束、してない」
「そうだっけ? でもせっかくだから切るよ」
「…………」
ナーナはふと、眉根を寄せている自分に気が付いた。どうも自分は、困っている、らしい。
久しぶりにたくさん話しをしている。
誰と?
街から来たという、人間と。
どうして?
「木を、切ってくれる、の?」
「木、どこだっけ?」
ナーナは森の奥を示す。
「よし、じゃ、行こうよ」
セイは再び腕捲りをして気合いを入れる。ナーナの手を掴もうとして、やめて、ナーナの隣に並んだ。
ナーナはセイと一緒に歩き出す。
……今夜は満月だから。
まだ月のない、明るい空を見上げた。
満月だから、思ってもみなかったようなことが起こる。
色々起こる。
でも、今日だけだ。