今夜は満月。
こんな日にはろくなことが起こらない。
いつものように鐘の音で目覚めた朝、ナーナは真っ先にそんなことを考えた。
小窓を開くと朝日が差し込んできて、眩しさに目を細めた。顔を洗うため外に出る。そのとき開いた小屋の扉が、バコン、と外れて倒れた。
「…………」
ナーナは黒い瞳で扉を見下ろした。冷静、なわけじゃない。どうリアクションしていいのかわからなかっただけだった。
一度だけ、瞬きをした。
開閉の度に嫌な音はずっとしていた。いつかはこうなると思っていた、けれど。予想していたのより、ずっと、あっけなかった。
「母様みたい」
しゃがみ込んで、木の扉に止めた蝶番を見た。扉が腐ったのだと思った。
ナーナはほんの少しだけ眉根を寄せる。
あまりそうは見えないけれど、実は困っていた。長い黒髪が肩から落ちて、邪魔そうにかき上げる。
扉に蝶番はしっかり止まっていた。腐って蝶番を支えられなくなったのは、家の柱のほうだった。
ナーナは、森の一番奥に建てられた、腐りかけた小屋を見上げる。
「おまえ、潰れちゃうときはナーナがおまえの中にいるときにして、よ?」
この家にひとりで住んでいる。
「一緒に、潰れようね」
腐った柱に抱きつくと、湿った匂いがした。
「おまえだけで、逝かないで」
しばらくして森に入ったナーナは、ひと抱えはある木を眺めて途方に暮れていた。
見上げた木は、幹のわりに背が高い。ずいぶん高い。もう夏になる。葉もびっしり生い茂っている。薪にするための小枝をはらうのには慣れていたけれど、この木を果たしてナタで切ることができるのか。たとえできたとして、どうやって持って帰ればいいのか。
扉の修理でもしようと思ったのだ。扉がないのも家が潰れてしまうのもいっこうにかまわない、と思う。でも、できることなら潰れないほうがいい。
街からは、朝の礼拝の時間を告げる教会の鐘が高らかに鳴り響き続けている。いつもよりずいぶんしつこく鳴っている気がしたけれど、その意味をナーナは知らない。聞こえているけれどまるで聞こえていないように、ナーナは木を切り始めた。
カーン……カーン……カーン……カーン……。
半音低めの鐘の音は、街中に聞こえる。
「セイ! セイ!! なにやってんだい、今日だけはなにがあっても遅れるんじゃないよ。本鈴が鳴り終わるまでには席に着いてるんだよ、いいね!」
「………うぃーっす」
ベットの中で大あくびといっしょにした返事は、階段下の母まで届くわけがない。
「セイ! 起きたんだろうね、おまえの足なら本鈴が鳴り始めてからでも間に合うけど、それより遅れて森を突っ切ってきたりしたら、ただじゃおかないからね。いいね、セイ!」
母さんたちはもう行くからね、と付け足して扉の閉まる音がした。そのあとは聞き慣れた鐘の音以外すっかり静かで、セイはうつらうつらとまぶたを閉じる。完全に目を覚ましたのは、高い音が鳴り始めたときだった。
本鈴だ。
「……やば……っ!」
飛び起きて、ぼさぼさの前髪の隙間から着替えを探してひっかぶった。家を飛び出して、はっと気付いて逆戻りすると、昨晩母がタンスの一番奥から引っ張り出して壁に掛けておいてくれた一張羅に着替え直した。
ネクタイがうまく結べないまま、靴は皮のものを履く。これで石畳の街を駆けるのは骨が折れそうだ、と思いながら家を出た。
母に叱られるので踵が減らないように気を付けて走る。そのせいで速度が落ちる。誰もかれもすでに教会に入ったのか、人っ子一人いなくなった街の真ん中で、セイは諦めたように立ち止まった。
「絶対、遅刻する」
あちこちに結ばれた白いリボンが風になびくのを見ながら、こぶしを握りしめて確信する。鐘はそろそろ半分鳴り終わる頃だ。このままではまず間違いなく、確実に遅刻する。
「……黙ってればバレない。……たぶん」
今度は確信なく呟いて、靴とくつしたを脱いで脇に抱えた。
「ごめんなさい、母さん、神女神さま。どうかバレませんように。バレてもこっぴどく叱られませんよーに」
教会に向かって手を合わせてお祈りした。
街は森を囲むように造られていて、東から西へ、地図上では森を突っ切るとセイの家から教会はとても近い。森が小高くなっているのを差し引いてもやはり近い。
<森の入り口までは神女神さまの守る地。その奥は禁忌。神女神さまの、手の内の外>
小さな頃からずっと聞かされてきた言葉が、頭の中でぐるぐる回った。
「うわあ……ドキドキするなあ」
引きつった笑みを浮かべながら、セイは大袈裟に息を飲み込んだ。
初めて森に入る。それくらい、今日はなにがあっても遅れたりできない日。
昨夜遅くまで本を読んでいたことを後悔しつつ、森の向こうの教会を目指し、自分の合図で駆け出した。
「よーい、どんっ!」
ナタでは確かに少し小さすぎたかもしれない。
だけれど。
だからといって、さすがにオノは重かった。よたよたとふらつきながらもなんとか振り下ろしたオノを、ナーナは眺めた。
振り下ろすまではなんとかなった、けれど、次にはなんともならなくなっていた。オノの刃は、ナタで楔形に切り取っていた木の溝にピッタリはまってしまって、押しても引いてもびくともしなくなってしまった。
どうしようかな、と、一見どうする気もない表情で考える。
カアーン……カアーン……カアーン……。
鐘の音が急に高くなって、ナーナは顔を上げて瞬きした。
驚いた。
驚いたりした自分に、また、驚いた。
別になんのことはない、いつも鳴っている鐘だ。始めに少し低い音。それから高い音。毎朝毎夕、かかさず必ず鐘は鳴る。
『あれはなんの音?』
ずっと小さな頃に、母に尋ねたことがある。
ナーナと同じ黒髪の母親は、穏やかに笑いながら、ナーナの髪を撫でた。
『私たちには意味のない街の鐘が、鳴っているだけよ』
と。
意味のないはずの音が、今日はさらにうるさい。でもきっと、これも意味のないものなのだろう。
オノも抜けないし、すっかりやる気をなくしたナーナは、地面に水平にはまったままのオノの柄に腰掛けた。
周りの景色はいつも同じ。
木々ばかり。
ここから見える木々はそれぞれに違っていて、どんな形の葉をつけるのかは知っている。
だけれど、
その向こうの景色は知らない。
『まち、ってなあに?』
『母様とナーナ以外の人間はたくさん住んでいるのに、母様とナーナはいない場所のことよ。母様とナーナが知らない場所のことよ』
知らないものは、全部木々が隠している。
ナーナが木々の向こうに行くことはない。山犬や小動物以外に、木々のあちらから来るものはない。それは、昨日も今日も、明日もその次も、ずっと同じ。
同じ、だ。
風に新緑が揺れる。
小鳥のさえずりが聞こえる。
木漏れ日が、重なっては離れていく。
あの鐘も含めて、いつもとなにも変わらない時間だった。
だから。
眺めていた木々の間から、人間が突然出現したときには、ナーナは腰が抜けるほど驚いた。
本当に、驚いたのだ。
身動きができないまま、大きな瞳をさらに大きく見開いて、じーっとその人間を見つめた。
山犬でも他の小動物でもない人間がそこに現れたのだ、と認識するまでに、三度、鐘が鳴る時間が必要だった。
森に突然現れたのは、セイだ。
着慣れないスーツに適当に結んだネクタイを首から下げ、両手に片方づつ、くつしたを突っ込んだ靴を持っている。ものすごい勢いで森を駆けてきて、ピタリと、立ち止まった。
白いもの。それから、黒いもの。
強いコントラストに目を引かれて、立ち止まった。
白くて黒いなにかとてもきれいなものが、ふわりと浮いているように見えた。
息をするのも忘れて、ぽかんと口を開けて、それがなにかと見つめた。
よく見ればそこには人がいて、腰を掛けているだけのことだったのに。
よく見るまでは、なにがそこに浮いているのかまるでわからなかった。
風に白くなびいているのはワンピース。
黒は艶のある長い髪。
そこにいたのは、そんな、女の子だった。
なんだ。
なにを安心したのか、なにを残念に思ったのか、大きく息を吐き出す。気が抜けて、大事に持っていた靴を落とした。
落とした音に驚いた少女は、オノの柄からずり落ちて地面にしりもちをついた。
セイは我に返る。世界から音が消えたような気がしていた。その音が戻ってきた。鐘の音も突然戻ってきて、セイは慌てて靴を拾い上げた。
なんだ、普通の女の子だ。
ごく、普通の……?
「鐘が、鳴り終わるよ」
「……鐘?」
セイの声に、ナーナは座り込んだまま、思い出したように瞬きした。ゆっくりと、硬い鐘の音が見えそうな空を仰いだ。
それは滑るように静かな仕種だった。セイは、少女のワンピースの衣擦れの音や、肩から髪から落ちる音を聞きたくて、生まれたその日の朝から聞いている鐘の音を、邪魔だと、思った。今まで一度だってそんなふうに思ったことなんかないのに。
……鐘、うるさいな。
「うるさい音」
ナーナは口にする。
思ったことをそのまま口にする少女を、セイは見つめた。でもそれは、ただのひとりごとのようだった。
相変わらず、この森にひとりきりの、ナーナのひとりごと。
「その木、切ってんの?」
ナーナはまた瞬きした。
まだいる。
そんな目をする。
薄い茶色の髪のひょろひょろと背の高い人間は、瞬きするうちに消えると思ったのに消えてない。
「母様は、夜に消えた。おまえは、いつ、消える、の?」
「うわ、オノ、はまっちゃてるじゃん。無理だよそれ、もっと力がないと」
ふたり、同時に口にして、見合う。噛み合っていない会話に笑い出したのはセイだった。ナーナは笑わない。
「そんなの後から手伝ってあげるからさ、教会に行こうよ。早く行かないと遅刻するよ?」
「おまえ、街、から?」
「他にどっから……って、時間! ないって、さすがにっ」
セイはナーナの手を引っ張ろうとする。
セイから、ナーナは身軽に飛び退いた。体温も体重も感じさせない動きだった。セイはここが森の中だったことを、突然思い出した。
禁忌だと言われている森の中。
森のずっと奥。
ここに、ひとりでいた女の子。
「神女神さまの誕生祭に、遅れるわけにいかないだろ?」
新緑の第一周目の満月の休日。今日がどんな日なのか、知らないものなんていない。
二十七代目の神女神さまの誕生日で、十五歳を向かえる。十五歳は特別な年だ。成人の儀を兼ねて、今年は特に華やかな祭りが行なわれることになっていた。
街中に白いリボンをくくる。神女神さまと同じ年の少女たちは、白い服を着て白いリボンを髪に結び、この日のために練習した歌を歌い、舞いを舞う。
ナーナも白い服を着ていた。だから違和感を感じなかった。十五歳なのだと思った。セイはまだ十四歳で、正直言うと、目の前の少女は年上というよりは、同じ年か年下に見えたのだけれど。
「早く、行かなきゃ」
森の中だけれど。
なんだか呑気に、こんな大切な日の朝っぱらから木なんかを切っていたようだけれど。
今度は恐がらせないように、そっと手を差し出した。いきなり触ろうとしたら、それはもちろん、逃げられるのも当たり前だから。
「行こう」
屈託なく柔らかく笑うセイの手を、ナーナは見下ろす。
「カミメガミサマ……?」
もう一度、瞬きした。
セイの手も顔も、全部、まだ消えなかった。