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「は? フラれた?」
 始業のチャイムが鳴ったにもかかわらず、亜矢がすっとんきょうな声を上げた。架折には起立の号令も耳に届かない。机に突っ伏したまま、魂の抜けたムクロと化している。
「あんな人紹介したお父さんのせいだー、って家で喚いたら、お父さんはあたしに怒られてショック受けて、それはそれで少しは気分も晴れたんだけど、でも叶くんはもうあたしの元へは帰ってこないの。もうすぐ叶くんの誕生日だったんだよ。せめてそれまでは、一緒にいたかったなあ」
 だって、あたしの誕生日はお祝いしてもらったのに、とぐずぐずと鼻をすすりながら眠りに落ちていく。昨夜ショックのあまり取ることのできなかった睡眠をここで取ろうというのだ。飛んできた橘教諭のチョークにも目を覚まさない。
「叶氏が気付いた? そんなわけないわ。それって、おかしいわよ。……まさか、もしかして……っ」
 亜矢の意味ありげな咳きにも、その咳きに同意するように亜矢と目を合わせた橘教論にも、架折は目を覚ますことはなかった。
 たくさん泣いたのだろう。赤く腫れている架折のまぶたを、亜矢はそっと撫でてやった。



 心に嵐が吹き荒れる。その後の架折は半ばやけくそだった。
「は? 銀行強盗? そんなことしてどうすんの?」
 ぱあーっと気の晴れることがないかとアヤに相談してみたところ、
「世界征服のための資金となります」
 真面目な顔で返ってきた答えに納得しないこともないような気がした。そういえば自分は悪の秘密結社の一員で、ついでに支部長の娘で、偉いのだ。ええい。
「暇と忠誠心のある奴はついといでっ」
 この世でもっとも尊い愛を失った今、残されたものは悪の総帥様に対する忠誠心のみ。ああ、それが我ら悪の秘密結社に属するものの定め。運命。
 はりきって銀行強盗に出かけていく娘を、両親は温かく見守る。
「あんなに小さかった架折ちゃんが、すっかり立派になりましたね、あなた」
「そうだなあ、母さん」



 やがて悪の所業を続ける黒団体の名は各地に知れ渡るようになった。その統率力。その行動力。だが、彼らの素顔は黒いベールに覆われ、はっきりしない。
 そこに登場するのが白の団体正義の味方だった。
「世のため人のため、いつまでも君たちを野放しにしておくわけにはいかないんだよ」
 いまいち迫力に欠けるが、今日の彼らには決めゼリフなるものを吐くリーダーが存在していた。
「へえ、初めまして、だね、白のリーダーさん。あたしは黒のリーダーだよ」
 架折は先頭に歩み出た。
「やる? 今のあたしには失うものなんてなにもないっていう無敵状態なの。やれるもんなら、やってみていいよ」
 すっと手をあげた。それが、合図。
 下っ端たちが身構える。その中で、白のリーダーの彼は真っ直ぐに架折の元へやって来た。アヤとシイナが架折を庇い前に出るが、一蹴された。さすがに強い。
 架折と白男リーダーが向かい合う。
 架折はアヤとシイナがあっさり負けた相手にも怯むことはない。面倒くさそうに腕を組んだ。
「和解の申出なら、お断わり」
「そうだね、そんなことで君たちを懐柔できるとは思ってないけどね」
 二人睨み合って、先に動いたのは架折だった。足下にあった棒切れを蹴り上げると、手に取り大きく振り下ろす。
 白い彼は身軽に避ける……かと思いきや、こともあろうにそのまま架折に向かって突っ込んできた。棒が強く彼の肩に当たった。なぜ避けないのかと驚く架折の喉元に彼の手が、伸びた。
 首を絞められ架折は咳き込む。苦しくて、短い人生を走馬灯のように思い出す準備を始めようとしたとき、彼の手が、緩んだ。
 なにが魂胆なのか、身動きできないままでいる架折の手を、彼が取る。
「なにを……っ」
 なにをするつもりのかと架折が怯んだとき、もう片方の手が伸びてきて、帽子取りよろしく黒のキャップを剥ぎ取ろうとした。避けようと咄嗟に払った架折の手が、逆に彼の白いキャップを掴み、取っていた。
 その帽子の下に現れた顔は。
「……叶くん……!?」
 見間違えるはずのない顔に驚いた。まぎれもなく叶礼士だった。驚いた隙を突かれ、架折もキャップを取られた。
 その素顔に、礼士が悲しげに吐息した。
「やっぱり、架折ちゃんだったんだね」
「……どうして……」
「彼に見覚えがあったから、もしかしてと思って」
 礼士はシイナを差し示した。
「ねえ、おれのところへおいで。君にそんな場所は似合わないよ。おれも今日この地位に着いたところで戸惑ってるほうが多いけれど、君ひとりくらい助けてあげられる」
「どうして……」
 架折はもう一度呟く。
「どうして……。どうして運命の神様はここまであたしたちの仲を引き裂くの!?」
 架折はひとり悲劇に酔いしれ、近くにあった適当な誰かの胸に飛び込んだ。
 それがよりによってシイナだった。
 礼士は架折に黒のキャップを返した。
「ああ、でもおれはやっぱり彼には適わないかな」
 寂しげに、けれど潔く退却命令を出すと礼士とその一味はその場を去っていく。
 ハンカチを噛み締め礼士の背を見送る架折の足下に、アヤが素早く控えた。
「叶礼士は、白だったのですね」
「ですね、って?」
「黒に身を隠したわたしたちに気付くことができるのは覚醒前で敏感になっている者だけです。叶礼士がシイナの存在に気付いたのはそのためです。ですから彼が白か黒か、どちらかになる覚悟をしておいてくださいと言っておいたはずです」
「はあ? そんなの聞いてないよ」
 あっさり言うと、アヤとシイナは顔を見合わせる。
 ……そう、確かに架折は聞いていなかった、かもしれない。なにしろ心の中に嵐が吹き荒れていたのだ、他人の言葉を聞く余裕がどこにあったというのか。
「………ところでちょっと、えー、待ってよ。叶くん今日がデビュー戦って言ってた? てことは、もしかしなくて今日が叶くんの誕生日!? 嘘、忘れてた……なんてこと……」
 失念していた自分にどっと落ち込みつつ、それでもなぜか心の嵐は治まりを見せ始めていた架折だった。


      ◇


 北中 150 対 南中 36
 体育館の中ではスコアボードと共に南中バスケット部員が肩を落としている。北中のヒーローは悪の秘密結社の支部長の娘を呼び出し、人気の少ない体育倉庫の裏にいた。
「おれは、架折ちゃんが敵だから……だから別れたわけじゃないよ、あのときはまだそんなこと知らなかったんだ」
「本当に? 今もあたしのこと好き? あたしはまだ好きだよ。やり直せるんだよね?」
 答えが欲しくてつめよる架折から、礼士はすぐに答えられないのが申し訳なさそうに目をそらす。
 架折はどこからか取り出したハンカチで、潤む目を拭いた。
 礼士は答えないのだ。架折は、じゃあもうこれで本当にお別れだね、と去り行こうとして、引き止められた。期待を胸に振り向く。
「その、あの、架折ちゃんは、本当にあの彼とはなんでもないんだよね?」
「あたりまえだよ。あんなの、ただのあたしの護衛だもん」
「……だったら」
「だったら?」
「おれ、まだずっと架折ちゃんのこと好きだよ。だからおれの仲間になってくれれば……」
「それはダメ」
「え?」
「とにかくダメ」
 それはそれ、これはこれ。きっぱりお断わりする。
「あたし、もう悪の総帥に忠誠誓っちゃったもん。だからもうダメ。それにそんなことしたらお母さん泣いちゃうから、やっぱりダメ」
「そんなっ。よく考えなくちゃ駄目だよ架折ちゃん。悪は悪だよ。世間に認められずに生きていくのは辛いと思うよ」
「あのね、あたし真っ白な正義の味方もけっこうヘンだと思うの。今時、ちょっとねえ」
「え、そうかな」
「うんでも、悪の組織もヘンだと思ってるけど、なっちゃったものはしょうがないし。なったからには頑張らないと、いちおう」
 にっこり笑うと、架折はパチンと指を鳴らした。すぐに、二人分の気配が架折の背後に控えた。
「見て。どーしたって、あたしは悪の秘密結社のリーダーなの。でもね、ねえ叶くん、あたしは別に叶くんがあたしの仲間じゃなくったってぜんぜん平気なんだよ。立場や地位なんて関係ないんだよ。あたしはあたしだし、叶くんは叶くんでしょ? でも叶くんは、悪のあたしはそんなにイヤなんだね」
「架折ちゃん……」
「競争しようか」
「……え?」
「シイナがあたしとはなんの関係もないとわかった今、あたしたちの障害はこの立場だけ。叶くんはあたしを正義の味方にしてみせてよ。あたしは叶くんを悪の味方にしてみせるよ。絶対だよ。だって、こんなにまだ好きだもん。これくらいの障害は、二人の愛を燃え上がらせるための、必須アイテムみたいなもんだよね」
 にっこりと、笑顔は晴れやかだった。なにしろもうお互いにくだらない誤解はない。誤解は愛を曇らせる。心を曇らせ嵐を呼ぶ。
 でももう、誤解はないのだ。
 架折はずいと詰め寄る。
「あたしは叶くんのために頑張るから、叶くんはあたしのために頑張って。競争だよ」
 ちょこんと小首を傾げて礼士の瞳をのぞき込んだ。その仕種も潤んだ眼差しも、礼士には無垢な天使の姿に写ったに違いない。
このままでは架折のかわいらしさにさっそく悪に転んでしまう危機感でも感じたのだろうか、礼士は逃げるようにその場を後にした。



「確かな愛の前では、小さな障害なんて恐るにたりないわ。しょせんかなわぬ恋だったの? なーんてもう言わないんだから。だって愛してるの。初心忘るべからず。愛は勝つ。仲間でなければおつきあいできないと言うのなら、いつか必ず引きこんであげるから待っててね」
 節を付けて歌いながら振り向くと、そこには予想していたアヤとシイナではなく、制服姿の亜矢と橘教諭が立っていた。
「あれ?」
 首をかしげる架折に、亜矢は呆れた顔をする。
「あんた、ほんとに今まで気付いてなかったわけ?」
「うーん、アヤが亜矢で、シイナが橘先生……。橘椎名……なるほどどうりで、第六感が叫ぶと思った」
 謎が解けてすっきりする。
「で、あんたやたらにすっきりしてるのはいいけど、くれぐれもあんたが改心させられないようにね」
「うん。頑張って悪を栄えさせようね。だって、悪なくして正義は栄えないしー、あたしたちのおかげってこともうちょっとちゃんとわかってもらわないとねえ。それで感動した叶くんは悪に改心するんだよ。この筋書きどう?」
「……正義栄えさせてどうすんのよ」
「正義が栄えれば、悪も栄えるでしょ。とにかく頑張るぞ、おー!!」
 架折は愛する彼のために、彼に負けない悪になることを、すっかり晴れ渡った心の空に誓うのだった。



〜 おわり 〜