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 ガッ……。
 空色の傘の柄が腹の肉に食い込む嫌な音がした。次いで、小脇に抱えていた薄っぺらの学生鞄のカドがのど元を叩き付ける。同時に、うげえと漏れた啼き声も嫌な音だった。
 白の男に飛びかかられて、うわあ、やっぱりあたしかあ、と思わず目を閉じた数秒後。
 恐る恐る目を開けた架折の前には、二つの白が転がっていた。しっかり大事に手にしていたはずの傘と鞄が男と一緒に転がっている。
「おや?」
 架折は首を傾げて考える。ガッとか、うげえ、とか。やったのはあたし? 
 咄嗟とはいえ偶然てすごいなあと感心する。早く110番しなくちゃと考えつつ、次にかかってこられてももう投げつけるものがなくて困るなあ、などということも一応考える。
「おのれ力オリ、よくも我らが同胞を!」
「悪いのって、あたしじゃないと思うけど」
 怖い目で睨まれて、架折は半身退く。
「どうして15才になったばっかりのか弱い女の子が、わざわざ名指しでこんな目に遭わなくちやいけないのぉ」
「なにを言う。AHKが悪くなくて、この世のなにが悪いというのだ。15才ともなれば一人前だ。男も女もない。この後に及んでの言い逃れ、みっともないぞ!」
「……その言い分、ちっともわかんないんだけど」
「とにかく覚悟しろ!」
「なにがとにかくなの、なにがっ」
 こうなったら一目散に逃げてやる。と覚悟を決めたまさにそのとき。一人の白男が、とうっ、と女の子に向かってゲンコツで襲いかかってきた。
「いやああああああっ」
 逃げるぞ。とにかく逃げるぞ。と意気込む架折は、けれどなぜか逃げるよりも構えてしまっていた。顔の前で交差した腕でゲンコツを止め、カカトでみぞおちを蹴り込む。
 白男は腹を抱えてアスファルトに倒れ込んだ。
 残っていた男たちが退却していく。
 雨宮架折、じっと、自分の手を見る。
「あたしって、すごい?」
 なんと、からだが勝手に動いていたのだ。



「真に目覚めたのだな、我が娘よ」
 とにかくなんとか帰りついた架折を、待ちかねた様子の父と母が出迎えた。
「無傷で帰ってくるとは、この先が楽しみだ。おまえが晴れてAHKの一員になる日を待ち望んだ甲斐があったというものだ」
 わっはっは。父が楽しそうに笑う午後5時半。お父さん会社は? 早退? すごく気になったけれど、それよりもさらに気になったことをまず聞く。
「NHK?」
「それは日本放送協会よ、架折ちゃん。我々はね、悪の秘密結社、なの」
「あの、ちなみにSNMは?」
「正義の味方、だ」
「あたしさっき、その正義の味方に真っ昼間から襲われちゃったけど」
「いまいましいことこのうえないが、今回は架折、お前の勝ちだ。鼻高々だ」
 鼻よりも腹を出して胸をそる父。この親の前では架折も頭を抱える。
「……それで、悪の秘密結社って?」
「世界征服を企む悪の組織だ。どうだ、すごいだろう」
「うーん……」
 玄関先で突っ立ったまま、架折は上がり端に立つ父を見上げた。母は隣で、父の台詞にいちいち、素晴らしいわあなた、と感動している。
「なんであたし、わざわざ悪者かな」
「それはこの父、織人の娘に生まれた定め。こうなれば正義の魔の手をかいくぐり総帥様のご期待に沿えるよう全力を尽くすのみっ」
「正義の魔の手?」
 日本語の矛盾に対する疑問は、そこに突如現れた黒装束の二人の姿にごまかされた。
 黒いズボン黒いスカート、黒のシャツに帽子に靴に靴下。
 一人は男で一人は女。
 二人とも、片膝をついて架折に低頭する。
「シイナとアヤだ。これより先、おまえに仕える者となる。見知っておけ」
「アヤって……亜矢と同じ名前だね」
 じーっと見るとアヤの肩がびくりと揺れた。あからさまな動揺だったように思えたけれど、すでに架折の注意はシイナに向いていた。
「このように黒は我らの象徴。特殊な布を使用しているので、これを装着しているときは変身ものテレビアニメの主人公のように『あら、雨宮さんのお嬢さん』などとバレることはない。偽りの日常での姿を隠してくれる優れものなのだ。よいか、架折。我々悪の秘密結社社員一同は……」
 架折はシイナを見続けて見続けて、最終的にはなにか納得いかないように、うーんと唸った。父の熱弁など聞いちゃいなかった。


      ◇


 この奇異な体験を、翌日架折はさっそく亜矢に相談する。
「あのね、亜矢、昨日なんだけどね」
 ガタコンッ。
 教室の中。隣の席の亜矢は机の上の筆箱を派手に落としてぶちまける。
「な、なによ。昨日が、なに?」
 動揺は隠せないが、架折はそれにはまったく気が付かない。
「えーだからね、あれから家に帰ったらね」
「帰ったら?」
「なーんと、お父さんがばりばりあたし好みのスペシャル格好いい人紹介してくれたんだけどね。年は、十才くらい? かなり違うっぽいんだけど、でも顔、スタイル共に文句なしですごい好みなの。でも、なーんか、どーも、違うぞーってあたしの第六感が叫ぶの。なんでだと思う?」
 筆箱を拾い上げた亜矢は、少し口もとの引きつった笑顔で答えてくれた。
「あんたの悩みって、色恋ごとに限定されてんのね」
 え? と聞き返すと、なんでもないわよと何事もなかったように答える。
「まあ、それはつまり、あれよ。叶氏? がやっぱりどうにも一番、ってことなんじゃないの? だから他人が目に入らないのよ」
 ポン。と架折は手を打った。
「そうか、そうだね、ウヨキョクセツあったけど、ここまで様々な愛の形を見てきたけど、そっかー、あたしの真の愛はいよいよ叶くんで花開く運命なんだー」
 架折はあらためて叶礼士への愛を確信する。そこに白色チョークが飛んできて架折のおデコに命中した。
「このままだと、おまえの成績の花は枯れ果てる運命だぞ」
 チョークを投げさせたら右に出るものはいないと噂される数学顧問の橘教諭が、教壇から睨みをくれる。ついでに超難問もくださって、その時間一杯、架折は嫌いな数学に頭を悩ませなければならなかった。もっとも、わりといつものことでもあった。



 その週の日曜日。快晴。
「お祝いが遅くなっちやって、本当にごめんね架折ちゃん。でもそのぶん、今日はいっぱい遊ぼうね」
「うんっ」
 礼士と架折、二人仲良く手を繋ぐ。約束通りの遊園地で、お井当持参で微笑ましいときを過ごす。ここにあるのは小さな恋。
 と、浸っていられれば文句なく架折も幸せだったのだけれど。それから三日後の図書館でお勉強会でも、その五日後のショッピングでも、その翌日の映画館でも、とにかく現れる黒い影に、堪忍袋の緒が切れかかった。
 影の正体はアヤであったり、シイナであったり。
「なーんなのかなあ、あたしと叶くんの仲になんか文句でもあるのかなあ」
 映画館の帰り道。礼士と別れた架折は人気のない道に差しかかったところで少々声を張り上げた。すぐに架折の前にひざまずいた姿を現した影は、こともなげに返答してくれた。
「いえ、別に。私はただ己の任務を遂行しているにすぎません。気にしないでください。どうせ、叶礼士も私の存在などには気付いていないでしょう。そう、どうせ」
 もしかしたら嫌味っぽいことを淡々と言う。架折は背の高いシイナをいやーな顔で見上げる。はっとして、ついでにもっといやーな顔をして背後を見返ると、そこには気配通りの白装束の一味が現れていて、架折は大きく大きく溜め息を吐き出した。
 とりあえず、いつも持ち歩くように言われている黒いキャップを目深にかぶる。こうするのにもすっかり慣れたこの頃だ。が、今日のこの相手の人数はいつもと違ってかなり多い。多勢に無勢。
「これはちょっと、不利だよねえ」
「カオリ、指を、鳴らせますか?」
「は? 指?」
 シイナに言われて、見よう見まねでパチンと指を鳴らす。すると黒装束の集団ががどこからともなくわらわらと集まってきた。
 架折の目の前で、白と黒、かってにドンチャンやってくれる。その数ざっと、簡単に道路を埋め尽くすほどだった。埋め尽くされた道路の向こう側では交通整備も始まった。
「こ……こんなにいたのか」
 架折の呟きにシイナは律儀に答えてくれる。
「世の全人口の、2対1対2の割合で『善』対『普通』対『悪』、となっています。周り中が味方であると同時に敵でもあります。どうか、お気をつけください」
「おっけい、わかった」
 格闘集団の中で、架折は素直に額く。その素直さにシイナも満足げだ。けれど満足は長くは続かなかった。
「あたしは叶くんのものなの。この乙女の柔肌、他人に傷付けられてナルモノカ。ってことだよね?」
 雨官架折はあくまでも、恋に生きるのだった。



 だが、幼すぎる恋が脆くも悲劇的に崩れさる日がやってきた。逢瀬を重ねてはや2ヵ月と26日目のこと。
 礼士が、繋いでいた手を、離したのだ。
「ごめん、架折ちゃん。おれ、架折ちやんのこと好きだよ。でも……でもおれじゃ駄目なんだ」
 まだ架折の温もりの残る手の平を握りしめて苦しげに告げる。ものすごく、仕方なさそうに。
 それまで晴れやかだった架折の心の空が曇っていく。待ち合わせによく使う児童公園のブランコが強い風に揺れた。
「あたしの存在が重荷?」
「ううん。架折ちゃんと一緒だと勉強もはかどるし、すごくやる気があって、中学最後のバスケの試合もうまくいきそうだよ。みんな、架折ちゃんのおかげだと思ってるよ」
「でもあたしじゃ、叶くんの幸運の女神にはなれないんだ……?」
「違うよ、きっとおれが、架折ちゃんの傍にいちやいけないんだよ。だって……」
「だって?」
「だって、おれはきっと、いつも架折ちゃんを陰から見守ってる彼には、適わないから」
 礼士はすべり台の陰に隠れている人物を指差した。黒服のシイナが立っている。あれほど言っておいたのに、どーしてまたあんなところに立っているのかあの男は。
「違うの、アレはね……」
 その、「アレ」発言がまずかった。
「とても、親しいんだね」
「ごーかーいーよー」
 叫んでも彼はもう振り向かない。彼の哀愁に満ちた背中は、沈み行く夕日に、飲み込まれて、消えた。



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