『覚えてろよ』
 と和弘は確かに言った。

      ◇

 朝から天気がよかった。
 昨日がまるで朝から丸一日卒業式の予行演習だったように、今日も昨日と同じ時間に起きて、登校する。
 昨日、式の予行演習が始まったのと同じ時間に、今日は本番が始まる。
 昨日と違うのは、ちゃんとした卒業証書が手の中にあること。祝辞が予定の時間よりもオーバー気味なこと。昨日は私語や笑い声まで聞こえたのに、今日は、なくなることはない私語に泣き声が混じって聞こえてくること。
 違うのはそれくらいで、特に、滞りなく時間は過ぎていく。
『先輩方の退場です。拍手でお送りしましょう』
 放送部のアナウンスが、卒業式の終了を告げる。
 これも、予行演習の通りだった。
 静かな曲が流れ出して、三年生は在校生の拍手の中を退場する。
 なにもかもが昨日と同じで、だから、そのまま終わるのだと思った。
 三年生はクラスごとにぞろぞろと体育館の中央に作られた通路を出て行く。
 志保も、列を乱すことなく歩き出す。それで終わりの、はずだった。
 ふと見た場所に、和弘が、いなければ。
「…………っ」
 和弘が、志保だけを、見ていなければ。
 志保は慌てて目をそらした。
 うそ……昨日はあの場所にいなかった。……確か菊絵が、予行演習を欠席していたと言っていた。一緒に和弘も昨日はいなかったのだろうか。
 ……今日はいる。
 志保を、見ている。
 昨日は手を離したくせに。もういいと、言ったくせに。
 どうして見ているのか。
 ……気のせいかもしれない。私のことなんて見ていなかったのかもしれない。
 確認したくて、志保はもう一度和弘を見た。
 和弘は、志保を見てる。
 どうして……?
 そんなことを考えながら、志保も和弘を見ていた。
 そうして、目をそらすことを忘れたなら、卒業生を見送る拍手が耳に入ってこないほど和弘に見入ってしまったなら、捕らえられて、立ち止まってしまったかもしれない。
 この場所に和弘とたったふたりきりだったならそれでもよかった。立ち止まって……立ち止まるよりも先に和弘のもとに向っていても、よかった。
 けれど、
 志保は立ち止まらない。和弘のもとへも行かない。列は流れていくし、志保はその列の中にいるひとりでしかない。ここにいるのは志保と和弘のふたりだけじゃない。
 和弘を通り過ぎて、志保は視線を逸らした。前を、見る。
 前を……見たかったのに。
「志保!」
 呼ばれた……。
 ……誰に?
 誰が、呼んだ?
 まばらな拍手とすすり泣きの音しかなかった体育館が、ざわざわとざわめいた。
 波が起こるように大きくなっていくざわめきに立ち止まった志保の、その後ろの列の流れが滞った。志保のすぐ後ろを歩いていた圭は心配そうに志保を見て、そうきたか、と感心したように声の主を見た。
「志保」
 もう一度、その声が志保を呼んだ。
 ……誰?
 ……そんなの、知ってる。
 だから振り向けなかったのに。
 圭に肩を叩かれて、振り向いた。圭が叩いたから、と、自分に言い訳をしながら振り向いた。
 振り向いた先で、在校生の中で、和弘だけが立ち上がっていた。
 よく目立つ。
 ひと目で見つけられる。
 ……志保の見つけた和弘は、和弘の見つけた志保だけを見て、笑った。
 普通に、なんでもないことみたいに笑った。
「やあっと振り向いた」
 卒業生は卒業が悲しくて泣いているのに、在校生は和弘の行動に驚いて声もないのに、和弘だけが、笑っている。
 志保は、どんな顔をしていた?
 驚いてる? 訝しんでる? それよりももっと、なにが起こっているのかわからない顔をしていた。
「なにその顔? オレがこのまま行かせるなんて思ってました?」
「し……んじられない……」
 志保は自分を支えるように、傍にいる圭の制服をきつく掴んだ。
「……圭」
「はい?」
「今、起こってること、夢だって言って」
「え……」
「だって、こんなの、夢……だよねえ?」
 夢の中でさえ夢だと思いたかったのは、だって、こんな都合のいい話があるわけなかったから。
 和弘が呼び止めた。まだ、呼んでくれる。
 志保、と、あの声で。
 いつでも、志保以外見えていない目で、まだ、見てる。
 それから、現実だからこそ夢だと思いたかったのは……こんなところで、呼び止めるから。
 卒業式が思い切り滞ったのに、まるでそんなことどうでもいいように、この世にふたりきりしかいないみたいに、
「しーほー」
 和弘は歌でも歌うみたいに志保を呼ぶから。
「うそ……でしょ……」
 どうしてこんな……想像もしていなかったことが起こっているのか……。
 総合すると、恥ずかしくて。
 これがどんな夢だとしても、とにかく恥ずかしくて。
「しーほ」
「やだ……呼ばないで……っ」
「だって志保、他のとこで呼んでも逃げちゃうし」
 ……それはそうかも、しれないけれど。
「だからって……っ」
 反論しようとして顔を上げた途端、全校生徒の視線にぶつかって、真っ赤になった志保のなにかが、ぷちんと切れた。糸の切れた人形のようにぺったり座り込んで、動けない。
「志保?」
 和弘が駆け寄ってくる。
 志保は動けない。逃げられない。
 和弘は志保の目の前に座り込んで、すぐ傍から志保を覗き込んだ。
 志保に掴まれたままで動けない圭以外、二人の周りから人波が退く。他の生徒たちが遠巻きに見ている中で。
 志保は俯いたまま、
「なに、考えて……」
 なにを考えてるのよ! と怒りたかったのに、
「志保のこと」
「ちが……っ」
 違う、そういうことが聞きたいんじゃない、と続けたいのに、
「志保のことだけ」
「…………っ」
「ねえ、昨夜はオレの夢、見た?」
 怖い夢を見て、オレを呼んだ? オレが、志保を助けた?
 志保は答えない。でも、反論しないのが、答えになった。
 和弘はハンカチを握り締めていた志保の手を、掴んだ。
「じゃー、昨日、覚えてろって言ったの覚えてマス?」
 かろうじて頷いた志保に、
「それじゃあ今から言うオレの言葉、覚えてて、一生覚えてて」
 囁く。
 囁くのは、これだけが志保だけに届けばいいから。他の誰にも届かなくていいから。
 だから、聞いて。
「……好きです」
 志保が……志保だけが、聞いて。
「志保が好きです。大好き。本当に好き。このまま離れたら、オレ、おかしくなっちゃうくらい好き」
 囁きは、肌を合わせたときに漏れる吐息に似ていた。他の誰のことも考えられない。今、目の前にいるあなたのことしか、感じない。想えない。
 だから、応えて。
「志保は? 志保も言って。そしたらオレ、死んでもいい。……言って」
 志保は耳まで赤くなる。でも、逃げないから。その赤くなった耳に、
「……言って」
 志保は、固まった。
 好き、だと。
 ……好き、だけれど。
 好きで、好きがいっぱいで、いっぱいになりすぎて言えないくらい好きなのだと……そんなふうに自覚してしまった好き、なんて、言えない。
 やだ、今更、言えない。
 でも、じゃあ、なんて返事をすればいい?
 考えているうちに、和弘が取り押さえられた。体躯のいい体育教師に捕まえられて自分の席に戻される。暴れてもさすがに適わなくて声だけ、喚いた。
「志保!」
 望んだ返事を、ちょうだい。
 志保も駆け寄ってきた女性教師に手を貸してもらって立ち上がる。圭に、志保、と呼ばれて。
 志保はそれまで硬く閉じていた口を、開いた。そのとき全校生徒が波を打ったように静かになったのは、気のせいだったのか。気のせいだったなら、どうして、和弘の囁きにも負けない囁きが和弘まできちんと、聞こえたのだろう。
「……死……なれちゃうと困るから、言えない……」
「ええええ!?」
 もういっぱいいっぱいだったために、志保の言葉の意図を読み取れずにそのまま受け取った和弘は、不平と不満をいっぱいに詰め込んだ返事をするばかりで。和弘の友人たちは、ざまをみろ、と口々にはやし立てた。一方で女生徒たちは、志保の上出来な告白に黄色い悲鳴を上げた。


「あらまあ、華々しいこと」
 志保たちよりもいくらか列の前の方にいた真木子は呆れた口調で吐息した。……が、顔は笑っている。
「……嬉しそうですね」
 恨めしげな顔を出してきたのは、こんな式には出ていられないと自主退場を決めた菊絵だった。
 真木子は、あらそう? と言いながらも嬉しそうな顔のまま、
「志保が素直なのが嬉しいだけよ。ええ、相手が誰でもね」
「和弘だけはダメだとか言ってたよね、確か」
 菊絵と同じく、恨めしげな面持ちでやってきた慎一には、
「あのね、ホントにそーだったなら、そもそもなーんで、二年生の藤尾君なんかを卒業旅行に連れて行ったりしなきゃいけなかったのよ。どうしても死ぬほどイヤならわざわざ連れて行かないわよ。菅沼君だってほかに友達たくさんいたでしょうに。まあ、志保が幸せならわたしはあなたが相手でもいっこうに構わなかったんだけれどね。ええ、いっこうにね。あなたには努力と根性が足りなかったんじゃないの?」
「しつこさを和弘と競ってもねえ」
 手厳しい真木子に、
「でもまあ……、無理に上手くいくより、無理してでも正直に生きたほうがいいかな、と思ってね」
 笑って見せた慎一が晴れ晴れしいのは、人柄のせいか、卒業式のせいか。
 慎一はぽんぽんと菊絵の頭を撫でながら、
「菊絵君は? 諦めついた?」
 菊絵は真木子と慎一を睨みながらも、
「この期に及んで……あのふたり見てそれでもダダこねても、どーしよーもないじゃないですかっ」
 だからもういいことにしてあげますっ。と。
「それにっ、まだとーぶんは和弘で遊べそうだから、そっちで楽しむからホントにいーですっ」
 ざまをみなさい! と和弘の男友達と同じ事を口にして和弘を見やった菊絵に、真木子と慎一も倣った。
 いまだ騒ぎの中心で、志保にその口から「好き」をもらえない和弘は泣きそうな顔をしている。
 なるほど、当分は遊べそうだ。
 三人は顔を見合わせると、ざまみろ、と肩を竦めた。
「和弘、ぜーったい、とーぶん、気が付きませんよ、アレ」
「そうね。でも、志保が志保なかぎり絶対にあの口から直球で『好き』は出ないって、気が付いたら付いたで悲しくって泣いちゃうんじゃないの?」
「泣けばいーんです。だって和弘、志保さんに目いっぱい好きって言外に言われたことに気付いてません。この期に及んでフられた、とか思ってます、ゼッタイ」
「それはまた哀れだね」
 なにが哀れって、ちっとも哀れそうに言われていない和弘が哀れなのだった。


 ところで、圭とあと数人の耳にしか届いていないくらいだったふたりのやりとりは、その後全校生徒が目と耳にすることになった。一部始終を放送部員がテレビカメラに収めていて、お昼の放送で流され、視聴率は記録的だったとかそうでなかったとか。
 そうしてその放送は卒業式後、和弘が志保の告白に気が付くまでしつこく流され続けたとか、どうとか……。


「え、マジ? うそ……ホント!?」
 もう何回目か、自分がフられるその放送を見たくもないのに見せられていた和弘は、がたん、と椅子を蹴っ飛ばして立ち上がった。
 冷静になってみて、ようやく志保の言葉の意味がわかる。
 ……今サラ……。
「ホント、ホント」
 クラスメイトにけたけたと笑われる中、こんどこそ制止する教師を振り払って学校を飛び出した。
 しばらくして、菊絵が携帯電話を取り出した。
 あのバカ、自分も携帯持ってること忘れて、もーすぐ志保先輩に逢いに行きますよ。と連絡してあげるつもりだった。


 机の上に無造作に置いておいた携帯電話が鳴り出して、志保はぼうっと眺めていた窓の外から目をそらした。
 ……そらそうと、思ったとき。その窓の外に和弘の姿が見えて。
 部屋を飛び出した。
 携帯は鳴り続けるのに志保は戻ってこなくて。
 持ち主のいない部屋で、やがてふたりの邪魔をするのがバカバカしくなったように、携帯の呼び出し音はぷちんと切れた。

〜 おわり〜