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 本鈴が鳴るまであと数分、という教室で、
「詐欺師? 冗談じゃないわよ、わたしは女優よ」
 しーん。
「そうじゃなくて……、私が知りたいのは真木子が菅沼君や和弘君になにを言ったかってことなんですけど」
「教えない」
「まーきーこー」
 言わないと泣くわよ、と志保は真木子を覗き込んだ。
「脅しじゃなくてほんとーに、泣きたいんだからね。菅沼君には振られちゃって、和弘君には諦められちゃって明日は卒業式で……っ」
「あら、藤尾君の件はせいせいしたんじゃないの?」
「してないっ」
 志保ははっきり言った。
 ……はっきり言ってから、吐息する。
「してないけど、するから」
 和弘には菊ちゃんがいることを思い出したのだ。思い出したら……そうするしかない。気持ちを押し付けたり出来ない。和弘の気持ちはもう志保から離れてしまった。
 真木子もまた吐息した。
「泣いただけよ」
「え?」
「だってあの子、気を失ってるあんたを離さなかったんだもの」
 志保が襲われたあの夜に。
「わたしたちも菅沼君も眼中にないって感じで、泣きそうな顔して志保を抱き締めてたのよ」
 真木子の目には和弘は異常に映った。休憩所で、志保に手を出す和弘を見たときからおかしいと、思っていた。
 真木子は基本的に和弘という人間を好きではなかった。なんだか馬が合わないし、積極的に友達になりたいとも思わない。それでも、泣いている女の子を無理矢理自分のものにしようとしたり、人の目も構わずに他人の彼女を抱き締めるなんて節操のない人間だとは思っていなかった。実際、たぶん、和弘はそういう人間ではない。
 じゃあなぜ志保にだけそんなに執拗になるのか。
 答えは簡単で、だから、怖かった。
 怖くて、涙が出てきたのは演技じゃない。でも、口から出した言葉は、そのために考えたセリフだった。
『……志保を、離しなさい』
 和弘は志保を離さなかった。和弘を押し退けて、真木子が志保を抱き締めた。
『あなたが、志保に、触らないで』
 みんなが、和弘が志保を好きなことを知っているけれど。
 真木子もずいぶん前から知っていたけれど。
『触らないで、と、言う意味がわかるわよね』
 和弘は真木子を睨んだけれど、真木子だって和弘を睨んだ。睨んだ瞳から涙が溢れた。
『あなたじゃ駄目。絶対に駄目。これ以上志保に関わらないで』
 そこまで言った理由を、和弘はわかっているはずだった。だから言外に告げた。なにをしても、和弘には志保の心は手に入らないから、と。
 そしてその言葉は慎一には、こう伝わる。あなたの彼女なんだから、ぼやぼやしていないでさっさとケアしなさい、と。
 ……そんなことをあの夜、真木子は言った。
 圭が後から言うには一言一句そのままで。
「……って、泣いてみただけよ。それはもうわたしの本性を知ってる圭だってそのときはうっかりすっかり騙されたくらい素晴らしい演技だったのよ。それで全部上手くいくはずだったのに、菅沼君がバラしちゃってたのね。誤算だったわ」
 その後、慎一へのフォローのために笑って見せたのがいけなかったのかもしれない。今思えば、あれで志保と和弘のことも察してしまったのだろう。
 なかなか……鋭い。
「あのね、だからそれでいったいなにが上手くいくはずだったの?」
 真木子の言い分を聞いてもさっぱりわからない志保に、
「もういいの。失敗しちゃった計画なんて話したくないわ」
 真木子はプライドを傷つけられた顔で横を向く。あとは志保がなにを尋ねても返事もしない。
 ふたりから少し離れた自分の席で志保と真木子の会話を聞いていた圭は、やっぱり真木子は詐欺師だ、と思っていた。
 実はこっそり志保と和弘の話を聞いていた。それを教室で真木子に話すと、
『なにお圭その頭、子猿みたいね』
 と失礼なことを言ってひとしきり笑った後、
『あら、じゃあわたしの計画は完璧だったのね』
 と自信満々に高笑いをしていた。
 圭は慎一と志保が別れたということを中心にお知らせしたはずなのに、いったなにのどこが完璧なのか。
『ぜんぜん完璧じゃないじゃん。菅沼クンどころかあの藤尾クンでさえ志保を諦めちゃったんだよ? 真木子のせいじゃん』
『あら、人聞きの悪いこと言わないでよ。世の中なるようにしかならないものなのよ』
『だから、どうなったら真木子は満足なのよお』
『そのうちわかるわ』
 そのうちといわれても、期限は後明日一日のなんだけど……と思ったけれど、志保ガードの任務を一度放棄してしまっていた圭は、再び度真木子に楯突く根性がまだ復活していなかった。


『目指せレギュラー。意気込みがあれば上手くなるもんだよ』
 部活動の最中、志保はいつも笑顔を絶やさなくて、それが部員の活力にもなっていた。
 和弘だって単純にも、志保にそんなことを言われてやる気になった。今思えば、新入部員と呼ばれたあの頃は若かったんだなあ、と思う。
 でも志保は……笑顔で志保が元気づけるのはもちろん和弘だけじゃない。誰にでも同じことを言って回っていた。当然のことだ。とは思っていても、それを知ったときの和弘の気持ちは、高部先輩の横にいるときの志保を見るのと同じものだった。
 嫉妬、だ。
 志保はいつも元気に笑っていた。でもあんまり元気に笑っている自分が恥ずかしいみたいに少し、はにかんでいて。それがかわいくて、欲しかった。体だけ、手に入れて。……体しか手に入れられなくて。それをあの真木子に泣くほど拒絶されて。改めて他人からそこを突っ込まれると痛いばかりで。
「泣きたいのはこっちだ、っつーの」
 心が手に入らない。だからもう諦めようと思ったのだ。
 なのに……。
 ……このまま本当に諦めてしまおうか。
 和弘は志保が去った後、階段に座り込んでこれまでの自分の経緯を反芻していた。そうしたら突然頭の天辺に衝撃が走って、そのショックで階段を二段ほどズリ落ちた。 なにが起こったのかと見上げると、復讐、だといわんばかりの顔で凶器に使用された鞄を抱えた慎一が立っていた。
「和弘、お前もう少し人目ってものを気にしたほうがいいと思うぞ。予鈴がなったって、無人てわけじゃないんだから。見てみろよ。注目、集めまくり」
「……キャプテンも見てましたね」
 志保と和弘のやり取りを。
「少しだけだけど」
 正直な慎一を、和弘は膝を抱えたままじっとりと見上げた。
「……真木子サンは詐欺師だし、キャプテンは裏切りものだし……」
「どっちが裏切り者だよ」
 慎一は呆れ果てた顔をする。和弘を恨んではない、と言えば果てしなく嘘になる。でもだからといって殴り合いをしたりするのは性にあわない。だから、しないだけで。
 和弘は返す言葉がなくて、唇を尖らせた。
「だから、志保を手放さなきゃいーじゃないですか」
「もう遅いよ」
「じゃあ……っ、真木子サンの涙なんかに騙されちゃって、素直に志保を諦めたオレの気持ちは?」
「……まあ、言いたくないけど、敢えて言うなら、ガンバレ。これ以上頑張りたくないなら、、このままきっぱり諦めとけ」
「ってキャプテンに慰められてるオレって、すごく情けなくないですか?」
「情けないのが嫌なら、あんまり問題ばっかり起こすな」
 慎一は階段から二年生の教室を眺めた。
「菊絵君が泣いてた」
「菊絵が?」
 仕方なさそうに情けなさそうに、和弘は顔を上げた。

      ◇

 予行演習を終えると三年生はすぐに下校で、一、二年生は昼食になる。
 志保は帰り支度を終えてコートに手を通そうとしていた。そんなときだった。
「佐々木先輩! ちょっといいですか」
 勢いよく教室の扉が開いたと思ったら、なにやら有無を言わせぬ様子で指名されて、思わず志保は確認を取っていた。
「私……?」
 志保を「先輩」と呼ぶからには相手は後輩なのだろうけれど、志保の後輩といえばサッカー部で男子生徒と決まっていた。なのに声を揃えて呼びにきたのは三人の女子生徒だった。
「そーです!」
 彼女達は力強く頷いた。なにか人違いをしているふうでもなくて、志保はコートと鞄を圭に預けた。
「よくわからないけど、真木子と待ってて。お昼ご飯どこかで一緒に食べよう。朝のこともっとちゃんと聞きたいから、真木子、帰らせないでね」
「ええと、真木子、今日は劇団の手続きがあるとかいってもう帰っちゃったけど」
「……そういえばそうだったっけ」
 上手く素早く逃げたな、と思っていると、
「でもあたし待ってるよ」
「ありがと、お礼にポテトおごっちゃう」
 いってらっしゃーい、と圭に見送られて教室を出た志保が連れていかれたのは、二年生の教室だった。いったいなんなのか、と覗くと、和弘に向かい合わせに座っている菊絵が、目も鼻も真赤にして泣いていた。
「……なに? どうしたの?」
 わけがわからないから菊絵には声をかけづらくて三人に聞くと、睨まれた。
「菊絵、朝からあの調子なんです」
「予行演習にも出られないし」
「菊絵が泣きっぱなしなの、佐々木先輩のせいです」
 教室の様子を伺わせてから、廊下で三人が志保に詰め寄った。
「先輩と藤尾君の仲はいったいどーなってるんですか?」
「どう……って……」
「あのふたり、もともと、上手くいってたわけじゃないんですよ」
「え?」
「しかも、今朝の佐々木先輩と藤尾君の様子見ちゃったし」
「え……」
 志保は顔を赤くした。それはもちろん、予鈴の後だったからといって誰にも見られていなかった、などとは思わないけれど。
「見て……たの?」
「はい、見てました。らぶらぶでした」
「ええ、どこが!?」
「どこがって、全部です。もともとお似合いなんだし、なんだ、やっと佐々木先輩が落ちたのか、って」
「ええ!?」
 志保は三人を見回した。いちいち予想もしていない言葉が返ってくる。もしかしてまったく会話がかみ合ってないのでは? と思えるこの状況はなんなのか。
「待って待って、私、話がよく……」
 わからないんだけど。
 確かに、落ちた、と言われれば、それは、そう、かもだけれど。
「私、和弘君には諦められちゃった、んだけど……」 口にして自分の気持ちを改めて認める。だからこそ自分で言うのは切ないせりふを何とか搾り出したのに、三人はそれを力いっぱい否定した。
「そんなわけないです!」
「せーったいないです!」
「だいたいそうだったら藤尾君が今、条件なんて持ち出して菊絵を泣かせてるのおかしいです」
「……条件?」
 三人は顔を見合わせた。
「佐々木先輩がフリーになって、藤尾君にチャンスが回ってきたら別れる、って」
「佐々木先輩、菅沼先輩と別れたんですよね?」
「え、あの……」
 三人の勢いに志保は一歩、下がった。壁があって、それ以上は無理で。
「藤尾君、今までつきあってた子にみんなそう言ってたんです。みんなもそれはそれで納得して付き合いだすんだけど、けっきょく藤尾君は佐々木先輩が好きなんだし、やっぱり自分を好きになってくれないってわかると、たいていみんな自分から別れちゃうんです」
「藤尾君はそれっくらい、佐々木先輩を好きなんです」
 ねー、と三人はまた顔を見合わせた。
「あの……和弘君が私を、その、好きって……」
「知らない人いないですよ?」
「佐々木先輩だって、知ってましたよねえ?」
「菊絵だって知ってます」
「はあ…………」
 一度にまくし立てられて整理がつかなくて志保はずるずると座り込んだ。このままずっと呆然としていたい気分なのだけれど、三人のセリフを頭の中で復唱してみて、ぎょっとして立ち上がった。
「菊ちゃんも知ってるの!?」
 慌てる志保とは反対に、三人はここに来てやけに落ち着いて、
「ばりばり知ってます。だから責任とってどうにかしてください」
「どうにかしてくれないと、あたしたち落ち着いてお弁当が食べられないんです」
 ねー、と三人は声を揃えて、
「だから菊絵を説得してください!」
 と志保は教室の中に押し込まれた。
「え、ちょっと、菊ちゃんじゃなくて和弘君じゃないの? しかも説得っていうか、お説教でしょ、人として」
「いーえ、菊絵を説得です。藤尾君に説教や説得したって、藤尾君が好きなのは先輩なんだから、なんの解決にもならないじゃないですか。だから菊絵に藤尾君を諦めさせてください」
「先輩が藤尾君のこと好きって言っちゃえばさすがに諦めますって」
「そーですよ、簡単でしょ?」
「ちょ、ちょっとちょっと……」
 出入り口を塞がれてしまって、志保は泣きたい気分になった。「志保さん!」
 泣き混じりの声に振り向けば菊絵がすぐ傍にやってきていて、いきなり菊絵は話の核心を付く。
「志保さんは和弘が好きなんですか?」
「あ……あの」
 志保は菊絵が好きだった。かわいいし、マネージャーの仕事も文句ひとつ言わずにこなしていた。いつもにこにこしているいい子だった。でも和弘と志保のことを知っていたのかと思うと複雑だ。
「わたし……志保さんは慎一先輩が好きだと思ってたから安心してて、それで志保さんのことも好きだったのにあんまりですっ。慎一先輩と別れちゃうなんて、ひどいっ」
 菊絵は高い声で喚きながら、ぼろぼろと涙を零し続ける。
 酷い、と言われて、志保は息を飲んだ。こういうセリフを言われたことは今までなかった。でも……。
 そっか、酷い、んだ。
「あのね。なんか、勘違いだよ。私、もう振られちゃったし……ていうか、なんか振られっぱなしでね。泣きたいんだけど、よく考えなくてもね、ほら、私なんて菊ちゃんいるのに、ねえ、なんだか無意味なことしちゃって、ごめんねって思ってるの。……ごめんね、そのせいでこんなに泣かせちゃって」
 志保が菊絵の立場だったら、やはり「ひどい」と、思うに違いない。
 ……馬鹿なことをした。
 和弘には菊絵がいたのに。
 本当に馬鹿なことしてる。
 志保は自分のハンカチで菊絵の涙を拭いてやった。それで少し菊絵の涙がおさまってきた……のも束の間で。
「センパイ」
 呼ばれて見向くと、和弘は悪気のない顔で、
「朝の、ナシです」
 雰囲気を読まない晴れ晴れしい笑顔に、
「へ?」
 意表を突かれて、志保は間抜けな返事をした。
「なし……って?」
「だから、朝のオレの言ったことは全部なしです。あ、でもからかってたんじゃないよ、ってとこはホント。真面目にホント」
「……なんで、そう、なるの?」
「キャプテンと別れてたなら話は別でしょ。全然別。真木子サンの涙なんてクソクラエ」
 かたんと立ち上がって、志保だけを見た。
「志保以外、全部、どうでもいい」
 どうでもいい。菊絵も、全部。
 和弘が志保を好きになったとき、志保は高部先輩とつきあっていた。片想いで良かった。そう思っていたら卒業式にあっさり別れてしまって、なんだこいつ、とか思っていたらばっさり髪を切って、ああやっぱり、なんて思って、そしたらまたキャプテンとつきあい出して、こいつ信じらんねーと思った。その信じられない志保をそれでも好きで、やけになって他の女とつきあい始めた。ついでに志保にちょっかいを出すようになって、かえって自らに追い討ちをかけた。もう自分の気持ちに手がつけられない。
 諦める? 誰が?
 今なら志保が手に入る。
 今の志保は誰のものでもない。
 そう誰のものでも……違う、朝、一瞬、自分のものだった。
 離さない。
「オレのこと好きって言ってよ」
 菊絵は大きな瞳で瞬きをした。
 志保は手にしていたハンカチを、落とした。
「和弘!?」
 喚く菊絵をうるさげに見やりながら、
「センパイが認めれば菊絵も諦めます」
 そういう約束だと、言う。
 また涙が溢れてきた菊絵の瞳に睨まれて、志保は口を閉ざした。
 クラス中の視線が気になるとか、そいういうのではなくて。
 顔を真っ赤にして、首を、横に振った。
「センパイ……今朝、オレのこと認めましたよね?」
 和弘の声をごまかすみたいに志保はハンカチを拾った。和弘は、
「セ……」
 センパイ、と呼ぶのをやめて、志保、と呼ぶ。
 志保はハンカチを拾うのに座り込んだまま、とにかく首を横に振る。
 どうしてか、それしかできない。
 それしかできなくて、いっそ逃げてしまいたくなる。
 なのに、逃がしてもらえない。
「ふざけんな」
 和弘の声が低くなって、志保は身をすくめた。でも、低い声に身をすくめたわけじゃなかった。和弘がそういう態度に出るとわかっていた。それは予想通りで、だから、びくりと肩を揺らした。
「ふざけるなよ。なんだよ。なんではっきり言えないんだよ。志保はそんなのばっかりだ。キャプテンを裏切るのがイヤだとか、菊絵を泣かすのがイヤだとかいい子のフリして、自分が欲しいものから目をそらすんだ。そっちのが楽かよ? 聞き分けのいい子のフリして、高部センパイも、キャプテンも、オレも、引き止めない。引き止められない! 引き止められないくせに、来るものは拒めなくて、期待ばっかさせて!」
「和弘!」
 さすがに、いたたまれない様子で菊絵が和弘を制した。それでも志保の味方になったわけでもなくて。
「志保さんも、はっきりしてください」
 そう、言われて。
 志保は教室を飛び出した。
 追いかけた和弘が腕を掴んだ。
「志保。……志保っ。オレだけ見て。他のことなんて考えなくていいから。キャプテンのことも、菊絵のことも!」
「そんなの、できない……」
 和弘の言った通りで、言い訳が出来ない。そんな自分をどうしていいのかわからない。
「ねえ、志保……。なにが欲しい? なにが欲しいのか言って。オレが欲しいって……」
 志保は、首を振る。頑な、というよりも、顔を真っ赤にして、恥ずかしくて、なにも言えない。
「志保!」
 いやだ、言えない。和弘に掴まれた腕が熱い。おかしな気持ちになる。叫びたいのに叫べなくて苦しい感じ。
 言いたいことはあるのに、喉の奥に詰まって出てこない。
 もう許して、と思う。
 まるで和弘に抱かれてるみたいだ。攻められて、追い詰められて、もう少しでイけるのに。そのギリギリのところで……。
「ああ、そう」
 和弘に、手を離された。
「もういい」
 明らかに怒った顔をして、とん、と志保の肩を押した。押されて、志保は一歩、下がった。和弘も下がった。ふたりの距離が開いて、
「あくまでもそーゆう気なら、覚えてろよ」
 ほんの少しもふたりの間の距離は縮まることがないまま、和弘はきびすを返した。
 志保は動けないのに、和弘はさっさと教室に戻っていった。振り向きも、せずに。

      ◇

 通い慣れたハンバーガーショップで、圭はおごってもらったポテトを、つまんではトレーに戻していた。向かいの席では志保も同じことをしている。
 圭はポテトで遊ぶのをやめると志保を覗き込んだ。
「あのさ、それはもう、つまりむちゃむちゃ藤尾クンが好き、ってことデスね?」
 志保は圭に事のいきさつを話し始めてもう何度目か、顔を赤くしながらポテトを口に突っ込んだ。
「……かも」
「って、あたしに正直になってもしょーがないじゃんか」
「だって……」
「だって?」
 圭もポテトを食べ始める。志保はホットコーヒーの紙コップを両手で持ちながら、
「……なあんで、言えないのかなあ」
 たったひとこと。相手の望んだ言葉を。
 好き、だと。好きになればなるほど。
「あ、自覚あったんだ?」
「自覚?」
「志保、好きがいっぱいになっちゃうと言葉に出来なくなるじゃん」
 志保は圭を見つめて、ぱちくりと瞬きをして、
「ええ、そーだったの!?」
「そー、高部先輩にも言えなかったじゃん」
 今さら、そんなことを言われても。
「……心の中ではいっぱい言ってました」
「知ってる。あたしや真木子はちゃんと知ってるよ」
「じゃあ通訳してよー」
「え、それはさあ、頼られてもさあ。っていうか、好きとかの言葉を超越しちゃった志保の気持ちを、これまた人間業でなく察してくれる相手を選びなさいって事なんじゃないの?」
「そんなの一生見つからなーい」
「じゃー、言葉で伝えられる相手探そうよ」
「菅沼君には言えたんだよ?」
「あー、それは、菅沼クン的には喜んでいいやら悲しんでいいやら……だねえ」
 できれば慎一本人には聞かせたくない会話だ、と思いながら圭は口の中のポテトをコーラで流し込んだ。「そんで、志保はどーすんの? 明日で最後だよ。ちゃんと言う?」
「……言えない、気がする。……その前に、さすがに愛想をつかされた、かも」
「えー、あの藤尾クンがあ?」
「だって、怒ってた」
 あんな和弘を見たことがなかった。
 それに菊絵がいる。菊絵はきっと和弘を放さない。だから、
「もう、いい」
「嘘ばあっかり」
「うん、嘘だけど……ね」
 泣きたいほど嘘、だけれど。いい加減な気持ちで「もういい」なんて言うわけじゃない。
「志保は、いい子だね」
 これもまた誉め言葉ではない圭に、泣きそうな顔で笑っただけで。
 志保はコーヒーを飲み込んだ。
「私ね、短大出たら保育士さんになるの。ずっとなりたかったの。世界が広がって、きっと、もっといろいろ悩むんだよ」
 そうして何年か経ったら、今の悩みなんて笑って話せるようになるはずだった。ここで和弘とこれきりになってしまっても、時間は変わらず未来を連れてくる。たった今、がすぐに過去になるように過去になって、どうでもいい話に、なる。
「でしょ?」
 静かにそう呟くと志保は「明日卒業式が終わったらどうしようか?」という話を始め出した。
 圭は黙って志保の話を聞いていた。

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