いつも思うけれど、卒業式の予行演習ほど気が抜けるものはない。手順を事前に知っておくなんて、なんだが詐欺みたいな気がする。なんてことを思いながらうだうだと登校してきたのは圭だった。本音を言えば、休み癖がついてしまって早起きしたくなかっただけなのだけれど。
「でも、今日と明日だけって思うと、淋しいよねえ」
下駄箱で上履きに変えながら、隣にいたクラスメイトにも声をかける。
「淋しいよね、志保」
「え……?」
志保はいったい誰に声をかけられたのかわからない、という顔で、
「……もしかして圭?」
あまり自信がなさそうに聞き返してきた。
「もしかしなくてもあたしだよ。え、なに? なんであたしがわかんないのよお」
「わかるわけないでしょ。どうしたのよその髪は」
「切ったの」
「切ったの、って……」
志保は驚いたままの顔で髪の毛をつまんだ。天辺の髪が三センチくらいしかない。すばらしいべリーショートになっている。
「志保が切ればって言ったんじゃん」
「言ったけど……」
「本当はね、志保みたいにショートボブにしよーと思ったの。でもそれじゃおそろいになっちゃうから」
「なにもここまで……」
「ええ!? かわいくない!?」
「あ、かわいい。そう聞かれれば絶対かわいいよ」
おさるみたいで、なんて言葉は飲み込んだ志保に圭はは気が付かない。
「あのね、シャンプーが楽なんだよ。でもさ、美容院のお姉さんたら、卒業式があるから切ってくださいって言ったら、四月からは高校生ですか? って言うの。失礼だよねえ」
志保は、そのお姉さんに賛成、とも言えず、
「……そうだね」
「だよねえ、まったくだよねえ」
むーん、と思い出して不機嫌になりかけた圭は、目の前をすたすたと通っていった教師に目を輝かせた。
「ああ! てっちゃん先生、ねえ、てっちゃんってば、おはよう!」
志保などでは決して「てっちゃん」などと気軽に呼べない堅物の学年主任を捕まえて明るく挨拶する。圭にかかれば校長だって「アキオちゃん」だ。
実はまだ40歳にもなっていないのだけれど40には見える「てっちゃん」は、圭の甲高い声にうんざりした様子で振り向いて、圭の頭にぎょっとして、それでもなんとか平静を保ってぽそりと低い声で挨拶を返す。
てっちゃん先生と目が合って、志保もおずおずと挨拶した。その志保の横を、
「佐々木先輩、おっはようございまーす」
サッカー部の後輩集団が元気よく通り過ぎていく。
圭は慌てて志保に駆け戻った。部員と志保の間に入ってあからさまに部員から志保をガードする。
「圭? なにやってんの?」
「え、だって真木子命令が出てるんだもん」
「真木子命令?」
「そー。志保に藤尾クンは絶対ダメ命令」
運良く集団の中に和弘の姿は見えなくて圭は警戒を解く。
志保は頭痛を表現するため、こめかみを押さえた。
「その真木子命令に従って、圭も嘘、ついてたの?」
「え? なんのウソ?」
「私のこと助けてくれたの、本当は和弘君なんでしょ」
「あああああ、バレてる、なんで!?」
「……菅沼君に聞いたの」
志保はまだ圭にも真木子にも、慎一との事を話していなかった。
「ええ!? なんで菅沼クンが!? じゃなくて、あ、今のナシ! ぜんぜんナシ! 真木子には内緒。志保を助けたのは菅沼クン! 決定!!」
「……決定って……」
「ねえねえ、志保、そんなことより明日は卒業式なんだよ。この階段登ったりするのもあと数回なんだよ、しみじみとよく踏みしめなくっちゃだよ」
志保の気をそらす気満々で取ってつけたように言った圭は、
「あ!!」
進行方向に見つけた人物にあげた声を慌てて塞いだ。
志保は圭の声につられて階段を見上げる。
「おはようございます。お圭さん。センパイ」
踊場に和弘が立っていた。
志保はほんの少し言葉に詰まってから、おはよう、と返した。
ところが、圭は返せない。
真木子に言われていたのでガードはしてみるのだけれど、なにか納得いかない。
なぜだろう、と考える。和弘を見て、わかった。
顔が、笑ってない。いつもみたいに人当たりよく笑っていない。そこに立っているのもギリギリな感じで、本当は立っていたくなんかなかったのに、それでも志保を、待っていたようで。
えーと、と考える。確か、志保の襲われたあの夜、
『真木子って藤尾クン嫌いだよねえ』
『嫌いじゃないわよ。気に入らないだけよ』
『……一緒じゃん』
和弘が志保を好きなことなんて、圭だって知っていた。和弘には彼女がいるし、不実だなとは思うけれど。
『でも好きならしょうがないし』
『お圭……あんたねえ』
圭は志保と和弘の関係を知らない。それでも。
『藤尾クンが志保にちょっかい出すのはさあ、藤尾クンの勝手で、その藤尾クンを相手にしないのは志保の勝手じゃないの? 志保は菅沼クンとらぶらぶなんだし。みんな自分の好きなようにやってるだけじゃん』
『そうよ、だからわたしもわたしの好きなようにわたしの言い分を通そうと思ってるだけよ』
『……うわあ』
それはそれでそういう真木子も好きなんだけど、と思った自分を圭はなかなか気に入っている。『でもまあ正直言うとさあ、あたしさあ、志保と高部先輩が上手くいかないなんて思ったことなかったんだよ。でも上手くいかなかったよね? だからまあ、なにがあるかわかんないし……うん、あたし、レンアイって、よくわかんないんだよ、ホントはね』
……よく、わからない。
ので。
『わからないならわからないでいいから、とにかく、志保と藤尾君を一緒にしないで。決して藤尾君にチャンスを与えないでちょーだい!』
とか、すごい迫力で言いつけられて、思わずうっかり「はーい」なんて返事もしたのだけれど。真木子の鬼の形相を思い出すと冷や汗なんかも出てきたりするのだけれど。
志保のことは志保が決めるべきだし。
圭は志保のガードを解いて荷物を抱き締めた。
「あああああたし先に行かさせていただいちゃおっかなと」
階段の続きを逃げるように上った。
なにから逃げてるの? と親切な誰かが聞いてくれたなら「真木子だよ」と答える予定だった。
きっと何人かは間違いなく同情的に納得してくれるはずだった。
「え、ちょっと、圭!?」
髪型だけでなく動きもサル並に素早かった圭に置いていかれた志保は、ひとりにしないで、と心の中で呟いた。そんな背に、
「制服姿のセンパイも、もう見収めなんですね」
和弘の声がかかって、振り向いた。
風邪をひいたのではないかと気にかけていた和弘は、やはり風邪なんてひいていなくて。旅行の最終日に志保に声をかけなかった和弘は、やはり、本当は今日も声なんかかけたくなかった、という顔していた。
じゃあ、どうして呼び止めたの?
振り向きたくなんかなかったのに、それでも振り向いた……という志保の表情を、和弘は見抜いて笑った。でも、いつものように、小さく含んでからかうように、ではなくて。
「そんなに警戒しないでさ」
さっき元気よく志保に挨拶して行った、その他のサッカー部員のように。ただの、後輩のように。
それでも、志保を「志保」と呼ぶ声で。
「ちょっとだけ、一緒にいてよ」
そうだなあ、と和弘は自分の腕時計を眺めてから、
「あと三分だけ。予鈴が鳴るまで」
お願い。とお願いされて。
「……私と一緒なんて、いやだって顔、してるのに?」
「ああ、それはそう。いやだだから」
和弘ははっきり言った。志保は階段の続きに足をかける。
「センパイ」
センパイと呼ぶのは、ここが学校だからだろうか。
「行かないで。ここにいて」
「いや」
「……本当に、お願いだから、三分だけ我慢して」
和弘は踊場の壁にもたれて、
「もう少し時間があったら、我慢なんかさせないでオレの腕の中で気持ちよくイかせてあげるんだけどさ」
「なに言って……っ」
「だよね、だから、そんな時間ないから、我慢してオレに見られてて」
見られてて、と言われて。
足を止めた志保の脇を他の生徒たちが通り過ぎていく。
和弘は、志保を見ている。瞬きも惜しむように、見ているから。
志保は和弘の視線を意識した。……意識してる自分に気が付いて顔が熱くなった。
「ねえ……」
まだ三分経たないのだろうか。
「まだだよ」
顔を背けた志保に、
「まだだよ」
予鈴はまだ鳴らない。
まだ、だけれど。
いやだ、我慢できない。
志保はその場に座り込んだ。和弘も座り込んできたから、志保は他の誰にも聞こえないように言った。
「……見ないでっ」
「うん……もう、見ないから」
おもしろくなさそうによっこらしょと立ち上がった和弘は、顔を上げた志保に、
「二度と見ない。志保にはもう、二度と触らない」
志保を見下ろして、
「嘘じゃないよ」
まるで嘘などついていない顔で念を押した。
「でもあと三分……あと一分だけ。それでほんとに、やめるから」
志保はぽかんと和弘を見上げた。
今、なんて言った?
まるで。ゲームでもしていたみたいに、簡単に、なんて、言った?
あと、一分だと……。
なんだ……。
「なあんだ」
志保はなんだかおかしくて笑い出した。
「やっぱり」
やっぱり、そうだったのだ。
やっぱり、と思って、ほっとして、気が抜けて、笑うしかなかった。
「そうだよね、いつだって、からかわれてたって、知ってたのにね」
知っていた。
「なのに、私、うっかり……」
うっかり、なにを考えた?
あの日から毎日……。
毎日あの夢を見る。
毎日誰かに助けを求める。
毎日誰かが助けてくれる。
もう慎一は来てくれない。
だから、慎一の名前は、呼べない。
じゃあ、誰を呼んでいた?
……誰を?
「志保」
和弘の低い声に予鈴が重なった。廊下に出ていた生徒たちはばたばたと教室に駆け込んでいく。
志保も鞄を拾って立ち上がる。その前に、和弘が立った。
「どいて、予鈴、鳴ったよ」
「からかってない」
階段の一段上に立った和弘の真剣な眼差しにひるんだのを、気付かれないように、
「……どいて」
「からかってない!」
和弘の言葉を志保は聞き入れない。聞き入れたりしないように志保は鞄を抱き締める。
「志保だけは、オレがからかってなかったことを、知ってる」
「知らない!」
和弘を避けて階段を上った。その背中に、もうとっくに予鈴は鳴り終わったのにかかる声。
「志保!」
和弘の声。
……声……。
志保は立ち止まる。
誰もいなくなった階段の踊り場に立つ和弘に、
「私を助けてくれたのは、和弘君だよね?」
確認していた。
いったいなんのための確認だったのか。
「……違う」
そんなふうに辛そうに、和弘は、いったいなんのための嘘をつくのか。
「ほら、そういう嘘で、私をからかってる。楽しい? 楽しいんだよね? 楽しんでただけなんだよね!? なのに私、うっかり……!」
思わず口から出た言葉を志保は塞いだ。和弘は心の底から眉をひそめた。
「なに? なにがうっかり?」
「いやだ、絶対、認めない」
「認めないって、なにを……」
覗き込まれて、志保は赤いままの顔を背けた。
「志保?」
顔が赤いままのはなぜ? なにが辛いの?
なにを認めないの?
「…………」
志保が、何かを口にした。聞こえない。なに? と和弘が耳を寄せる。和弘から逃げると思われた志保は、逃げないまま。
「……裏切りたくなかったの。好きだったの。本当だよ」
「誰を……」
「菅沼君が、好きだった」
「……ああ、そう」
そりゃそーでしょう。と和弘はつまらないことを聞いた顔をした。まだ志保と真一のことを知らない和弘は、志保の「好き」を疑わない。
「……だから、和弘君なんて、認めたくなかった」
疑わない志保の言葉に、
「……………………は?」
「でも呼んでるんだよ」
「あの、なにを?」
「和弘君を!」
真っ直ぐに和弘を見た志保はますます顔を赤くした。恥ずかしいのか、悲しいのか、情けないのか、わからない。
夢の中で、誰に助けを求めた? 誰を呼んだ?
知らない!
でも、
明日の夢では和弘を呼ぶ。
きっと、呼ぶ。
今、認めた。
もうやめる。もう諦める。そう言われた途端に。
それが悲しいのに気が付いた。
だって、目の前にいるから。手の届かない夢の中ではないから。
なのに、もうやめる、なんて言うから。
……自分をからかってるだけの和弘君を認めるのが、悔しかった。だから認めたくなかった、と認める。
和弘はからかっているのだと思い込んで、自分の気持ちに気がつかない振りをした。慎一を好きだった自分を裏切りたくなかった。
「いまでも、あの日、襲われた夢を見るの。助けてって……」
「オレを、呼んでんの?」
志保はこっくり頷いた。
それはあんまり都合がよくて、和弘の頭に血が上った。
どうしてこんなに苛立つ?
どうして志保は今、こんなことを言う!?
志保こそ、冗談を言っているのではないか?
「嘘……ばっかり」
今まで拒絶され続けていて、上手く認められない。志保の二の腕を掴んだ。どうせ志保は振りほどく。人に触れられるのがまだ気持ち悪いと。いつも、和弘を拒絶するように。
腕を掴まれて、志保は強張った。
でも、一瞬で、振りほどいたりはしなかった。
気持ち悪くなんて、ない。
志保はいつでも、和弘の体温を疎ましく感じたことなどない。
和弘は愕然とする。
「なんで振りほどかないんだよ……なんで振りほどかないんだよ!」
あのときみたいに「いやっ」とか言って思い切り嫌な顔でもしてくれれば完璧だった。完璧に志保を諦めることが和弘にはできた。自信はあった。
そのための決心をして、こうして志保の前に立ったのに。いやだったけれど、もう諦めるとやっとのことで伝えたのに!
最後には「キャプテンとお幸せに」なんてセリフまで用意していたのに!
「だって、イヤじゃないんだもん……」
和弘は志保から離れると投げやりに笑い出した。
「そっか、あれから時間も経ってるし、触っても大丈夫になったんだ? じゃあキャプテンも安心して志保を抱くことができるんだ」
もうこれで最後だった。後はない。のに、志保はいともたやすく、え、知らなかったの? と言いながら、
「菅沼君には、振られちゃった……んだけど。……和弘君にも、振られちゃった……ねえ」
泣きそうな顔で笑うから、和弘はがっくりと座り込んだ。
「オレっていったい……」
ものすごく情けなさそうに呟いた。だけれどその呟きには志保には聞こえなくて、
「和弘君?」
志保がかけた声に、気力なく伝言を頼んだだけだった。
「真木子サンに、真木子サンの詐欺師。って伝えて」