2―1




 暗闇だった。
 明かりは小さなスタンドの光だけ。役に立たない。
 男の体重がのしかかって息が苦しくなる。
 もう駄目だと諦めかけたとき、
「逃げろ、早くっ!」
 誰かが叫ぶ。
 そして、
 目が覚める。


 目が覚めるとそこは、自分の家の自分のベットの中だった。
「また……夢……」
 枕元の時計を見ると六時だった。ベルが鳴るまでにまだ三十分もあったけれど、カーテンを開いて朝日を浴びた。
 旅行から帰ってきて四日目の朝を迎えた。四回目の、夢を見た。
 あのとき……。
 誰かが、逃げろ、と叫んだ時点で志保の記憶は途切れていた。
 あの声は誰だったのだろう。
 志保には、慎一だったような気もするし、和弘だったような気もする。典明だと言われれば、典明だったかもしれない。
『ああああああのさあ、あたしバッチリ寝てたから知らない。ごめんね。でも真木子が菅沼君だって言ってたよ』
 圭は志保が目を覚ました翌朝、そんなふうに言った。
 でも、そんなことよりも、と圭は優しい顔をした。
「もう、大丈夫だよ。もう心配することないからね。志保、なんにもされてなかったから、大丈夫。大丈夫だよ。でも、あの、痛いところとかない? 大丈夫?」
 必死に覗き込んでくる圭に、
「……圭も、無事だった、んだよね?」
「うん、無事。ぜんぜん無事。うわ、志保、あたしのことまで心配してくれてたの?」
「え、一応……そりゃ、もちろん」
「ありがとー。志保大好きー」
 警察に連行されていく男の姿は見たという圭が、志保にぎゅっと抱きついた。
「きゃあっ!」
 志保は悲鳴を上げて圭を突き放した。
「志保? どしたの?」
 近寄る圭から、また、逃げる。
 逃げられた圭は、真木子と顔を合わせた。部屋にいるのは真木子と圭だけだ。女の子が寝ているのだから、と慎一や和弘は部屋に入れてもらっていない。
「志保?」
 顔を寄せてきた真木子からも、逃げる。 志保は鳥肌だらけになって、とにかく誰かが触ろうとするのを嫌がった。
「あの……やだ、触らない、で」
 触られると、あの感触を、思い出した。あの男の感触……。
 思い出すまいとすれば余計に思い出して、震えた。
 その震えの意味を、真木子も圭もきちんと理解している。
 真木子は、触らないから、と両手を上げて見せながら、
「ねえ志保、もう帰ろうか、っていうことでわたしたちの話はまとまってるんだけど」
 志保がここまで他人を恐がることまでは予想していなかった。
「帰れそう? バスとか電車とか、人ごみ、大丈夫? なんなら典明に車出してもらうわよ。それも嫌なら、ご両親に連絡して来てもらおうか?」
 志保は震える手で、眞木子の袖口を掴んだ。
「家には、連絡しなくていい。変な心配、させたくないし、されるのも、やだし」
「でもね……」
「真木子たちが、一緒にいてよ。大丈夫、なにもされてないんでしょ? だったら、そのうち忘れるから。こんなの、きっと今だけだから」
 震えるのも、人肌が恐いのも。
「今日の予定、ロープウェイとか楽しみにしてたの。行こうよ」
 志保はそう言って笑ったけれど。
 んじゃあ気を取り直して朝風呂へ行こう、といった圭の誘いは断った。朝のうちは圭や真木子の前で着替えをすることすらためらったのだ。
 誰かに肌を見せたくない。見られたくない。
 それでも、
「佐々木?」
 心配そうにしながら現れた慎一を見たら、なんだかほっとした。
「センパイ?」
 和弘も、慎一と同じ表情をしていたのに、志保はあからさまに避けた。傍に来ると逃げて、慎一の影に隠れた。
「がーん」
 この世の終わりみたいに打ちひしがれて見せた和弘には、とりあえず、みんなと一緒になって笑うことはできた。 笑えてるから、ありがとう、と思った。
 助けてくれたのは慎一だと圭が言った。うん、慎一の傍は安心できる。
「佐々木、平気?」
 楽しみにしていた雪山のロープウェイは、一般の客も少なくはなかったけれど、とにかくスキー客でにぎわっていた。列を作って並び、定員いっぱいまで詰め込まれる。
「うん、けっこー平気だよ」
 志保は慎一に庇われて乗り込みながら、
「菅沼君がいれば、なんか、なんでも平気な気がする」
「そう?」
「うん、ヒーローでしょ」
「俺が?」
「うん」
 志保は恐る恐る、でも、確かに、慎一の胸元に頬を寄せた。
「助けてくれて、ありがとう」
 この人がいいと、思った。
 大好きだと、思った。
 そのとき慎一がどんな表情をしていたか、志保は知るはずもなかったのだけれど。


 ロープウェイや郷土館の見学など、予定していただけのスケジュールをこなし終えるころには志保はすっかりいつもの笑顔を取り戻していた。
 昼過ぎには旅館に戻り、昨夜積もった雪で雪だるまを作った。すっかり体が冷えてしまったので、お風呂行こ? という圭の誘いに、志保はほんの少し戸惑った後に頷いた。
「行こう、かな」
「やった、大丈夫そう?」
「んー、お風呂ぐらいなら」
 それでもまだ、触れることには抵抗するのだけれど。
「だけどそこで、菅沼君ならおっけー、なんてところはずいぶんゲンキンよね」
「えー、それはさあ、らぶらぶの特権なんじゃないの?」
「まあね、菅沼君も触ることすらお預けじゃ、あんまりかわいそうよね」
 せっかく志保のこと助けてあげることができたのにね。と、真木子は言葉にはしなかったけれど暗黙に付け加える。
 圭が、そんな真木子になにか言いたそうな顔をしたけれど、真木子に睨まれて口を閉ざした……のは、もしかしたら志保の気のせいかもしれない。
 昨夜の話が出るたびに、圭はなにか変な顔をする。でも、なにも言わない。なにかあるのかと、尋ねようとしてみても……尋ねても、なにもないと言うだけだ。
「ちょっと、お圭、動かないでよ、洗いにくいじゃないのよ」
 内風呂で、真木子は圭の背中を流してやりながら、
「えええ!? だって痛いんだよ。そんなごしごし洗わないでよ。って、なにそれ、なにで洗ってんの!?」
 振り向いた圭は、真木子が持っていたかめの子たわしに喚いた。
「それ、床とか洗うやつじゃないの!?」
「違うわよ、ちゃんと、これで体を洗ってください、ってかかってたのよ、ほらここに」
 見ればシャワーの蛇口に確かにそう書かれた札がちゃんとある。
「でもウソだよ、そんなの、皮剥けちゃうよ、ホント、痛いってば」
「あ、それ、うちのおばーちゃんが昔そういうの使って体洗ってた」
 志保が口を挟む。
「ほら見なさい、佐々木家では伝統じゃない」
「え、でも私は使ってないよ?」
「ぜんぜん伝統じゃないじゃん! そんなに言うなら真木子、洗ってあげるよ」
「ばか言わないでよ。わたしの玉の肌に傷付けるつもり?」
「あたしだって玉の肌だもーん」
「はいはい、綺麗なダイヤの肌ね」
「そうそう、最高級のダイヤの……」
「ダイヤはちょっとやそっとじゃ傷付かないから安心なさい」
「いーやー、いーたーいー!!」
「……ちょっとふたりとも、ねえ、あの、初めての方はあまり強くこすらないでくださいって書いてあるんだけど……」
 他のお客に迷惑な騒ぎは、隣の男風呂まで筒抜けだった。
 ぽちゃん、と湯船に使っていた慎一と和弘は女風呂の方を見やりながら、
「……楽しそうですね……」
「楽しいんだろ」
「オレもキャプテンの背中流しましょーか?」
 ふたり、顔を見合わせて。
「……それは楽しくなさそうだな」
「……そうっすね」
 ほんとに楽しくなさそうだなあ、という顔をした和弘がほとんど無意識に女風呂から目をそらすのを見て、慎一はがしっと和弘の肩を掴んだ。
「でも俺がおまえをたわしでこするのは楽しそうだな」
「は?」
 男風呂にもたわしはかかっていた。
「あの、いいです。けっこーです。遠慮します」
 逃げ腰になって実際逃げ出した和弘をひっ捕まえて、慎一はたわしを構えた。今度は男風呂の叫びが女風呂に響くことになった。


「ねえねえ真木子ぉ、おススメはぁ?」
 入浴後、志保たちは旅館の売店でみやげ物を見繕っていた。圭は真木子の浴衣を引っ張りながら財布の中を覗き込む。真木子も一緒に覗き込んで、残金に見合ったものを適当に見繕ってやる。
 志保はロビーで新聞を広げている和弘を見つけた。そのまま、なんとなく辺りをきょろきょろと見回す。顔を上げた和弘はそんな志保にどこかを指差した。
 え、なに? と志保は意味がわからず小首を傾げる。和弘は肩をすくめてまた新聞に目を落とす。
 志保は抱えていた饅頭の箱を売場に戻すと和弘に寄った。
「なあに?」
 声に、見向いた和弘はそのまましばらくじっと志保を見て、言いたくなさそうに、
「キャプテンなら庭」
 言われて、志保は無意識に慎一を探していた自分に気が付いた。
 和弘の方は、そんな志保を見て、自分が余計なことを言ったことに気が付いた。舌打ちしながら、
「そう見るようにしてたから、そう見えただけ」
「なにそれ?」
 志保にはわけがわからない。なにかおかしい、というのはわかるのだけれど。それよりも。浴衣から出ている和弘の腕の赤さが気になった。どうしたの? と聞くと、和弘は相変わらずムっとしたままの顔で、
「さっき風呂でキャプテンに洗われた」
「……たわし、で?」
「そう、たわしで」
「じゃあ、あの悲鳴、やっぱり和弘君だったんだ?」
 思い出して志保が笑った。和弘も少し、笑った。
「痛いのなんのって。そのあとヒリヒリして風呂に浸かれないし。なんか恨みでも込められた感じ」
「恨み?」
 ふたりしてその言葉を口にしたら、なにか、空気が嫌な感じになった。
 なんの恨み?
 慎一が、和弘に……。
 それは……。
 和弘はそそくさと赤い腕を浴衣の中にしまった。
 慎一はなにも知らない。知っているのは和弘の気持ちだけだ。だから別に、これは恨みじゃない。
 もっとも、志保がどう勘違いしようと知ったことではなかった。
「おみやげ、見てたんじゃないの?」
「え、うん」
 そうだったね、と志保は気まずそうに回れ右した。それが慎一を気にかけて、和弘のことなど眼中にないという態度に、見えたから、
「ちょっ、志保」
 思わず、和弘は志保の二の腕を掴んでいた。一瞬だけ、目が合って、ヤバい、と思ったときには案の定、きゃっと喚かれて、振りほどかれた。
「あ……悪い……ごめ、ん」
 和弘は振りほどかれた手の行き場を探して、わざとらしく落ちた新聞を拾い上げた。
 志保は朝はまだ怯えていた。でもずいぶんいつも通りに見えるようになっていた。だから、いつも通りに接した。……まだ、ちっとも、志保はいつも通りなんかじゃないのに。
「オレの目はフシアナですかね」
 そう思ったら自嘲的に笑うしかなかった。
 いつも志保を見ている。
 和弘は、いつも志保を見ている。だから、いつもと違う志保に耐えられない。
 ……志保に手を払われた。
「あんなに、いつもは気持ちよさそうにしてるのに」
 まるでそんな話をしているわけじゃないような顔をして、
「オレの手の中にいるのに」
 手にした新聞の記事でも読んでいるように、
「今じゃ、オレが触るの、気持ちが悪いんだ? それともいつも気持ち悪かった?」
 自分で言って、自分で傷付いた。
 傷付いたのが、志保にもわかった。
 志保は和弘が手にしていた新聞だけを眺めた。
 ……気持ちが、悪い?
 和弘が……?
 違う。
 気持ちが悪かったのは……和弘の手じゃない。
 あの男だ。
 ぞくりとなにかが背中を走って、志保は自分を抱き締めた。そんな志保の異変を気遣って手を伸ばした和弘から、志保は一歩、下がった。
 気持ち悪かったのは、あの男。
 無理矢理に……っ!
 人の体温をあんなにおぞましく感じたことはない。
 当たり前だ。
 当たり前だ!
 男の手の感触に吐き気がした。
 殺してやると、思った。
「……志保?」
 でも。
 じゃあ、
 なぜ、
 いつも、
 和弘を受け入れているのか。
 和弘のキスや、髪を梳く体温や……。
 そこにあるのはいつも、罪悪感だけで。
 嫌悪を感じたことがない。
 ……ないのだ。
 だからこその罪悪感だったとでも、いうのだろうか。
 そんな、ばかな。
 ……ばかな、と、思うのに……。
「志保、オレも、気持ち悪い?」
 和弘の繰り返した問いかけに、志保は肯定も、否定もできない。
 わからない。
 瞬きも、呼吸も出来ないみたいで。返事をするどころか、志保は体が動かない。
 和弘は新聞を新聞の棚に突っ込んだ。
 志保の無言を、肯定だと受け取った。
「……だよな。志保助けたのはキャプテンだし。オレじゃないし」
 新聞を突っ込んだのと同じ勢いで、同じように、ムキになったままで。
「志保にはキャプテンがいるし、キャプテンには志保がいるし!」
 ムキに、なってるから。
「……どう、したの?」
 あまりこういう和弘を見たことがなくて、驚いた。
「どーしたも、こーしたも!」
 和弘は苛立たしそうに口にして、でもふと、志保が心配そうにしているのを見て、呼吸を整えるように大きく息を吐き出した。
「……どーもしてません」
「うそ」
「じゃあ、した。あった」
「なにが?」
「人生最大のショック」
 そう言った和弘は、もう、笑っていた。そうして笑って、はぐらかす。
 はぐらかしたまま、志保に、ばいばい、と手を振った。
「ほら、真木子サンたちが呼んでる」
 だからさっさとどこかへ行ってくれ、と言わんばかりの言い方だった。
 そのときから、翌日の帰途でも、和弘は志保に話しかけることはなかった。


「和弘のことが気になる?」
 慎一がそんなことを聞いてきたのは、駅でみんなと別れ、志保とふたりになったときだった。
 志保は慎一を見上げて、
「だって昨日からおかしいよね? 風邪でもひいたのかな」
 純粋に、そういう意味で心配をする志保に、慎一は少し笑った。
 暖かい笑みだった。
 志保が愛しくて、抱き締めたくて、仕方がないように。
 でも。
 片手では荷物を持ち、片手はポケットに突っ込んだまま。
「俺も、気になってるんだけどね」
「やっぱり風邪?」
「じゃなくて、一応、ライバルだしね」
 志保の足が止まった。振り向いた慎一の荷物についていたキーホルダーだけがカチンと金属音を鳴らした。
『キャプテン、知ってるよ』
 慎一は、志保と、和弘の関係を知ってる。
 志保は、そんなふうに和弘から聞かされたから。
「和弘も佐々木を好きなんだよ。知ってた?」
「それは、和弘君の冗談で……」
「まさか」
「でも! ……待って、そうじゃなくて。和弘君のことはこの際どうでもよくて……菅沼君が、一応、なんて言うのは、どうして?」
「どうして、とは?」
 慎一は意地悪な聞き方をした。わかっているくせに、志保に、言わせる。
「一応もなにも、ライバルとか、成り立たないよ? ぜんぜん、ライバルなんかじゃないでしょ?」
「佐々木は、俺のものだから?」
 志保は、返事などしない。そんな当たり前のことに返事なんかしない。 でも、慎一にとってはそれが、すべての返事になった。
 慎一は、志保と和弘の関係を、知らなかった。
 知っていたのは、和弘の想いだけだ。本当に、それだけだった。
 志保は自分のものだと思っていた。
 だから今ここで、志保は、笑っているはずだった。
『まさか、和弘君には菊ちゃんがいるじゃない』
 そんなふうに、笑うはずだった。
 なのに、今こうして笑っていないのは、こんなふうに泣きそうな顔をするのは……どうしてなのか。
 いったい誰を想って、そんな顔をするのか。
 どうして、なんて、こっちのセリフだ。
「ねえ、佐々木」
 なに? と志保は慎一を見上げる。
 慎一はにこりともしなかった。
「あの夜ね、佐々木を助けたのは俺じゃないんだよ」
 ものすごく残念ながらね、と付け加えた慎一を見上げたまま、志保は瞬きを忘れた。
「……え?」
「俺じゃないんだよ」
 その言い方が。
 じゃあ誰だったのかと問う前に、その眼差しが、和弘だと、告げた。
 慎一ではない。典明でもない。まして、真木子でも圭でもなくて。
「でも、真木子も圭も……」
 和弘でさえ、志保を助けたのは慎一だと言ったのに。
 その慎一が、違うと言う。
「和弘だから」
 そう、はっきりと言う。
「あ……そう、なんだ」
 なんだかよく分からないけれど。
「じゃあ、和弘君にお礼……」
 言わなくちゃ。
「それはだめ」
「……なんで?」
 別にそれで志保の中で、和弘の株が上がるわけでも、慎一の株が下がるわけでもない。
「あのね、伊野君が言うには、和弘だけは絶対になにがなんでもダメ、なんだって。だから俺が白状しちゃったのは内緒。伊野君、怖いし」
「……なにが、ダメ、なの?」
「……さあ?」 慎一はとぼけて肩をすくめて見せた。なにが? と本心から聞いてくる志保をかわいいと思う。同じだけ、疎ましいと思う。
「まあ、だからとにかく、佐々木を助けたのは俺、ってことになってて。それで俺はしばらくは、ばかみたいに、佐々木は俺のものなんだから、まあそれもいいか、っていう、そういう優越感に浸ってたりもしたんだけどね」
 慎一は志保から目をそらして、
「もう、限界なんだ」
 言いながらほんの少し笑ったのは、嘘を告白して楽になったからか、それとも、自嘲しただけだったのか。
「限界、って……?」
「よく考えるとね、伊野君の言い分て、つまりはさ、和弘でなければ誰でも良くて、俺じゃなくてもいいって、ことだろう?」
「なんで? なに言ってるの? 違うよ、よくなんかないよ。真木子、いったいなにを言ったの?」
 志保の伸ばした手から、慎一は一歩退いた。
 なにがそんなに慎一を意固地にさせるのか、慎一は知っていた。
 勘弁してくれ、と思った。
 そう、昨夜志保を助けたのは和弘だった。真木子と一緒に駆けてきて、慎一より一歩早く踏み込んだ。
 たったその一歩が……。
 気を失った志保を「志保」と呼んだ和弘を。
 志保の体に触れるのに慣れた手つきで、乱れた志保の浴衣を直す和弘を。
 泣きそうな顔で志保を抱き締めた和弘を。
 慎一も、真木子も、騒ぎにようやく目を覚ました圭も、見た。
 一歩早ければ、あんな和弘を見ることはなかった。そうされる志保を見ることは、なかった。
 でも……見ても、わからなかったのだ。
 慎一にはまだ、わからなかった。
 ただ和弘が志保を助けただけのように見えていた。
 ただ和弘が、和弘の好きな志保を必死で助けただけのように、見えていた。
 ああ、和弘はやはり志保が好きなんだなと、思っただけだった。
 ……あんなふうに……。
 和弘が、慎一に気が付いて、あんな表情をしなければ。
 真木子が、和弘と志保を見る慎一に、あんな表情をしなければ。
 ……気を遣って、笑いかけたりしなければ。
 何にも気が付いたりしなかった。
 志保と和弘の関係に、気が付いたり、しなかった。
 だけれど、
 気が付いたからといって、志保や和弘を特別に腹立たしく思うことはなかった。
 ……嘘じゃない。強がってるわけでもない。
 志保の……。
 強引な和弘をそうしてあしらうしか出来なかった志保のこともわかっているつもりだった。
 ……わかるから、腹立たしくはなくても、限界だった。
 自分が知らなかったのならいい。志保がなにをしていようと、なにをされていようと、志保が慎一をいいというのなら……言ってくれるのならそれでよかった。
 だけれど、知ってしまったら、志保がただ、いたたまれなくて。志保を健気だと思う自分が、いたたまれなくて。
 我慢が出来ない。
 それほど、志保を想っている。
 入学したときから、同じサッカー部で出会ったときから、ずっとずっと想ってきた。高部先輩の彼女になっても、それでもずっと、想っていた。
「佐々木と、ずっと一緒にいたかったな」
 そう口にしたのは、未練からではなかった。もう、覚悟していた。
 そんなふうに言えば、志保がきっと「そう」言うことを知っていた。
 「そう」言わせたかった。それで決心が付くはずだった。
 志保に、そう望んだ言葉をその口で言って欲しかった。
 ……ほんの少しだけ、言わないことを望みながら……。
「一緒に、いようよ」
「どうして?」
 どうして? と、慎一は聞く。そう聞かれて志保は、
「だって、私が好きなのは菅沼君だよ? 菅沼君が好きなんだよ?」
 慎一は朝までいた山奥と違ってよく晴れた空を仰いだ。
 好きだ、と。
 志保は「そう」言った。
 だから、それで諦めようと、思った。
 高部先輩と付き合っていた志保を知っている。高部先輩に振られた志保を知っている。
『俺のこと、本当に好きだったの?』
 卒業式の日、そう言った高部先輩を見ていた。
 先輩になにも応えられずにいた志保を見ていた。
 好きで好きで、だから気軽に「好き」だと言えなかった志保を、見ていた。
 言えなかった、志保を……。
「俺もね、佐々木のこと好きだったよ」
 過去型にしてしまって、慎一はそれきりなにも、言わなかった。


 その日から志保は慎一とはなんの接触もしていなかった。一度電話をしたけれど、慎一は出なかった。
 目覚し時計が鳴り出して、志保は現実に……今に、戻る。
 制服に着替えながら、もう何度目か、あのときも、夢の中でも、自分を助けに来てくれたのは誰だったのだろう、と考える。
 和弘だ。それは、わかっている。
 それでも真木子や和弘は、慎一だと言い張るのだろう。圭は嘘がつけなくて「寝てたんだよー」とごまかすのかもしれない。
 それならそれでよかった。和弘でも、慎一でも、別に志保は構わなかった。
 ただ。
 自分が、あのとき、心の中で誰の名前を呼んだのか。
 そればかりは誰に聞いてもわからなくて。
 慎一に決まってるよ。と言う自分がいる。でも、本当に慎一だった? と疑う自分がいる。
 そんなふうに、どこか、どうしてか、曖昧で。
 だからきっと慎一に愛想をつかされたのだ。
 なにかを、はっきり見据えることが出来なくて。
『俺もね、佐々木のこと好きだったよ』
 あの慎一の言葉。
 俺「も」、と言った。
 では、志保「も」?
 志保も、慎一のことが好きだった。
 過去形?
 じゃあ、今は?
 そこまで考えて、志保はひとりで顔を赤くした。
 今……。
 今、誰を思い浮かべた?
「和……」
 言いかけて、自分で自分の口を塞いだ。
 馬鹿みたいだ。
 今更、そんなこと……。
 だいたい……、そう、だいたい和弘はいつだって……。
「しーほー、朝御飯できてるわよー」
 母親がキッチンから呼んだ。
「はーい、今いく」
 返事をして、制服のリボンを結んで、自分の考えから逃げるように部屋を出た。
 部屋に残されたカレンダーの明日の日付には、赤丸が記してあった。卒業式、とある。
 今日の予定には、卒業式の予行演習日、とあった。

2―2へ