残された和弘は、
「おやすみ」
志保の背中に呟いて、それから自分を嘲るみたいに嗤い出した。抱えた膝に顔を埋めて、小さくなりながら。
……なんだかいつも、志保の背中を見ているような気がする。
初めは、こんなんじゃなかったのに。
『初めまして、マネージャーの佐々木志保です』
初めて志保に出会ったのは、和弘がサッカー部に入部したその日だった。
『佐々木先輩、マネージャーでもボール拾いとかするんですね』
練習中、新入部員たちと一緒になって動いていた志保に和弘が聞くと、
『え? ああ、そっか。キミたちが入ってくるまでは人手不足だったから、つい』
今年はたくさん入部してくれたからもういいのにね。と笑った志保の笑顔が鮮やかで、和弘は簡単に捕まった。
その頃は、いつでも、正面から志保の笑顔を見ていた。
さり気なく、それでもいつも高部先輩の隣にいた志保の髪は、まだ、長かった。
ライトアップされたままの中庭をふと見ると、雪が降り出していた。
「こういうときは熱いお茶にかぎるわよね」
声に驚いて和弘が顔を上げると、真木子が備え付けの急須とポットでお茶を入れているところだった。
特に、表情はない。故意に消しているようだった。
和弘は座り直しながら、
「今来た、わけじゃないですよね、もちろん」
どうにもタイミングを見計らった登場に、和弘も少し昔を思い出していた感傷的な表情を改めた。
「最後まで黙って見てるなんて、ずいぶん、いい趣味ですね」
志保をからかったのと同じ顔で。
「どこから見てました? 志保のアノときの声、ぞくぞくしませんでした?」
たぶん、最初から見ていたのだ。真木子もそれを否定しない。最初から、見ていた。
真木子はお茶をひと口、ゆっくり飲み込んだ。……飲み込んで、雪を眺めながら、
「わたしが志保を探しに出歩いてて、文句があるの?」
「いえ、ぜんぜん」
「わたしが志保の心配をして、なにかおかしい?」
「いいえ」
じゃあ、と真木子は正面で和弘に向いた。
「志保と、あなたに、わたしが途中で声をかけて、やめさせて、それで志保傷付かないとでも?」
真木子に、こんな関係を知られて、志保が傷付かないとでもいうのか。
今度は和弘が雪を眺めて、
「……いいえ」
真木子は湯飲みをガラステーブルの上に置いた。カツンと、かたい音が響いた。
「わたしは、傷付かせてもらったけれどね」
「オレがまだ志保に手、出してないなんて本気で思ってたんですか?」
「思ってたわよ」
「誤算でしたねえ」
「あなたが、そこまで馬鹿だと思ってなかっただけ」
「バカですか?」
「馬鹿じゃないとでも思ってるの!? これっぽっちも志保の心を手に入れてないくせに!? セックスの最中に名前すら呼んでもらえないくせに!?」
咄嗟に、和弘が自分の顔を隠した。その理由は……。
「ほら、馬鹿でしょ?」
赤くした顔は、男だからという、それだけの理由で、泣かないだけで。
「さっさと諦めなさい」
「……」
赤い顔のまま睨む和弘に、
「返事は?」
「……やだね」
「はあ!?」
「いーやーでーすー!」
ふたり、睨み合う。和弘の方が背は高いけれど、上から見下ろされても、そんなことで真木子も負けない。
「いいから、とにかくさっさと諦めなさい。あんたなんかに志保はやらないわ」
「なんでそこまで真木子サンに言われなきゃならないほど、オレの評価は低いんでしょうかね?」
「あなた、今まで付き合った子、全部思い出せる? 全部が真面目なお付き合いでしたと言える!?」
「………言えないですけどね」
ほら見なさい、と真木子はお茶を飲み干した。正直に答えたことへの評価はない。
「志保にだけ真面目です、なんて、誰が信じると思うの。わたしは信じない。だいたい、今さら志保に落ち着こうなんて虫が良過ぎるのよ。学校の中じゃ真面目だけが取り柄でしかない子なんだから、あなたなんかに引っかかったなんて思われるのは心外なのよ。あなたなんかを相手にしてくれる、見かけだけがいい子なんていくらでもいるでしょう? あなたの隣にはそれで十分よ。それで我慢しておきなさい。中身まで要求しないで」
「それは菊絵には中身がないと?」
「あら、そう取れたかしら?」
藤尾君がそう思うならそうなんでしょうね、と真木子はしれと言った。
そんなときだった。
中庭を挟んだロビーに明かりが灯った。めったに見ることのない私服姿の女将が現れて、真木子は慌てて駆け寄った。
「伯母様? どうしたの?」
「真木子ちゃんこそ、まだ起きてたの? お願いだから、早くお部屋に戻って、鍵をかけててちょうだい。ね、すぐに警備の人が確認に行くから。ああ、だめ、やっぱり、うろうろしないで。すぐに典明も来るから、一緒にいてちょうだい。いいわね」
「……警備、って……」
旅館のセキュリティは大手警備会社に一任していた。監視カメラが24時間監視をしている。なにかあれば、誰かが無断で入り込んだりすれば、その連絡とともに警備員が駆けつけることになっている。
「母さん?」
顔を見せた典明に、ほっとしながら女将は真木子と和弘を典明に預けた。
「最近泥棒が多いらしいの。お昼に警察の人に言われて警備の強化をお願いしたところだったんだけれど……」
それが幸と出た。おかげで被害がなくて済んだ、という結果を望む顔を、女将はした。
◇
志保が部屋に戻ると、圭は一番奥の部屋で気持ち良さそうに眠っていた。確か最初は一番隅の布団に寝かせたはずだったが、今は真ん中の布団で寝ている。
「相変わらず、すごい寝相……」
あっちの部屋とこっちの部屋を覗いてみるが、真木子の姿はない。
典明のところかな、と思う。
きっとそうだ。
そう思って、いいなあ、と思った自分に気が付いた。
この部屋に戻る途中、慎一の部屋の前で立ち止まった。降り出した雪を、一緒に見たかった。
でも、見られるわけがなくて。
和弘の匂いが染み付いたからだで、逢えるわけがなくて。
「……私も、寝よう」
カタン。
と、どこかで物音がして志保は部屋の中を見回した。別になにか変わった様子はない。気のせい、だろう。
真木子が戻ってきたときに悪いとは思ったけれど、志保はとりあえず全部の電気を消した。布団に入ろうとして、はっとして、暗闇の中、手探りで洗面台たどり着いた。備え付けの歯ブラシを口に突っ込んだ。
蛇口をひねって顔を上げると、そこには鏡に映った自分がいた。見慣れた、平凡な顔に見える。
鏡の中の、自分の唇に触った。
触った、けれど。はっと我に返って慌ててその手を引っ込めた。
「ばかみたい」
浴衣の襟を、合わせ直した。
「…………ばかみたい」
こんなときに、どうして思い出すのか。
……和弘を。
自分を抱く、和弘を……。
こんな自分はどこか、おかしいのかもしれない。
おかしいに、決まってる。
洗面台の前で、志保は、今度は鏡の中ではない、自分の唇に触った。
『志保』
耳の奥に和弘の声が聞こえて、耳を塞いだ。
大きく息を吸って、大きく吐き出す。
そうしないと、治まらない。
思い出した和弘の声に、どくんと跳ね上がった胸が、求めるもの。
『志保』
肌をなぞる手。無遠慮に入り込んできて、中を、かき回すモノ。ぼろぼろにするのに、漏れる声は気持ちのよさばかりを主張する。そのまま追い立てる。濡れて、もっと、奥まで入ってくる。
濡れるのは誰?
濡らすのは、誰?
『気持ちいい? もっと、入れてもいい? だめ? 嘘ばっかり。ああ、ほら、入っちゃった』
もっと、激しくしてもいい?
もっと、しがみついて。
爪、立てていいよ。
痕? 残していいよ。
その代わり、
『キス、して。志保が、して』
してよ、ねえ、イヤがんないで。
今サラじゃん。
オレのことも、気持ちよくしてよ。
こんなにヌルヌルにしてオレのこと飲み込んどいて……ねえ、もう、イキそうでしょ?
イく?
イかせて欲しい?
「……いや」
ああ、ちょっと静かにしてみて。
ほら、静かにすると、やらしー音、する。
「いや……」
イヤじゃなくて、ほら、聞こえるし。
志保の体はオレの体、好きなんだねえ。
じゃなきゃ……。
あ、もうイっちゃった?
ヨかった?
泣いちゃうくらいヨかったんだ?
んじゃ、またしよーね。
『……志保』
オレもイかせてよ。
ねえ、イかせて。
志保が好きだよ。
「違う……っ」
叫んで、志保は洗面台から離れた。暗闇の部屋の中、手探りで電話を探した。しっかり覚えておいた内線番号を押した。
コール音が、一回、二回……もう、数えるのをやめたころ、
『はい?』
寝ぼけた、慎一の声に、
「ああああああの、ご、ごめんなさい」
謝っていた。なにに?
「寝てた、よね。遅いのに、電話、しちゃって……」
『佐々木?』
そういえば、名乗ってもいなくて。
『どうかした?』
あくびと一緒の声に、
「あの、ね」
『うん?』
「雪……」
『雪? あ、ホントだ』
「一緒に……」
『見る?』
「うん」
慎一が志保を迎えに来て、それから一緒にロビーで見る約束をした。
受話器を置いたところで、
ッタンッ。
畳の擦れた音がした。
電話をしていたので気が付かなかったけれど、真木子が戻ってきたのだろうか。と、目を凝らしてみても辺りが真っ暗なのは変わりない。
「……真木子でしょ?」
だったら遠慮してないで電気を付ければいいのに、と思いながら。
コンッ。
今度は、なにか襖にあたったような音。
「なにやってるの?」
手探りで、確かその辺りにあったはずのスタンドを探した。カチャリと最初に押したのはOFFのスイッチだった。
「……あれ?」
間違えた。その隣のスイッチを押す。ちかちかっと光ってから明かりがついた。その明かりを確認してから真木子の姿を探す。
「おか……」
おかえり、と言うつもりだった。
言うつもりの言葉が途切れたのは、
「きゃっ……」
なにか強い力で髪を掴み上げられた。そのまま畳に押し付けられる。
微かな明かりで見えたのは、自分を押さえつけている人物の、微かな明かりが照らし出した影だけだった。
感触で、大きなごつごつした手だとわかった。真木子でなければ、もちろん慎一や和弘でも典明でもない。
「……だ、れ?」
言ってみたところで返事はない。返ってくるとも思わなかったけれど。
やだ、うそ……。
これは明らかに非常事態だ。危ない。体格も力も違いすぎる。適わない。
圭……!
志保は声には出さずに圭を気遣った。襖を隔てた向こう側の部屋に圭が寝ている。スタンドの明かりはそこまで届かない。
起きないでね。お願いだよ。
心の中で祈った。
たぶん、まだ圭には気付いていない。気付いているかもしれないけれど、目を覚まして騒いだりしなければ手は出さないかもしれない。ただのもの取りかなにかの類なら、の話だけれど。
「静かにしてろ」
低い声が志保に命じた。声だけなら、かなり年配の人物のようだった。
さきほどからの物音もこの人物のせいだったのだ、と思うとぞっとした。広くて隠れる場所のありすぎる部屋も問題だ。
「痛っ……」
頭を押さえつけている手に力が込もった。絡んだ髪が引っ張られる。手と足はいくらか自由で、抵抗できないこともなかったけれど、そんなことをしたら圭が起きてしまう。それに自分の安全も確実に保障されなくなる。
「この部屋に泊まってるのはお前達だけか?」
志保が首だけで頷く。男が舌打ちしたのがわかった。その気持ちが志保にもわからないではない。このメンバーでは、どう見ても金目のものは期待できない。たとえ期待されても、持っていないものは持っていない。相手も、まさかこんな豪華な部屋に泊まっているのが女子高校生だなどとは思いもしなかったことだろう。
「……いやっ」
不意に男の取った行動に志保は声を上げた。圭を起こしてはまずいと、思いやる余裕がなかった。
取るものがないからと手段を変えたのか、相手の手が志保の胸元に伸びてきたのだ。浴衣の合わせ目から冷たい手が入り込んでくる。さすがに人の心配をしている場合ではなかった。
「………んんっ」
ざらざらした手の平で、うるさいと口を塞がれた。
やだ……やだ!
気持ちが悪い。
荒れた手の感触も、伸びすぎている爪の感触も、肌から伝わってくるすべてが気持ち悪い。。
合わせ目を無理に開かれて、浴衣の帯がウエストに食い込んだ。
していることはさっきの和弘と変わりがないのに。
近付いてくる男の息遣いも、気配も、感触も!
なにもかもが気持ち悪い。
気持ち悪い。
吐き気がする。
おぞましい。いっそ、気を失ってしまいたい!
膝に手をかけられた。
いやだ。
恐い。
触らないで。
浴衣を捲り上げられる。
いやだ、いやだ!
助けて!!
助けて、助けて!
必死に助けを求めて、志保は誰かの名前を呼んだ。
気持ちが悪くて、恐くて、恐くて。
もう現実を見たくない。
目を閉じた。
それが精一杯の自己防衛だった。
それ以上なにもできなくて、意識をも手放そうとしたときだった。
「逃げろ、早くっ!」
襖を勢いよく開ける音がして、
誰かがそう叫んだ。
……誰か、が……。