1−2




 夜中も二時を回るというのに、非常識にも電話なんぞをかけているのは志保だった。
「大丈夫よ、ちょっと話し込んじゃって、もう寝るから、母さんも早く寝てね。おやすみ」
 薄明りのフロントの隅の公衆電話の受話器を置くと、やれやれと志保は一息ついた。母は旅行に出るたびに夕食後の電話をいいつける。今回に限って話に夢中でそれを忘れていて、もしやと思って電話してみたら案の定まだ起きていた。
 チャリチャリンと戻ってきたおつりを取る。例えどんなにいい旅館でも山奥で携帯電話が通じないのは勘弁してよ、今どきテレホンカードなんて持ってないし、と思いながら志保は急ぎ足で部屋へ戻る。暗くて不気味だ……いや、真っ暗なのはかえって怖くない。怖いのは暗闇をぼんやりと照らしているいくつかの照明だ。明るいなら明るい、暗いなら暗い、どちらかにしてほしい。夜寝るときだって、あの豆電球はどうもいけない、真っ暗なら見えないはずのものが、明るければはっきり確認できるはずのものが、あやふやに見えてしまいそうだ。なにがって、例えば……。
 角を曲がろうとして、志保は足を止めた。
 ぼうっ。と白いものがこっちにやってくる。
 ……おばけ!?
 つまりこれだ。
 嫌いなのだ嫌いなのだ嫌いなのだっ。そんなものはいないと思ってはいるけれど、怖いものは怖い。しかも、
「志保……」
 とか呼ばれちゃって、ポンと肩を叩かれてしまっては悲鳴の一つも上げたくなるわけで。
「しーしー、静かに」
 実体のないお化けだったら、大きな手の平で口を塞がれても、かいなく大声を眠りに着いた旅館中に轟かせるところだった。
「……センパイってこーゆう薄暗いとこ、ホントに怖いんですねえ」
 正体見たり枯れ尾花。じゃなくて藤尾和弘。


「オレ、枕が変わると寝れないんですよ」
 なんだか真実味のないことを言いながら、和弘はどっかと手近なソファに腰を下ろした。場所を変えた二十四時間営業の内風呂場の前にある休憩室には、明かりは光々と灯っている。
「センパイはなにしてたんです?」
「家に、電話」
「あー、センパイはよい子ですね」
 決して誉めているわけではない和弘に、志保は口を閉ざした。その志保の頑なな態度がおかしくて、
「そのよい子が、オレなんかについて来ちゃったりしていいんですか?」
 志保が口を閉ざしたままなのがますますおかしい。
「そんなに怖いんだ?」
 志保が薄明かりの暗闇を怖がるのを、毎年合宿に参加しているサッカー部員は知っていた。
「まだ、オレのほうが怖くないってことですか?」
 それは光栄だなあ、などと言いながら、
「でも、ねえ、志保?」
 志保、と和弘は呼ぶ。志保は返事をしないから、
「志保」
「……なあに」
「んー、志保とふたりなんてバレたら、また真木子サンに嫌味言われちゃうかなあ、と思って」
「嫌味……? 真木子が?」
「そーです。センパイ」
 「センパイ」だなんてわざとらしく呼んでくる。志保はとっくの昔に、こんな和弘には慣れていた。別に、慣れたくて慣れたわけではないけれど……。
「でもオレ、志保がいれば真木子さんなんて恐くないけど」
 とっくの昔から、いつも、和弘はこんなふうで。
「だから、オレの傍にいてよ」
 いつも、いつも……。
「ねえ、和弘君」
「はい?」
「……もう、やめよう?」
「イヤ」
「……私は、和弘君の冗談につきあえるほど柔軟な人間じゃないよ」
「冗談? 誰が? オレが? 志保が真面目なのはわかってるけど、オレだっていつも大真面目ですよ」
 あまり真面目とはいいがたい表情で和弘は、和弘から少し離れて座った志保の隣に場所を移す。志保はすぐ傍の和弘に、
「こんなことして、楽しい?」
「そりゃ楽しいでしょ。二人きりになると、志保、こんなに痛そうな顔してるのに、みんなといるときは真木子サンに置物投げつけられたオレのこと真剣に心配してくれちゃったりするんだから」
 和弘は志保の顔を覗き込んでにっこり笑う。
「そんな志保センパイが大好きです」
 その表情は、告白するためのものとは思えない。くすくすと笑いながら、悲しそうにする志保をいたぶるみたいに。
 志保は和弘から顔を背ける。
 こんな和弘は知らないのに、こんな和弘しか知らないような気もする。
 いつから? もう覚えてないけれど、たぶん、一年前に高部先輩と別れた頃から。たぶん、慎一とつきあい始めたときから。
「大好き、なんて、何人の女の子に言ったの?」
「志保だけ」
「……その台詞も、何人に言ったの」
「志保だけ」
「……じゃあ……」
 言いかけて、志保は目を伏せた。和弘の体温が近づいてくる。
「何人にキスしたの……?」
 答えはない。代わりに、すぐ傍から和弘の吐息が聞こえて、その唇で、キスをされた。
「目ぐらい閉じれば?」
「……和弘君もね」
 こんなことをされて、なぜ自分が黙っているのか志保にはわからない。 ただ、
 どこかで悲鳴が聞こえるような気がするから。こんなことをされていても、痛いのは自分じゃない。いつでも痛みを訴えているのは、和弘のほうなのだ。
「……菊ちゃんじゃ、和弘君の痛みを柔らげてあげることはできないの?」
「なんの話?」
 気持ち良さそうに志保の髪を梳きながら、とぼけた顔で和弘は知らない振りをする。その手を、志保の来ていた丹前の紐を解くと浴衣の胸元へ差し込んだ。もう片方の手を裾にかける。
「浴衣って、ヤりやすそうだよね」
 裾から入った手が、そのまま素の太ももをなぞった。
 志保は和弘の右手も左手も押しのけた。慌てて、というわけではなくて、静かに、慣れたように。
「……だめ。やめて」
「なんで?」
「……なんでって……」
「最近は、キスだけで終わったことなんてないじゃん」
 そう、だけど。
 でも。
「菅沼君、同じ場所にいるのにっ……」
 いつここに現れてもおかしくない。
「ドキドキする? でもオレも同じ場所にいるんだよね」
 生憎だったねえ、と付け足して。
「それに、キャプテンはいつだって同じ場所にいるじゃん?」
 志保の耳元に声を寄せて、
「いっつもは学校なんだからさあ。部室でも、トイレでも、用具室でも……」
「……和……っ」
「……体育館の裏でも、教室でも」
 あとはどこでヤったっけ? と言いながら、浴衣の上から胸を掴んだ。
「……っ」
「下着、着けてないんだ?」
 さっき、寝ようと思って外した。それから家に電話をしていなかったことを思い出した。
「別に、……和弘君のためじゃ……」
「ヤっていいよって言ってるようなモンだよね」
「言って……ないっ」
 志保は自分の胸に触れる和弘の手を掴んだ。和弘はしぶしぶ手を離し、かと思うと浴衣の合わせ目を無理矢理開いて、今度は直に胸を掴んだ。
「やっ……だ……」
 脇からゆっくり、ふくらみをなぞる。親指がふくらみを押す。見えてないのに、志保には和弘の指の動きがわかった。
 志保はぎゅっと目を閉じる。
 和弘は、笑う。
「どうぞ。抵抗してください?」
 志保は奥歯を噛み締めた。
 ……してる。抵抗ならしてる。ずっと。
 でも、出来てない。いったいそんな力がどこにあるのか。ひざの上におかれた手だけで、押さえつけられて、動けない。押しのけようとする両手は、まるで相手にされない。
 いつも……いつも。
 俯いてるのに、口接けされて、仰向かされて、どんなに抵抗しても、どうしてか舌が入り込んでくる。
「ん……」
 混じった唾液が、溢れて、流れていくのを和弘は舌で掬い取る。
 濡れた舌が、露にされた胸の、親指がなぞった場所を同じようにたどる。
「…………っ」
 せめてもの抵抗に、掴んだ和弘の首元に爪を立てるけれど。仕返しに肌を強く吸われて志保は身を退いた。退いても、ソファの背もたれ以上には逃げられなくて、和弘は簡単に追ってくる。
「ここまでやっといて……。おとなしくヤらせてくれないと、跡、残しちゃいますよ? それヤバいでしょ? もう一晩、真木子サンたちと一緒に風呂、入るんだよねえ?」
 こんな胸元に出来た痣の言い訳をどうするのか。
「お返しに、オレにも痣、つけます?」
 おかしそうに、ただ、笑う。
「そしたら、キャプテンに自慢しちゃおーっと」
 志保はまだ、抵抗を見せて和弘の腕を掴んだ。でも、どうにもならなくて、泣いた。声も上げずに、涙だけ、流すから。
「ああ、それ、ダメ。オレにはぜんぜん逆効果」
 泣いても、やめない。……泣くから、やめない。
 やめられない。
 和弘はごそごそと、丹前の袖口から取り出したものを志保の手の中に押し込んだ。それを握らせたまま、自分へと、導いて、
「着けて」
 もうとっくに硬くなっているソコに。
「着けてくれないと、そのまま入れちゃうけどいいの?」
 志保の手の中にあるのはコンドーム。
 男と女がする、その行為の生々しさ。
 その先にある快楽を、志保は、知らないわけじゃない。和弘が初めてじゃなかった。慎一とも、高部……先輩とも、した。
 ……高部先輩……。
 初めては、大好きな人と、だった。
 先輩は優しくて、優しくて、優しくて、先輩が志保を感じると言ったように、志保も先輩を感じた。
 心と、体を繋ぐことがこんなに気持ちいいことだと知った。そのときに自分があげる声を知ってる。欲しくて欲しくて、なのにじらされて、正気なら絶対に言わないようなことを言う自分も知っている。
『先輩……。先輩……っ』
 繋いでいた手の温もりも、その手を握り返してくる強さも、握り返した、愛おしさも。
『……きて』
『どこに?』
 わざと、聞き返したから、
『や、だ……意地悪……』
 もう、しびれてる体の芯に、触れて欲しくて。
『……先、輩』
 泣いて、頼んだら、やっと腰を引き寄せてくれた先輩の手。その向こうにいつも見てた優しい顔。
『んっ……あ、あ……あっ!』
 芯へと、深く入り込んできた先輩を、志保も抱き締めた。
『ぁっ……んっ。……んっ!』
 のけぞった首にキスされた。そのタイミングでより深くに挿入されて、志保は悲鳴を上げた。
 その悲鳴。
 絶頂のときにあげる自分の悲鳴を、志保は知っている。
 そのときに、先輩がいつも自分を呼んでいたのを、覚えている。
『……志保……っ』
 ……と。
 思い出すのは、先輩の声。
 でも。
「志保!」
 すぐ間近で、今、聞こえるのは、和弘の声。
「なにひとりでどっかイっちゃってんの? 早く着けて。早くヤらせてよ」
 和弘から渡されたものを握り締めていただけの志保は、和弘にはなにも応えず、また、涙だけを流した。
 和弘はその涙を、舐める。
「……ヤらせて。志保を、抱かせて……」
 体を求める吐息に、志保は手にしていたものの封を切った。
 和弘に抱かれる。
 一度目と二度目は違った。ぜんぜん、違った。その行為の意味の受け取り方も、感じ方も……感じたりなんかしなかった。一度目は、ぼろぼろにされただけだった。
 なにも感じなかった。無理矢理、だった。
 今も、無理矢理だけれど。
 二度目以降は、違った。
 二度目も三度目も四度目も……。
 体は、もう、その行為が本来苦痛ばかりをもたらすものではないと知っていたから。
 苦痛ばかりを感じるのは辛くて。
『……んんっ』
 何度目だったか、入り込んできた和弘に漏らした声に……からだが、落ちた。
『志保も、女なんだねえ』
 あのときの、嬉々とした和弘の声。
「……志保」
 いつでも、志保を求める、和弘の、声。
 それは、ここに志保しかいないから、なのだろうか。
 本当は誰でもよくて……こんなふうに、都合のいいときに都合よく抱かせてくれる女なら誰でもよくて、今はたまたまそれが志保なだけなのだろうか。
 和弘は志保を抱き上げた。小さい子を高い高いするみたいに抱き上げて、抱き寄せる。
 志保の胸元に、和弘の唇。
 少し、志保の体が落ちて。
 志保の鎖骨に、和弘の唇。
 また少し、落ちて。
 首筋に、唇。
「……ぁ」
 志保は、和弘の肩にしがみつく。
 そんなことをしても、少しずつ落ちていく体は、そのまま、志保を待つ和弘の上へと落ちていく。
「もっと、足、開いて」
「……い、や」
「そんなこと言っても、もう、入ってるじゃん」
 密着した体は、完全に結合するのを待つばかりで。
 落ちていく度に、志保は和弘を飲み込んでいく。今しがた、自分がはめたゴムの感触。
 それ以上に、和弘の、感触。
 狭い場所を押し分けて入り込んでくるもの。
「ん……ぁ……」
 志保は声を飲み込む。そんなことにはもう慣れた。慣れた、けれど、辛い。
 声を我慢することよりも、我慢しなければならないような人に、抱かれる事が。身を、預けることが。
「志保……」
「……っ」
「もう、少し……」
 もうすこし、力を抜いて。もう少し、落ちてきて。それで全部、入るから。
「全部、入れさせてよ」
「…………ん」
 和弘はよくこんなふうに志保を抱いた。
 和弘は立ったまま。これなら、狭い場所があればいい。より狭い場所なら、志保の背を壁に預けて、押し付けて抱いた。
 志保はいつでも、全身で和弘を受け止めさせられた。
 宙に浮いた体は、どこにも逃げることが出来ない。
「ん………んっ……っ」
 志保は自分の浴衣の袖口を噛み締めた。
 自分に入り込んでいる和弘から、波が来る。気持ちがいいと、思う。言葉では表せない。本来なら口からもれる声だけがその証になる。快楽だ。叫んでしまいたい。「いい」と。「気持ちがいいよ」と。同時に、言葉に出来ない罪悪感に犯される。犯す、罪悪感に、また、犯される。
 その波に飲み込まれる。
 このまま飲み込まれてしまえ、と思う。
 そうすれば、そうして我を忘れるほど溺れれば、こんなふうに彼のことを思い出したりしないから。
 高部、先輩……?
 違う、そうじゃなくて、今、大切な人。
 今、ちゃんと、大好きな人。
 菅沼君……。
 ごめんなさい、と謝る。
 その瞬間を、その表情を、和弘はいつも、見逃さない。
 ソファの背に、志保の背中を預けて。
 その反動で志保の中の和弘も大きく動いて、
「……あぁっ!」
 思わず大きく漏らした声を、和弘の唇が塞いだ。
 ふたりの繋がっている部分は浴衣が隠して見えない。ふたり、ソファに寄り添ってただいちゃついているだけにも、見えるけれど。
 和弘の、憎んでいるような責め立てに、
「んっ! ……あ……、や……」
 やめて。
 それ以上しないで。
「やだ……」
「やだじゃないよ」
 志保が自分の口を手で塞ごうとするのを許さない。
「……あ、あ、あ……や、だ……っ」
 聞きたくない。 志保の涙は止まらない。
 こんな自分の声は、聞きたくないのだ。
 聞かせないで。
 聞かせないで、とうわごとのように訴えた。
「聞いてなよ」
 和弘は責め立てるのをやめない。
「聞いてなよ。そしたら、自分の声が気になって、キャプテンのこと考えたりしないでしょ」
 志保の瞳から、涙が溢れた。
「菅沼……君……っ」
 口にした途端、和弘が全体重をかけてきた。
「あ……や……いやぁ……っ!」
「いやでもなんでもいいけど、黙って、抱かれててよ。喘ぐ以外の余裕なんてないくせに」
 余裕なんて、ないくせに。どうしてその名前だけ口にするのか。
 ふざけんなよ、と思う。
 一度だって……。
 ……一度だって、オレの名前、呼んだことないくせに。
 全身で感じてるくせに。その最中に、ただの一度も呼ばれたことが、なくて。
「志保……」
 和弘が感じているのは、志保だけなのに。
 志保が感じているのは、和弘だけの、はずなのに。
「……志、保っ」
 もう何度目か、抱き締めた。
 最後の悲鳴を飲み込んで、志保が絶頂を迎えたのを見て、和弘も自分を放った。
 その瞬間までがあればいいと思う。その瞬間までは、志保を自分のものだと思える。
「……あ……は……ぁ」
 大きく息を吐いて。
 志保は和弘の体を押し退けた。
 和弘はその手を掴んで。
「まだ、いたい」
 志保の、中に。
「もっと、したい」
 何度でも。
「だめ……」
 それ以上和弘が無理強いをしないことを知っていた。
 こんなことをして。
 こんなことを終えて、それでふと、我に返るからかもしれない。志保が、なぜ和弘に抱かれているのかわからないように、和弘もまた、なぜ志保を抱いているのか、その理由が見つからなくて、我に返るからかもしれない。
 志保はそう思っていた。
 我に返れば、すべてが冷める。
 あるいは、すべてが醒めるから、我に返る。
 和弘からは離れて、志保は足元に落とされていた下着を拾うと、休憩室横のトイレに入っていく。
 そんな志保を見ていると、ただ、淡々としていて。今起こったことをもう、忘れようとしているみたいで、あの絶頂を迎えた瞬間すら、もしかしなくても自分のものになどなっていないのではないかと、和弘は思う。
 和弘もトイレに入る。身を整えて出てくると、ちょうど、きっちりと身を整えて志保も出てきた。和弘と目を合わせずに部屋に戻ろうとする。なにもなかったみたいな顔をする。目だけが、泣いていたのをごまかせずに赤い。
「志保」
 呼んでも振り向かないから、和弘は追いかけてその手を掴まえた。
 志保は唇を結んだ。そうして我慢していないと、また……。
 涙が、出てくる。
「志保?」
「そうやって、呼ばないで」
「……志保、センパイ」
「うん、なあに」
 涙と一緒になって出てくる鼻をすすりながら、志保が、笑ったから。
 苛立った。
「ねえセンパイ、知ってる?」
 なにを? という顔をした志保に、
「センパイが、本当はキャプテンのことなんか好きじゃないって、みんな知ってるよ、ってことを」
 志保は和弘の手を振り払った。
「嘘つき」
「嘘つきはセンパイでしょ」
 和弘はおもしろそうに、馬鹿にするように笑い出した。
「キャプテンのことなんて好きじゃないくせに。だいたい、いったいキャプテンのどこが好きだって言うの?」
「和弘君に言ったってわからない」
 わかろうとしてくれない人に、わかるわけがない。
 志保にはもう和弘を相手にする気はなかった。でも。
「確かに……高部先輩よりキャプテンのほうが好きだって言うなら、そんなセンパイの気持ちはわからないけど」
 高部先輩の名前を出されて。
「……なにが言いたいの?」
「キャプテンがさ、オレたちのこと知らないって、思ってる?」
「え……?」
 志保は愕然と和弘を見た。胸の奥を掴み上げられたみたいに、息が、詰まった。
「キャプテン知ってるよ。オレも気が付いたのはついさっきだけど」
 正確にはたぶん「オレたち」ではない。和弘の気持ちに気が付いているだけだ。でもそんなふうに言ってみた。意地悪を、してみた。
 さあどうしようか? と追い詰めてみる。楽しかった。自分には少しも悪いところなどない顔をする。志保だけを、責める。
 そんな態度が、志保を混乱させた。
 いったい、どこまでが本当なのか。あるいは嘘なのか。志保にはわからない。もしかしたらすべて嘘で、やっぱりからかわれているだけかもしれない。そんなふうに思う。
 こうして、悪びれもせずに恋人でもない自分を抱くように。
 ……からかわれているだけなのかもしれない……。
 和弘のことは、なにもわからない。
 でも、慎一のことは?
 慎一は優しくて、今日だっていつもと変わらなかった。
 ……知っているわけがないと、思う。
 知っているなら、黙っているわけがない。
 そこまで優しい人が、いるだろうか?
 知らない。
 ……慎一は知らない。
 志保は自分に言い聞かせる。
 お願い、知らないでいて。
 それはあんまり、都合のいいお願いだけれど。
「和弘君」
「はい?」
「おやすみ、また、明日ね」
「部屋に戻っちゃうの?」
「もう、寝よう? 遅いよ」
 こんな自分も、ずいぶん都合がいい、と思うけれど。
 どこかで線を引く。和弘が「志保」と「センパイ」を使い分けるように、志保も、自分に線を引く。そうでないと、だめになる。全部が、きっと。
「オレを置いてくの?」
「うん」
「それはセンパイの嫌いな薄明りも我慢して帰れちゃうくらいの決意だったりする?」
「うん」
 強がって返事をした志保を、けれど和弘は執拗にからかいながら否定した。
「帰れないよ」
「どうして?」
「センパイはオレを置いては帰ったりできない」
 たった今情事を終えたばかりのソファの上で、膝を抱える。
「帰れないよ。オレが淋しい目で『行かないで』って言うから」
「………帰る」
 呆れた志保は「おやすみ」と言い残して休憩室を出た。

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