** 小 鳥 カ タ リ **
カラスとモズの姉弟は、
旅の途中でツムギという少女の住む村に立ち寄る。
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小鳥の鳴き声に、フードを深くかぶった姿が、明るい森の木々を見上げた。
「姉さん聞こえた? このあたりにはエナガが住むんだね」
細く細く鳴く、すずめよりも小さな鳥の姿を探す。
「僕たちが育った土地の気候と、似てるのかな?」
どう思う? と聞くと、
「そうかもしれないね」
静かな声が、ぽつり、と落ちるように返ってくる。
「きっとそうだよ」
もう一度木々を見上げているうちに数歩、置いていかれて慌てて追いかけた。長いマントの裾がひるがえる。
追いついて、歩調を合わせる。
同じ姿をしたふたりが、並んで歩く。
森を抜けて街へ出た。レンガ造りの建物の並ぶ賑やかな街だった。
ふたりは建物の影にひそりとして、しばらく街の様子をうかがった。
道路はどこも十字に整備され、石畳がきれいに敷かれている。店の軒先には華やかに装飾された鉄の看板が下がり、人々はみな清潔な格好をしていた。ひとが多く、空気が少しほこりっぽいのは、海からの風が運んでいく。
海から、ときおり強く吹いてくる風を何度かやり過ごした。
「いい街、みたいだね、姉さん」
フードは取らずに街の活気を見て取って、
「稼げそうだ」
背負った荷物を揺らした。マントの中で、かちゃり、と硬い音がした。
ふたりが同時に歩み出すと、建物の影がぐにゃりと動いたようだった。すぐ傍を行く人々が、ぎょっとして立ち止まる。土色のマントで頭から爪先まで覆ったふたりとすれ違い、その背を見送る。路の真ん中を行くふたりは、すぐに街の賑やかさにまぎれた。
◇
どの家もランプに明りを灯し終える頃、ふたりは街のはずれに建つ家の扉を叩いていた。
返事はない。
ひとりはそのまま、身動きひとつせずその場に立ったままで。
ひとりが、二階の窓を見上げた。
ひとの気配ならある。窓の奥からこちらをうかがう影がある。
「いいよ、姉さん」
いいよ、と言う声に。今まで身動きひとつしなかったひとりが再び扉を叩いた。返事はない。
ひとりが二階を見上げたまま、もう一度、言った。
「いいよ。姉さん」
言った口元が歪んだ笑みを浮かべたのを、二階にいるはずの影は見ただろうか。フードのせいで見えなかった、だろうか。
笑った口元が合図だった。家中が軋んだ悲鳴をあげて揺れた。姉さん、と呼ばれたひとりが、外からは引いて開く扉を力任せに蹴り開けると、蝶つがいが外れて落ちて、扉は家の内側に傾いた。ひとの姿はまだ見えない。
「邪魔をするよ」
ぽつり、と声を落として。落とした声を探すようにうつむいていた顔を、上げた。フードを取ると、黒髪が長くこぼれた。妙齢の姿には落ち着きすぎたひとえの黒い瞳は、どこか一点を見たまま、
「私の名は、カラス」
声は、ぽつりぽつりと、降り始めた雨粒のように口元から床に落ちた。床に落ちた雨粒が染みをつくるように、耳に残る。
耳に残る音が不快で顔をゆがめた男が、階段をゆっくりと下りてくる。男は、なんの用だ、と表情にはしていても口にしない。カラスも口を閉ざす。
カラスの隣に、フードを取った少年が並んだ。少年の身長はカラスとあまり変わらない。変わらないのは身長、だけで。ほんの少しも感情を表に出そうとしないカラスとは対照的に、明るい茶の髪を揺らし、同じ色の瞳は常に柔らかく笑んでいる。男に、おまえは? という顔をされて、モズ、と名乗った。
「僕たち、あなたのお兄さんの言葉を伝えに来たんです」
「兄の?」
男はカラスとモズをあらためて見た。まだこどものふたりに、勝った笑みを浮かべた。
「俺によい条件でなければ、おまえたち、無事で戻れないことはわかっているか」
「もちろん」
モズはふたえの瞳を細めて邪気なく笑う。
モズの笑顔に、男は勝ち誇った顔をした。
「では、兄の言葉を聞こう」
「『交渉は成立しない』と」
モズの笑みが、男の笑みをかき消した。
「『父からの遺言どおり、譲り受けた財産をそれ以上に分け与える気はない。おとなしく息子を返せ』と」
モズの笑みはほんの少しも変わらない。
男の表情が歪む。階段から、男に雇われた体格のいい男たちが降りてくる。
男は歪んだままの表情で。歪んだ声で。
「おとなしく、返すと思うのか。こどもも、おまえたちも」
「返してくれなくても、帰ります」
ねえ姉さん、とモズはマントを跳ね上げた。背に斜にかけていた剣に手をかける。
けれど、モズが剣を抜くより先に。
それまでモズの影に溶けていた黒い姿が、モズの肩を叩いた。
男たちはカラスの黒髪が揺れるのを見た。黒い瞳が、男たちを見るのを、見た。
「おまえたち、家へ、お帰り」
男たちはカラスの黒い瞳を見る。カラスの声を聞く。
主犯格の男は、なにを言い出すのか、と鼻で笑ったけれど。剣を構えていた男たちのひとり、ふたりが、す、と剣を下ろした。
カラスはさらに言う。
「待つひとのいる場所に、お帰り」
続いてさんにん、よにんが剣を下ろした。そのまま、操られた人形のように、どこか焦点の合わない目をしてカラスとモズの脇を抜け、建物から出て行く。残ったのは、男がひとり、で。
静かに、静かに。男たちを失った男は、ほんのしばらく呆然としたあと、
「……なにをっ」
夢から覚めたように、
「おまえ、なにをした!」
悪夢を見たように、モズの陰に立つカラスに向かって剣を振り上げた。
男の目にはカラスだけが映る。恐ろしいものを見る目で見る。その、カラスしか見ない瞳に、モズが入り込んだ。
一瞬で。微かに風が吹いた、ように。
モズの構えた剣が、男の剣をカツンと薙いだ。響いたのは小さな軽い音だけ、だった。軽い、音が。男の剣をふたつに、折った。
折れた剣先が落ちていくのを見る男の、からだに、
「おまえも、お帰り」
カラスの声が染みて。男は剣を落とした。揺れる視線でなんとかカラスを捕らえて、
「……どこへ?」
気力なく、尋ねる。
「おまえの兄は、おまえの帰りも待っていると言っていたよ」
「……嘘を、つくな」
「嘘ではないよ。こどもを連れて、共にお帰り」
カラスはフードをかぶると、一歩、退いた。
男の目はもうカラスを見ない。こどもを抱き上げ、カラスが開けた道を帰っていく。
日が沈み、カラスが鳴くとその姿や声の不気味さにひとが家路を急ぐように。男は、他の男たちがそうだったように、ただの一度も振り返らずに街に向かい、やがて姿を消した。
酔っ払いで賑わう街の酒場の隅のテーブルで、モズは報酬に受け取った銀貨を数え終えて眉をひそめた。
「金貨をくれとまでは言わないけれど、もう少し色をつけてくれてもいいんじゃない?」
ねえ姉さん、とモズは銀貨を入れた袋をカラスに手渡す。カラスはそのまま、足元に置いた荷物の中に無造作に袋を押し込んだ。
「契約どおりの金額です。お姉さんには、文句がないみたいですよ」
酒場に似つかわしくないきちんとした身なりの男は、きちんとした言葉遣いで薄く笑んだ。これ以上文句を受け付けない笑みに、
「姉は、あなたを困らせたくないんだ」
「それは、助かります」
「僕は、困らせてもなんとも思わないけどね」
「わたしは主人の使いで来ているだけですよ」
「僕たちは、そのご主人サマの要望以上の働きをしたと思うけど?」
こどもは無事に戻ったはずだ。だから目の前にこの男がいる。
「ご主人サマの弟サンは、きっともう、あなたのご主人サマに逆らったりはしないと思うよ?」
「そうですね、驚きました。想像していなかった姿で、想像以上の働きをする」
男は、あまり驚いているようには見えない表情でカラスを見た。その声はどこかしみじみとしていて、モズはおもしろそうに、こどものように、笑った。
「名のままの不気味な姿でも想像していた?」
「ええ」
「じゃあ、ずいぶんかわいいひとで驚いたね」
男は、意外なことを言われた、と言いたげに。今度はきちんとそうだとわかるくらいには、驚いた表情をした。
「かわいい、というよりは、むしろ……」
モズと男の会話には興味がなさそうにしているカラスの、白い頬と細いあごと赤い唇にかかる黒い髪を見る。
描いたように際立つその姿は、かわいいというよりはむしろ、とても……。
……男はカラスから目が離せなくなる。
その男の目を、モズが片手でふさいだ。
「もう、いいよ」
男の目をふさぐ手の、つめを、男の顔に食い込ませながら、
「姉さんは報酬よりも、こどもが無事だったことに大満足みたいだから、もういいよ。僕も、姉さんが笑っているのを見たから、もういい」
男は目をふさがれたまま。目元に立てられたつめの感触に冷たい汗をかきながら、
「……笑う?」
今は見えないカラスの表情を思い出す。
冷めたようにものを見る眼差しや、滑らかさは感じ取れてもやわらかさを感じない表情は、数時間前に仕事の依頼をしたときから少しも変わったようには見えなかったけれど。
「今も、満足そうに笑ってるでしょ?」
モズには、カラスの笑みが見える。
モズが男から手を離したとき、カラスはフードをかぶり、荷物を手に立ち上がるところだった。モズも倣って立ち上がり、マントを羽織る。男は慌てて、
「もうひとつ、依頼したい仕事があるのですが受けてもらえませんか」
男にはほんの少しも興味を示さないカラスは、
「どうか、もう一度助けてください」
つと、男の、言葉に、見返った。それだけで。
モズはカラスの意思を読み取る。
「じゃあ、今日はもう遅いから、明日の朝、またここで」
◇
「またずいぶんヘンピなところに……」
あまり乗り気でない表情で、モズは今朝、男に渡された地図を眺めた。
男の知人だという人物の依頼を受けることにして街を出、川沿いにできたわだちを上流に向かって歩く。
「こんなに早くあの街を出ることになるとは思わなかった。安宿でもきれいだったし、もっとあの街にいても、僕はよかったな」
姉さんはどうなの? と聞いても、特に返事はない。モズはひとりでしゃべる。
「エナガの住む森がそばにあった。それに、海が近かったよ」
ふと、カラスが顔を上げた。
「魚はおいしかったね」
「うん。次にああいう街を見つけたら、もう少しゆっくりしようよ」
そうだね、とカラスはゆっくりとしたまばたきで答える。
約束だよ、というモズに、小さく、小さく笑って見せた。
「おまえの住みよい街かどうか、確かめる暇もなかったね」
「姉さんが住みよい街かどうかもね」
まばたきを、してそのまま伏せたカラスの瞳が、私のことはいいよ、と告げる。モズもカラスの真似をして、真似をするのがおもしろかった、ように、笑いながら。
「僕も、僕のことはどうでもいいよ」
地図の通りに船で川を渡り、ひとつ、ふたつ、山を越える。海からずいぶん遠ざかって、小さな村にたどり着いた。
閑散とした様子に、モズは自分の心に素直に大きなため息をついた。
「報酬、ちゃんと払ってくれるのかな。どう思う?」
山間の村へ続く道を降りていく。
カラスが、伏せているばかりだったまなざしを、つと、上げた。モズはマントを跳ね上げた、かと思うと剣で茂みを薙ぎ払った。
かわいらしい悲鳴が響いて見下ろすと、モズと同じ年くらいの少女がしりもちをついていた。
モズは、なんだ熊かと思ったのに違った、という顔をする。
カラスは、しりもちをついたまま立てないでいる少女に手を伸ばす。少女はその手を、力いっぱいに払い退けた。
少女はふたりを見上げて。奥歯を噛みしめる。震える声をめいっぱいに高くして、喚いた。
「あ……なたたち、盗賊の仲間!? 物取りの下見にでも来たの!?」
カラスは答える気がないように一歩、下がる。代わりに、モズが、少女にはたかれたカラスの手を心配しながら、
「あのさ、僕たちが盗賊だったら、君、今頃、命ないよ?」
心外そうに言って剣を収めた。
「僕たちは多分、その盗賊とやらを退治しに来たんだ。村長さんのとこまで案内してくれないかな」
土色のマントで身を包んだふたりに、少女は疑うまなざしを緩めない。モズがフードを取る。その瞳と髪の色を見てやっと、ほんの少し、表情をやわらかくした。少女と同じ色、だった。
「街で紹介状ももらってるよ」
モズは街の男の名を告げる。少女は安心して、モズの差し出した手を取った。ツムギ、と名乗る。
「村長はわたしの父、です」
「そう? それはちょうどよかった」
ねえ姉さん、とモズはにこやかに笑った。
村は、近付いて見ると思ったよりも大きな村だった。集会場のような場所に案内される。ツムギに呼ばれて集まってきた村の長と、なにか役の付いているらしい何人かが紹介状を覗き込んだ。
それから、壁際に立つカラスとモズを無遠慮に見た。
「君たちの腕が確かだというのなら歓迎する」
村長は紹介状を片手に、
「それで、君たち以外のものの到着はいつになる?」
紹介状には、そのことについては触れていなかった。なによりもそれが気にかかるようだった。
「まさか君たちふたりだけということはないだろう」
ふたりが請け負ったのは、収穫の季節ごとにやってくる賊から村を守ることだった。カラスは尋ねられても身動きひとつしない。モズは、こともなげに、
「ふたりだけだよ。僕はモズ。こっちは僕の姉」
一同は耳を疑う。ざわざわと、ざわついた。
ふたりだけ。しかも、深くフードをかぶったままのもうひとりが女性だと言う。
「村はいつも何十人もの賊に襲われる。いくらなんでもふたりで敵うわけがない」
一同が頭から決め付ける。モズは、彼らのそんな態度は予想していたように、
「やってくるのはいつも同じ面子だと聞いているから、もう二度と来るなと説得することもできるし、そうしてくれと言うならひとり残らず命を奪うこともできる」
どちらでもお望みのままに、と平気な顔をして笑い、ねえ姉さん、とカラスを見た。
部屋の影に溶けたようにひそりとしていたカラスは、モズの言葉にやっと、今までの会話が自分たちに向けられていたものだと気付いた、ように。
「姉さん」
呼ばれて、顔を上げた。なんの話なのか、という素振りを見せる。モズは慣れたように、
「僕と姉さんがいれば、なにが相手でも大丈夫だよね、って話、なんだけど」
「……ああ」
そうだね、と呟いて。フードに指をかけた。
細く白い指先が、フードを引っ掛けて、下ろす。
一同が、息を飲んだのは。カラスが、カラス、と名乗ったその名にか、声にか、それとも、さらりとこぼれて落ちた長い黒髪にか。一同を見回した黒い瞳に、か。
村の人々はみな、明るい茶の髪色をしていた。
カラスの髪と瞳だけが、闇の色をしている。
「気味が悪い……」
だれかが、吐き捨てるように呟いた。
ツムギは村長の陰に隠れて怯えてカラスを見、目が合う寸前でそらした。
一同の眼差しに、
モズが面倒そうに吐息した。
村から少し、離れた場所で。星空を見上げて方角を確かめたモズは、カラスがもたれる大木の根元に座り込んだ。
「ねえ姉さん。この村、どう思う?」
カラスはなにかを気にする様子もなく、
「思ったより、人口の多い村だったね」
「そうじゃなくて」
モズは、そんなことが聞きたかったわけじゃない。そんなことはカラスもわかっている。相変わらず、ぽつり、と。
「彼らが私を見る目、のことを言っているのなら、おまえの髪色を疎む土地もあったよ」
「それはそうだけど。ちょっとこの村、度が過ぎてない? 僕は、いろいろな土地の人間の集まる大きな街のほうが、いろいろやりやすくて好きだな。他人のことなんて気にしないからね」
カラスも星空を見上げる。それからふと村の方向を気にして、マントを羽織り直した。
「その辺りを見てくる」
言いながらもう歩き出しているカラスを、気をつけて、と見送って。モズも村へと続く道を見た。間をおかずにツムギが姿を現す。
夜道を警戒していたツムギは、モズの姿を見つけてほんの少し安心する。それから落ち着きなく辺りを見回して、
「姉さんならいないよ」
モズの言葉にさらに安心をした。
「食事を、持ってきたわ」
ツムギは肌寒そうに身を震わせる。モズは自分だけマントの襟元を合わせながら、
「すごく寒い季節でも、雪の降り積もる土地でもなくて助かった」
「すぐにもっと寒くなるわ。雪も、たくさん積もるのよ。その冬を越すための貯えを、あいつらは奪っていくの。あいつらは……次の収穫まで持ちこたえられるぎりぎりの分だけを残して奪っていく。金品も食べ物も、ひとの命も。わたしたちは、あいつらに飼われてるみたい。あいつらに、生かされてるみたい」
「それでもこの村にしがみつくんだね」
「わたしたちはここで生まれたのよ。ここはわたしたちの土地だわ。豊な実りも、ぜんぶ、わたしたちのものだわ」
意識的にだったのか、無意識だったのか。ツムギはモズの姿を眺めた。
旅の装束を身にまとうモズにはツムギの気持ちはわからない。そんなことを思った顔が、そんなことなど思っていないという顔をした。
「あなたたち、もうずいぶん長い間、旅をしているみたい」
モズは自分の姿を見下ろしながら、
「そうだね、ずいぶん、長いよ」
「故郷はあるんでしょう? どこ?」
「どこだったかな」
「覚えていないの?」
「……エナガが住む土地、だったことぐらいは覚えてるよ」
「エナガ?」
「鳥、だよ。街の向こうの森では見かけたけれど、このあたりにはいないみたいだ。すずめより小さくて、細い声でかわいく鳴くんだよ」
モズは夜の森を見上げる。この森にはいない小鳥を探す。
ツムギには、この辺りにはいない小鳥の姿など、想像もできない。森の闇を見て、いつか必ずやって来る賊を思い出して身を震わせた。
「やつらは、そんなに強い?」
「この辺りのひとが、誰も盗賊退治に名乗りを上げてくれなくなったくらいには」
「だから僕らが雇ってもらえたんだ? この辺りの噂も知らない旅の田舎ものがたったふたり、でもコドモでも。どうせダメだと思っているけど、いないよりはマシ、かもしれないと思ってる」
だめならだめで、またぎりぎりで生かされればいいと思ってる。とは口に出さず、モズはツムギの持ってきたカゴを覗き込んだ。大きなパンが入っている。盗賊がやってくるまでの暮らしは豊かそうだった。
ツムギは自分と同じ年頃のモズを、心から心配している顔をした。
「ねえ、だめだと思ったら、逃げていいって父さんが言ってたわ。だから無理はしないでね」
モズは唇の端で笑っただけだった。ツムギはそれをどう取ったのか、
「今日も、明日も、あさっても、ずっと。あいつら、こなければいいのに」
「そう? 僕は、今日にでも来てくれるとありがたい。野営も寝ずの番も慣れてるけど、好きでしてるわけじゃない」
「あなたたち、本当にふたりでどうにかできる気でいるの?」
モズは、ひとごとのように、
「君は、モズという鳥が凶鳥と呼ばれるのを知ってる?」
笑みを、崩さないから。
ツムギも笑んだ。モズが、場を和ませるためにそんなことを言ったんだと思った。
「あなたが、凶鳥?」
そんなふうには見えないわ、とツムギは笑う。
モズは笑みを消して、ツムギを傍から覗き込んだ。
「君たちにとっての凶鳥は、僕じゃなくて姉さん、なんだろうね」
すぐ傍のモズに、ツムギはモズの言葉を理解するより先に顔を赤くした。
「ひとの外見に、意味があるの?」
つ、と。モズはツムギから視線を外す。流れてくる風を読む仕草で夜の奥を見据えた。
どうしたの? とツムギは緊張する。モズは、どうもしない、と静かに答えた。
どうもしない。ただ。
闇の中から、月明かりの元にカラスが戻ってきた、と、いう、それだけだ。
モズが真上からの月明かりを見上げると、それに気付いたカラスも見上げた。フードがずれる。表情のない顔が月明かりに浮かぶ。そのまま、闇と同じ色をした瞳が、モズとツムギを見た。
ツムギは小さな悲鳴を上げた。まるで、石膏の人形が動くのを見たようだった。
カラスの瞳と髪の色が、この村の人間にはなにに、どんなものに、どんなふうに見えているのか。モズには興味がない。がさがさと、ツムギが逃げ出して駆けていく姿を、見送らず、一瞥もせずに、カラスを手招いた。
「食事をもらったよ。まだスープも温かい。一緒に食べよう」
カラスはツムギが駆けていった道を眺める。姉さん、とモズが呼ぶ。モズが差し出したパンを、カラスがふたつに切り分ける。
その夜は何事もなく、静かに朝を迎えるのだと思った。
空気が動いたのは東の空が白み始める前だった。ふたり同時に顔を上げ、しまったとモズが呟いた。カラスが一瞬早く駆け出した。
月は大きく傾いて、暗いばかりの村へ向かった。
途中で二手に別れる。モズが、襲撃を恐れて眠るに眠れないでいる村長を呼び出すころ、カラスは、村の収穫高を収めた高床式の蔵の前で男をふたり、捕らえていた。
村長は男ふたりに見覚えがあるという。
「本物の物取りの下見、だね」
集まった村人たちが男ふたりを叩きのめそうとするのを止めて、モズは、どうする? とカラスに聞く。
モズがカラスを見れば、村人たちの視線もカラスに集まった。好意的な視線はひとつもない。
カラスは、それらを気にかけてはいない表情で村長を見る。けれど、カラスのなにかを言いかけた口元は、村長がカラスの黒い姿にたじろぐのを見て取ると、なにも言わずに静かに閉じた。伏せた視線の先で、ひとこと、モズ、と呼ぶ。モズは心得て、
「早くカタが着きそうでよかったね、姉さん」
腰の短剣で、村人たちがきつく縛り上げた男ふたりの縄を切った。なにをするのか、という非難を、カラスは、す、と右手を上げただけで制した。
「おまえたち……」
男ふたりに、目線を合わせる。
男ふたりが息を飲んだのは、カラスのひとのものらしからぬ硬い表情をした容姿にか。それとも、なにか得体の知れない眼差しに、か。
「……おまえたち、今日はこのまま、お帰り」
村人たちが、カラスをとがめて騒ぐ。姉さんの邪魔をするな、と村人たちの先頭に立つ村長にモズが短剣を突きつける。騒ぎは治まらない。
カラスは、騒ぎを気にかけない。
騒ぎの中でも、カラスの言葉はふたりの男に落ちて、染み込む。
「今は、私たちのことは忘れてお帰り。そうしてみなを連れて、今日の日暮れと共に闇に紛れて、東の森から、おいで」
カラスに頭を撫でられて、モズは目を覚ました。もう時間かと聞けば、
「日暮れまでは、まだ時間があるよ。もう少し眠っておいで」
頭を撫でた手が、頬を撫でる。モズは小さなこどものようにカラスの手に擦り寄って、小さく笑った。
「まだ寝てていいなら、起こさないでよ」
「起こしていないよ」
「でも、姉さんの手に起こされた」
昨夜徹夜した分の睡眠を取り戻したモズは、大きく伸びをする。
用意された部屋で、顔を洗って身なりを整える。カラスの身支度はすっかり整っていて、モズは出遅れたのを取り戻そうと剣を背負った。
「外の様子を見てくるよ」
ぐるりと、村と森とを見て回る。人々は家にこもっていて、どこもひそりとしている。
部屋に戻ってきたところで、駆けてきたツムギとぶつかった。ツムギはすがる目でモズを見上げて、すがるようにモズの両腕を掴んだ。
「ねえ、ほんとうにあいつら、もうすぐ、来るの? ほんとうに? ……あんな口約束で……っ」
「あれは約束、じゃない」
「じゃあ、なあに」
ツムギは、ドアの隙間から気味悪そうにカラスを覗き込む。カラスはきちんとした姿勢で窓際に立っていた。モズは静かにドアを閉めた。
日が、暮れる。
「ツムギ、邪魔だから、もう僕たちを僕たちだけにして。君たちは家の中で、おとなしく朝が来るのを待っていて」
背中を押したツムギの姿が見えなくなると、カラスが部屋から出てきた。モズはカラスに並んで、歩く。
村を出て、暮れあいの空を見上げて、見下ろした。
夜の色に変わっていく木々の間から、たくさんの影が姿を現した。ふたりは剣に手をかける。まず、モズが剣を抜いた。
影の大半が、荷を運び出すための荷車を押していた。簡単な防具をつけた影は剣を持ち、幾人かが馬に乗り指示を出す。馬に乗ったひとつの影が、カラスとモズのたったふたりを見下ろして笑った。数日前に街でこどもを人質に取った男と同じ顔をして、同じことを言った。
「おまえたちだけか。たったふたりになにができる」
モズの口元も笑った。
いつまでそうして笑っていられるのか。
カラスがひとこと、声にしただけで。
影の半分が、手にしていた獲物を力なく落とし、来たばかりの道を帰って行く。
母親の声に説得をされたように。
次のひとことで、また半分になる。
「家にお帰り。二度とここに来てはいけないよ」
カラスの声を聞いた影たちは、再びこの村に現れることはない。馬もカラスの声を聞く。
暴れはじめた馬から飛び降りた影が、ふたりを囲んだ。強い意志はカラスの声を受け入れないことが多い。それでも。幾人もの、幾十人もの影に囲まれても。
カラスは少しも表情を変えない。モズは、笑ったままだった。
影たちには想像もしなかった事態だった。笑みを失い、剣を振り上げる。
カラスもようやく剣を抜く。
モズがカラスを庇うように剣を構える。
ツムギの、
モズを呼ぶ声が聞こえた。
声に、モズが肩を揺らした。視界の端にツムギが映る。
咄嗟に、モズが動こうとするより先に、カラスがモズを呼んだ。カラスの、声に。モズは一呼吸する。直後に、地面を蹴って大きく剣を振った。
カラスが影に囲まれた場所から抜け出る。木の陰から飛び出してくるツムギを引き寄せ抱え込むと、ツムギへ襲い掛かる影を薙いだ。
ツムギはカラスの胸の中で、モズを呼ぶ。
「だめ。勝てるわけない! こんなに大勢相手に……逃げて! 逃げていいから! わたしたちが我慢すればいいことなんだから!」
カラスはツムギを正面から覗き込んだ。揺れる黒髪と冷たい眼差しからツムギは目をそらそうとする。カラスはそれを許さない。
「村長のところへお戻り」
「……でもっ」
「戻りなさい」
強い口調にモズが振り返った。
ぽつり、と。
カラスを取り囲もうとしていた影たちが、雨が、降ってきたのを確かめるように、暗くなった空を見上げた。ツムギも空を見上げる。
雨など降っていないけれど。雨が、降ってきたから家に帰るように。
いくつかの影が帰って行く。ツムギも村へ戻って行く。
騒ぎは長く続かない。
夜が明ける頃、様子を確かめにやってきた村長たちは、変色した赤色にまみれて疲れて眠るモズと、影たちの墓穴を掘るカラスを見つけた。
◇
モズはのんびりと、カラスが村の東の森から戻ってくるのを部屋から見ていた。ツムギが部屋に入ってきたのは知っていた。
「あのひとと、あなたは、本当の姉弟じゃない、わよね?」
モズはツムギには見向かず、モズに気が付いたカラスにひらひらと手を振る。傍らに立ったツムギがもう一度同じ事を聞く。モズは手を振りながら、
「そう見えるなら、そうなんじゃないの」
ツムギには振り向かない。手を振り返したりはしないカラスに、ツレナイなあ、と笑った口元で呟く。
「ねえ、モズ、この村に残らない?」
ツムギは、モズがツムギを見ようとしないことに気が付かない。
「旅は気ままでいいかもしれないけれど、わざわざそんな苦労をしなくても、ひとはもっと穏やかに暮らせるわ」
「僕たちだって、いつまでも旅を続けるつもりはない。いつか旅を終えることができればいいと思ってる」
モズは、カラスの姿を目で追いながら、
「でも、この村じゃない」
「どうして? ここに残ればいいのに」
「この村は姉さんを受け入れない」
ツムギは思ってもみなかったことを言われた顔をした。
「モズだけ、残ればいいじゃない。本当の姉弟でもないのにどうして一緒にいるの。それは、もちろん、あいつらをほんとうに追い払ってくれたことには感謝はしているけれど。でも、見て。みんながあのひとを避けて通る。あなた、この先もあんな気味の悪いひとと一緒にいるつもり?」
道を行くカラスを、村人たちは避けて通る。村を救っても、村の対応は変わらない。
カラスはなににも構わずに、村人たちが開けた道を歩く。背筋を伸ばして前を向く。モズも、眼差しをあげた。
「世の中には、僕や君の容姿を気味悪がる土地もある。姉さんがとてもきれいだと、見惚れる男のいる土地もある」
「嘘よ。格好も髪も、名前まで。本当にカラスみたい。それにあの声……!」
ツムギは部屋に飾られた花を見つけた。小さくて白い花に、嫌悪する勢いを和らげて息を吐き出した。
「それに、あの声……逆らえなかったわ。怖かったわ。気持ち悪かったわ」
モズは、ゆっくりツムギに見向いた。
「君が美徳としているらしい、うっとうしい押し付けがましい自己犠牲ほどには気味悪くないよ」
白い花は、強い甘い香りがする。
「姉さんの本当の名前は、エナガと、言うんだよ。小さくてかわいい鳥の名前だと教えたよね。血の匂いを嫌って、いつもそうやって花を飾る。かわいいひとだよ。墓にも同じ花を供えてる。やさしいひとだよ。あのひとは、この村には住めない」
カラスとモズが育った土地にはたくさんいた鳥は、この土地では姿を見ない。
「姉さんの住めない土地には僕も住めない」
「あのひとが、自分で殺した人間を自分で埋めている姿を見たわ。黒い死の使いみたいだったわ。本当の名前があってもなくても、気味が悪いことに変わりはないでしょう?」
なにを言ってるの、とモズはツムギを見下ろした。
「なにを勘違いしているのか知らないけれど」
なんの罪の意識もない顔で、
「姉さんは誰も殺さない。そのためにあの声がある。あの声は誰も殺さない。僕はあの声を持っていない。だから、僕は殺すんだよ。モズという鳥が凶鳥だとも教えたよね。モズが鳴くと死人が出るんだよ。姉さんと違って僕は殺すんだよ。姉さんは僕が殺したものを埋めてくれているだけ」
笑顔で、そんなことを話しているのではないような口調で、
「僕だよ。殺すのも殺したのも僕で、僕ならあのとき、仕事の邪魔をしに来た君も殺した。殺すつもりだったよ。姉さんが助けてしまったけどね」
残念だったね、と笑う。笑う、声で、本心から言った。
「君、あのとき死んでたら、墓を作ってくれる姉さんのやさしさを知ることができたのにね」
部屋に戻ってきたカラスは、部屋から逃げるように飛び出していくツムギを見た。モズは部屋で花を見ていた。呼べば、なに? となにごともなかったように見向いた。
「私はもう発つけれど、この村が気に入ったのなら、おまえは残っておいで。ここはきっと、おまえには住みよい」
カラスは部屋に入ると気兼ねなくフードを取る。長い髪をくくっていた紐をほどく。
「姉さんと一緒なら残ってもいいけど」
「私はここでは、声だけでなく姿も疎まれる」
「それじゃあ一緒に残れない」
モズはカラスの傍に寄る。伸ばした手で、艶のある長い黒い髪に触れようと思った。でも触れたのは、
「姉さんは、この声を疎んでる?」
モズはカラスの声に触れた。口を塞げば。カラスはモズに答えられない。モズはいたずらをしたこどものように笑う。笑ったつもりだった。笑ってはいなかった。
「僕は、姉さんがひとこともしゃべらなくてもかまわない。僕には必要がない。姉さんの言いたいことは、わかるから。そうしたら、それらしく見せるためにカラスなんて名前を名乗る必要もなくなる」
カラスは、自分の口を塞ぐモズの手を取った。こどものようなことをするんだねと、笑ったようだった。
「この声を、疎んだことなどないよ」
ほんとうに? と聞けば、嘘ではないよ、と返ってきた。
「声を失うことならいつも恐れているよ。まだ幼いおまえとこの世にふたりきりになったとき、どう生きていけばいいのかわからなかった。この声がなければ収入を得るすべもなく、おまえまで失うところだった」
失いたくなかった? と聞けば、失いたくなかったよ、と返ってくる。
「でも、もう、僕を手放してもいい気になった?」
カラスはまなざしをかすかに細めると、モズの頬を一度、撫でた。
「おまえにも帰りたい場所ができたのなら、そこに帰ればいい」
「僕の帰る場所も、帰りたい場所も、今は姉さんのところだよ。姉さんは違うの? もしも誰かが、姉さんの声で姉さんに、帰りたい場所にお帰りといったら、姉さんは、僕のところには帰ってこないの?」
「さあ、どうだろう、ね」
笑ったのは、モズだった。おもしろそうに笑った。
「意地悪を言わないで。この村に僕だけを残して行くなんていう意地悪も言わないで」
カラスは、それは別に意地悪ではないよ、と言う顔をした。ほんの少し、眉を上げて、
「ツムギと、ずいぶん仲がよくなったように見えた。昨夜も、争いの最中にツムギが突然やってきて動揺していたね。おまえが助けたかっただろう? 私が手を出してすまなかったね」
モズはぎょっとして、それから吐息した。
「姉さんの目って、ちょっとフシアナだよね」
カラスは、なにがフシアナなのかと表情で問いかける。モズはなんでもないよ、と笑った。
「ふたりが住みよいと思える場所はそのうちに見つかるよ。さっさと報酬をもらってこの村を出て、魚のおいしい街を探そうよ。酒場の小競り合いの仲裁程度で稼げるところだと、なおいいよね」
どう思う? とモズが聞く。カラスは、そうだね、と呟いて、笑ったようにまなざしを伏せた。
慣れた旅の支度を始める。
おわり
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