** 気持ち悪い **


「ねーちゃん、ここはいっちょ吐いてこい」
「……いや」
「吐いたら楽になるって。絶対」
「ぜ、ったい、いや」
「じゃーなんで気持ち悪いほど胃が痛いのにいつも通りに夕飯食うんだよ」
「痛いっ、けど、お腹すいてたんだもん。食べたら食べれたんだもん」
「でもからだが受け付けてねーから気持ち悪いんだろ」
「いや。吐くのはいや」
「なぜそこまで頑なかな」
「だって、せっかく食べたんだから、吐いたらもったいない。血肉になってもらわないと困る」
「もったいないゆーな。どーせ、上から出さなきゃ出さないで、下から……」
「下品っ」
「ほんとのことじゃん」
「やー、もー、胃が、痛いだけだから、ほっといてよ」
「だから、吐いたらちょっと楽になるって、おれんときもそーだった」
「元はといえば一志が風邪、拾ってくるからー」
「そんなん、うつされるねーちゃんが悪いんじゃん」
「豊くんにうつされた一志に言われたくない……」
「なんでもいーけど……、かーさん、かーさん! ねーちゃん、気持ち悪いって! 吐くって」
「吐かないーーーーー」
「だから、なんでだよ」
「……吐き方が、わからない」
「は?」
「わたし、五年くらい、吐いたことない。ちょっと自慢」
「そーいや、ねーちゃん吐いてるの見たことない、気がする」
「だからっ、じっとしてればそのうちに消化するから」
「いや、消化できないから痛くて気持ち悪いんじゃ……」
「でも食べれたもん。食べたなら責任もって消化するべきでしょ。胃が。頑張れ胃」
「んな無茶な」
「いいの。もー、一志うるさい、邪魔っ」
「うわ、ねーちゃんに邪険にされた。すっげー、ちょー弱ってる」



































** 五年後(の一志と博則と英臣)**


「昨日、駅でセンパイ見たよ」
 部活を終えて着替えを済ませて、さあ帰るか、というときに、博則が思い出したように言った。ふと、思い出したように言ったけれど、ずっと言いたかったことのタイミングを見計らっていて、やっと今、言った、という様子でもあった。
 一志は、あっそ、とどうでもよさそうな態度を取る。
 博則が言うところの「センパイ」が花珠保だと気付いて、英臣が割り込んできた。
「大学生! になりたての花珠保先輩! 今度見に行っていい?」
「ねーちゃんは珍獣か」
「女神さまだろ」
 真剣な英臣を、一志はカバンで殴る。
「おまえキモい。つか、しつこい」
 え、オレしつこい? 恋ってこーゆーもんじゃないの? と意見を求める英臣に、
「まあ、一途でいいんじゃないの?」
 博則はにっこり笑って、適当と言えば適当に言う。
「センパイ見た時間、けっこう遅かったんだけど」
 まさかコンパとか!? とさらに割り込んでくる英臣を一志は押し退ける。
「しんにゅーせーかんげーかい、だってさ。酔って帰ってきた」
「センパイが?」
「マジで!?」
 酔った花珠保、を想像できずに博則と英臣は顔を見合わせた。部室から出る一志を、ふたりして追いかける。
「酔って帰ってきたって、大丈夫なの? あんな時間に」
「山元と一緒だったから、なんとか」
「あれ、ぶちょーと花珠保先輩、同じ大学だっけ?」
「そー」
 昨夜、見知らぬ男に負ぶわれた花珠保の隣で、紅美は平謝りに謝った。
『ごめん、ほんとーに、ごめんっ。花珠保、こんなにお酒ダメだと思わなくって』
 父も母も夜勤でおらず、風呂から上がったところだった一志は、髪が濡れたまま、タオルを頭から引っかぶったまま、途方に暮れたように花珠保を見下ろした。
『……酒がダメっていうか、飲んだことない、はず』
『え、そうなの?』
『親が飲まないし』
『カズ弟も飲んだことないって?』
『……いまんとこ』
『うわ、マジメ』
『うるせーな。マジメってなんだよ。飲んじゃダメなもん飲んでないだけじゃん。ふつーだろ』
 見知らぬ、男の背中で、静かに眠っている花珠保、は、
『つか、どんだけ飲ませたんだよ』
『ひとくち』
 花珠保は、とくに、アルコールにやられた辛そうな顔もしていなくて。
『は?』
『だから、ひとくち。自分のカルピスと、あたしのカルピスチューハイ間違えて』
『……ひとくち?』
『飲んだ途端、ぱったり倒れてびっくりした……』
 紅美は、思い出しただけで生きた心地がいないような顔をした。それは、花珠保を負ぶっている男も同じ、らしく。
 一志は花珠保の髪を引っ張った。
『ねーちゃん。ねーちゃんっ』
 花珠保はうんともすんとも言わず、
『なにこれ、なんで起きねーの……?』
『ただ寝てるだけ、だと思うんだけど……』
 たったひとくちで、眠り姫、だ。
 一志は吐息する。たぶんきっと、一志も酒を飲んだらこうなる、に違いない。でも別に、一志なら、道端で寝こけていようとどうということはない、けれど。
『とにかく、とりあえず、どーも』
 ねーちゃん返せ、という素振りを見せると、花珠保を負ぶった男は、一志を見て、よければ部屋か、リビングまで連れて行こうか、と提案する。男も一志も、体型的にはそんなに大差ない。それでも、弟、という立場で、見られて。
 一志は男の言うことを無視して、花珠保を抱き上げた。
 花珠保を抱き上げたくらいじゃ、一志はふらつきもしない。花珠保の代わりに落としたタオルを拾い上げて、
『んじゃ、どーも』
 さっさと帰れ、と紅美と男を追い払う。
 花珠保は、しばらくすると居間のソファで目を覚ました。
『……あれ?』
 ここどこ? と勢い良く起き上がった途端、口元を押える。気持ち悪い、けれど。吐く、ほどでもない。
 胃の辺りがむかつくのをやり過ごして、傍に立っていた一志に、気付いた。
 一志はなにをどうしていいやら分からずに、ただ、花珠保を見ている。酔っ払いの世話などしたことがない。
 花珠保は、一志を見上げて、それで、それだけで安心したように、また横になった。一志が覗き込むと、どこか眠そうに、笑った。
『髪、濡れてるよ?』
『酔っ払いよりマシ』
『わたし、酔っ払い?』
 どちらからともなく顔を寄せる……寄せたのは、一志だ。たったひとくち、じゃ、花珠保から酒のにおいはしない。
『ねーちゃん、男におんぶされてんの。覚えてる?』
『んー。うん。なんとなく、どうしようかなって思った、んだけど。昔、ならともかく、最近は一志も、わたし、のこと軽々扱うし、じゃあ、だったら、えーと、茂里、クンも、一志くらいだから、じゃあ大丈夫かなあって、思って』
『……おれと比べんな』
『えー、だって、一志より小さい子、だったら、悪いなあって、思った、けど』
 そういう問題じゃない、ような気もしたけれど。
『一志と同じ、くらい、だからいいよね、って』
 目を閉じる花珠保に、
『ねーちゃん……ねーちゃんっ。寝るんなら部屋、連れってやるけど?』
『んー』
 ぼやぼやと、もう眠っているような返事に、吐息して。
『……ほら』
 軽々と、一志は花珠保を抱き上げる。花珠保は、多分、無意識に、一志にしがみつく。
 あの男に対してもそうだったんだろうか。……多分、そうだったんだろう。遠慮するよりも、おとなしくしがみついている方が、相手が楽なのを、無意識で知っている、から。だからそうしただけ、だ。
 昔はずいぶん重く感じたからだは、今は、ずいぶん軽い。
「あーまーさーわーくんっ」
 一志と、博則と、英臣と、三人で体育館脇を歩いていると、待ち伏せていたクラスメイトが飛び出してきた。
「今から帰るの? 私も一緒に帰っていーい?」
「つーか、一緒に帰る気満々だろ」
 今に始まったことではないので、博則も英臣も慣れた態度で、
「天沢ぁ、おまえもう、稲垣と付き合ってやったら? てゆーか、付き合ってないのが不思議なんだけど」
 腕を組む姿が、様になっている。と英臣は思う。いつだって一志が、一方的に組まれている、のだけれど。それでも。
 つきあっちゃえばいーじゃんなあ、と言う英臣に、博則は曖昧に笑いながら、
「でも彼氏と彼女っていうよりは」
 稲垣さんには悪いけど、と言いたそうに、
「キョウダイ、みたいだよね」
「きょうだいぃぃー!?」
 なんだそれ、と英臣が突っ込む。
「男と女で、キョウダイとか友情とか、なしだろ」
「まあ、稲垣さんには、ないと思うけど」
 一志に、してみれば。
 抱き締めた花珠保が抱きついてくることも。クラスメイトが腕を組んでくることも。
 花珠保が、一志とほかの男をあまり区別しないように、
「天沢って、女の子に対する態度って、わりとセンパイに対するのと同じ、なんだよね。女の子のラインがないって言うか、僕も相手が姉だったら、まあ、あんな態度かな、って」
「ああ?」
 つまり、それは。
「……女の子はみなきょうだい、ってことか」
「ことだと思うよ?」
 そういう問題じゃない、ような気もしたけれど。
「でもさ、そうはいっても、僕、ぜったい天沢には彼女がいると思うんだよね」
「あー、なんか、中学んときの合宿で噂になったって言う?」
「そう、ずっと続いてるんだと思うよ? だって、さあ」
 博則と英臣は仲良く顔を見合わせて、それから一緒に仲良くクラスメイトと歩く一志の背中を見た。それからこれまた仲良く、自分の首筋を指差して、
『今日はここにキスマーク、あったよね(な)』
 カノジョ、とやらとどんな付き合い方をしているのか知らないけれど。いつもは背中に傷跡があったり、する。
 昨夜、一志は、
 酔った花珠保を抱いた。はじめは、花珠保も酔っていて、鈍い反応しか見せなかった、のだけれど。
 いつもの花珠保なら、そんな目立つ場所に跡を残したりはしない、のに。酔っていた、から。
「……稲垣、フビンだな」
「トヨトミにフビンとか思われちゃうとこがますますフビンだよね」
 早くセンパイゲットしなよ、いつまで見てるつもりなのと、けなされたのか励まされたのか、英臣は笑顔をかためる。おまえらなにやってんだよ、と一志が振り返る。
 この後は、ラーメンか牛丼かマックにでも行くつもり、だった。



































** コメント(「姉弟ものが好き」というコメントを頂いて)**


  兄妹だった場合

「一志お兄ちゃん、ちゃんと宿題やった? やってないでしょ? ほらやっぱり 。朝から晩まで走ってばっかり。え、そればっかりじゃない? 他に何が……っ て、やあだ。っ、し、しない。違っ、イヤじゃなくって、宿題っ。お兄ちゃん、 宿題終わったら、別にいいよ? うん、ちゃんと終わったらね。だーかーらー。終わったらー!! 宿題の前はなし、だめっ。ほら、宿題ちゃんとやって!」

  姉弟だった場合

「ああ! 宿題忘れた! ちっがう、ほんと、わざとじゃなくって。ねーちゃん がまじめに部活やれって言うからじゃん。まじめにやったら疲れて寝ちゃったん だよ。うたた寝。もーこんな時間じゃん、風呂入って寝る時間じゃん。宿題なん てやる時間ねー。もういい、もうやめた。寝よ。ねーちゃんと寝よ。って、蹴飛 ばされた! 蹴飛ばし追い出された、ベッドから! なんだよー、じゃー宿題や ったら一緒に寝ていーい? いいよな? けってー、よし決定」



































**(よくあるかもしれない)家庭の事情 **


 ……なんだか、暗いな、と入ったときから思っていた。
 花珠保は天井を見上げる。視界が、ぼんやりと、暗いオレンジ色で、何度かまばたきをした。
(……なんだろ、なんか……)
 いやな、予感がする。
 落ち着かないまま、浴室で、花珠保はからだを流して浴槽に肩まで浸かった。お風呂に入るといつも、なんとなく、今日も一日終わったなあ、という気持ちになる。
「んーーー」
 お湯が気持ちよくて、伸びをした、とき。
 電気が。
 切れた。
「わあ!」
 ほらやっぱり、なんとなく電気が、明りが、暗いっぽいと思っていた。嫌な予感がしていた。
 真っ暗になった浴室から、
「一志、一志! かーずーしーーー!!」
 大声で呼ぶと、なんだよ、と呼びつけられて不機嫌な一志は、暗闇の浴室を見て、
「ねーちゃん、おもしろいことしてる。なに、暗いと癒されんの」
「電気が、切れたのっ。新しい電球持ってきて」
「えーーーー、なんでおれがーーー?」
「一志しかいないでしょ。いいからっ、持ってきて」
「んー」
 どこに電球あるんだよ、とぶつぶついいながら脱衣所を出て行って、しばらくして戻ってきた一志は、わざとらしくしょんぼりした口調で。
「ねーちゃんにとても残念なお知らせがあります」
「……わかった、もういい」
 なにが残念なのか、聞かなくてもわかって、花珠保は真っ暗な中、諦めて湯に浸かる。新しい電球が、ない、のだろう。
「玄関の、棚んとこになかったらないよなあ」
 ないけれど、それでもなんとかしよう、という口調の一志に、
「うん、ないから、いいよ。ありがとう。脱衣所の電気つけといて。それでなんとか明るい、から」
 おう、とか、んー、とか、一志は適当な返事をする。
 花珠保は、暗い、浴室で、お湯に浸かっていると眠ってしまいそうになって。湯から上がった、ときに、勢いよく浴室のドアが開いた。
「じゃじゃーん」
 一志がセルフミュージック付きで入ってくる。手には電球を持っている。
「え、電球あった?」
「便所の電球外してきた」
 おれ頭いい! と言いたげな顔で電球を取り替えていく。
 明るくなった浴室で、花珠保はのんびり髪を洗う。からだを洗う。途中で、一志が、トイレに入っていく気配がした。暗いのを承知でトイレを使う、んだ、と思っていたら。
「ぎゃあ! 暗っ!! って、おれが自分で外したんじゃんっ」
 と喚く一志の声が聞こえた。花珠保は呆れて吐息した。
「一志、……頭悪い……」



































** おまけ(夏休みのおはなしのおまけのおまけのおまけ)**


「……なーんで、夏休みの最後の日まで部活あるんだよ」
 今日も一志は、文句を言いながらも部活に出る。
「まだ宿題おわってないっちゅーの」
「え、ほんとに!?」
 着替えて、部室から出たところでぽろっと呟いた一志に、着替えをちょうど終えて隣の部室から出てきた花珠保がびっくりする。一志はしまった、と言う顔をした。
 花珠保にバレたから「しまった」で、宿題を終えていないことに対しての「しまった」ではない。
「でも、だいじょーぶ、去年は二学期中逃げ切ったら諦めてくれた。今回も何とか逃げ切るから」
「……逃げ回ってる時間に宿題やっちゃえばいいのに……」
「そこを、やらないとこに意義があるんだろー?」
「ありません」
「そうなの? ないの!?」
「……ないよ。なにそんな生まれて初めて聞いたことみたいにびっくりしてんの……」



































** 花珠保姫!?(パラレル)**


(多分17〜8歳。想像できうる限りのファンタジーな世界でのごーじゃすな王子様とお姫様姿の一志と花珠保……想像、してください。え、想像するにも限界がある? ですよねー。 でもとりあえず↓)


「姉上はどちらにおられる」
 尋ねれば女官は、戸惑って瞳を揺らした。侍従長か女官長あたりに、告げてはならない、と言われているのか。それでも、もう一度問えば、逆らえるわけもなく口を開いた。
 絨毯の途切れた廊下を行く。
「……姉上」
 なにかから隠れるように、ひそりと、部屋の隅に掛けていた、彼女を、
「姉上」
 呼べば、目を合わせぬよう、横を向く。ゆっくりとまばたきをした瞳は、訪ねてきた人物を避けて、窓の、形をした空を眺めた。
「そうして、私とこの先、目を合わせぬおつもりですか」
「……そういうつもりでは、ありません」
「それはよかった」
 それでも、決して、振り向こうとはしない彼女に、
「○□×国のヒロノリ王子との婚約を承諾されたそうですね」
「……よいお話だと、思ったのです」
「私には???国のクミ姫との話を薦めたがっていると聞きましたが、それも良い話、だと?」
「……ええ」
 消えそうな返事に、吐息をした。開け放したままの扉に、拳を叩きつける。物音に驚いて、彼女が肩を揺らす、後姿を、見る。
「姉上」
 扉を、閉めた。
「……カズシ」
 閉ざした部屋の中で、呼ばれて、
「なんです?」
 やっと。振り向いた彼女、を。眼差しを細めて見つめた。彼女が、泣きそうな顔をして、それでも、微笑んだ姿に、唇の端を上げて応えた。
 傍に寄る。艶のある長い髪をかきあげた首筋に、頬を寄せた。
「……姉さんはヒロノリ王子と。おれはクミ姫と。それでも、どんなに国のために体裁を整えても、姉さんが、姉さんであることは決して変わらない、のに」
 彼女の、頬に触れる。彼女は目を閉じる。……拒んだのか。それとも、受け入れようと、したのか。図りかねていると、とん、と胸元を押された。
 押されて、半歩、退いた。
 これは、拒絶、なのだろう。
「姉さんっ」
 それでも、掴んだ髪を離さない。決して、離さない。
「そんなにおれを頑なに拒む、なら」
 触れて撫でた頬に、唇を押し付けながら、
「おれも、したいように、する」
 黒い、感情で。彼女をどうしてやろうと、思ったのか。望むままに触れれば、抱けば、必ず、いつか、孕む子を、抱き上げる、想像は。
「カズシ」
 閉じたはずの瞳に見つめられて、頬を、撫でられて、掻き消えた。
「拒んで、ない、よ」
 拒みたいわけではない。それでも……。
「でも、それでも……」
 互いの立場に、彼女は涙を零した。
「……姉さん」
 その涙を、唇で吸う。
「……いや」
 それ以上、触れないで、と請われる。拒絶ではない。それ以上触れられれば、触れれば、お互いに自分を止められなく、なる、から。
 彼女の足元に跪いた。おもうことのすべてを飲み込んで、取った白い手の、甲に、口づけた。



































** 数年後3(一志24歳中学二年 広田博則君いいところがあったのかどうなのかやっぱり踏んだり蹴ったり。収拾がつかないので一志の夢オチにしてみましたすみません編)**


 腕を掴んだ。振り返った花珠保の、衣装に。
 驚いて飛び起きた勢いでベッドから転がり落ちて、目が覚めた。
「な……っ」
 なにが起こったのか、と一志は辺りを見回す。真夜中の、自分の部屋だった。
 なんであんな夢、と深呼吸する。息を、吸って、吐いて。また吸ったら、
「一志?」
 どうしたの? と、受験勉強の最中だった花珠保が、物音に様子を見に来た。
「すごい音がしたけど……。ベッドから落ちたの? 小さいときはよく落ちてたけど、最近は珍しいね」
 一志は花珠保を凝視する。夢の続きを見ているように花珠保を見る。
 夢の……中で。
 なにかとんでもない衣装を着ていた花珠保は、今は、半そでのパジャマ姿だった。
 一志は目一杯まで吸い込んだ空気を、思い切り、吐き出して、
「怖っ」
 部屋に、入ったところで立ち止まったままの花珠保のところまで、からだが重そうにはって歩いて、花珠保の両足に抱きついた。
「一志?」
 花珠保の伸ばした手を掴んで、引き寄せて、抱き締めた。
 花珠保は抱き締められながら、
「そんなに怖い夢だったの?」
「……別に」
 一志はごまかして、花珠保の首筋に顔をうずめた。花珠保の耳たぶが鼻先に触れて、舐めて吸い付く。
 花珠保は敏感に反応して、一志にしがみついた。しつこく耳を攻めれば、呼吸が、荒くなった。
「一志……っ」
 先を求められて安心する。キスをして、またもう少し安心をした。
 ……夢を。
 一志と、花珠保の関係がバレた夢を見た。
 花珠保が、何年先になってもひょろひょろと背の高い博則に組み敷かれる夢を見た。
 一志以外の男が花珠保に触る夢を見た。
 怖かったのは。
 一番怖い未来は、どれだったのか。
 一志と花珠保の関係は誰にもバレていない。
 博則が花珠保に惚れたなんて話、聞いたことがない。
 花珠保に一志以外の誰かが触ることなんかあるわけない。
 それから……。
 それから。
「……ん、んっ」
 いい場所に触れればのけぞる花珠保の首筋に吸い付いた。
 指先で、そこを濡らす水をかき出して、
「も……、挿れる。挿れていい?」
「あ、……や、あ、一志っ」
 奥へ、奥へ入り込めば、他に、呼ぶ名前なんて持っていないから一志の名前を呼ぶ。
 入り込んだ瞬間にも、その途中にも、最後にも、名前を呼ばれて、安心を、した。
 それから。

 それから。
「こんにちはー」
 三日後の放課後。
「天沢ー、貸してくれるって言ってたCD借りにきたー。貸してーーー」
 元気な挨拶と一緒に、元気に遊びにやってきた博則に、一志は自分の部屋から飛び出して、階段を駆け下りた勢いで博則を蹴飛ばした。ついでに踏みつけて、ちょっと気が済んだ。
「あーまーさーわーーーー」
 原因もわからず博則は泣きながら一志を睨み、
「一志!?」
 いきなりなにしてるの、と花珠保に小突かれたけれど。
 とにかくすっきりした。
 怖い夢を見た。
 101回目のプロポーズで花珠保が博則と結婚をする夢を見た。おねーちゃんお嫁に行っちゃいやだ、と掴んだ花珠保は、花嫁姿だった。ウエディングドレスを着ていた。
 ……すごく、怖い夢を見た。
 どこまでが恐怖で、どのあたりからギャグだったのかわけがわからない。
 でも夢だ。
 ちょっと一志反省してるの? と更に花珠保につねられた頬が痛かったから、夢、だ。



































** 数年後2(博則22歳 広田博則君ありえない編)**


 腕を、掴んだ。簡単には振りほどかせない。
「……センパイ」
 細い指先の、きれいな爪が、
「離してっ」
 博則の手を振りほどこうと、博則の手に爪を立てる。引っかかれた場所が赤く腫れ上がる。それでも、そんなことでは、離さない。
 この指が、爪が。
「こうやって、天沢の背中に、傷、付けたの?」
 青ざめた花珠保に、見上げられて、博則は自虐的に笑った。
 言わなければ……。
 言わなければ、誰も傷付かない。花珠保も。博則も。
「僕が、一番初めに見たのは、センパイがこうやって傷つけた、天沢の背中だった。合宿でね」
「……違う、よ」
 震える声は、否定をしても、肯定する。
「違う……。や、だな。広田くん、なに言って……」
「センパイと天沢こそ、姉弟で、なにしてたんですか」
「なにも……」
 否定すれば、するほど。
 本当、のことだと、声が震える。
 花珠保の震える声を聞くほど、不思議と、博則のどこかはひどく冷静になっていった。だから、その冷静の部分で喋った声は、花珠保には、ひどく、冷たい声に聞こえたかもしれない。
「なにも、していない、ですか?」
 小さく、小さく、何度もうなずく花珠保の首筋に触れた。
 こわばる花珠保は、泣きそうな顔をして、泣かない。
 首筋をなぞり上げて、耳からあごへのきれいなラインをたどる。仰向かせると、花珠保の眼差しは、博則を逸れる。
「僕を、見てくれたら」
 泣きそうだったのは、博則のほう、だったかもしれない。
「僕のものになってくれるなら、そういうことにしてあげても、いいですよ」
 花珠保が、博則を見た。
 目が合った、その一瞬のために。
「天沢とセンパイは、なにもなかった。そういうことにしてあげてもいいですよ」
「……いいも、なにも。もともとなんにもなかった、よ」
 花珠保は強情だ。でなければ、ここまで、こんなに、何年も、その事実を隠し通せたわけがない。
「じゃあ、からだに、聞いてみていいですか」
「え」
「僕の知ってる限り、センパイ、だれともちゃんと付き合ったことない、ですよね。処女ですか? 違いますか? もしも、誰かに一度くらい抱かれたことがあったとしても、慣れて、ませんよね」
 一方的に重ねたくちびるは、冷たかった。血の気の失せた花珠保のくちびるは、柔らかくて、冷たい。
 これが、初めて、このひとに触れた感触か、と思う。
 花珠保はぎこちなくて。ほんとうに、だれも、このひとに触れたことなどないんじゃないかと思う。もしかして、ひどいことをしているんじゃないかと、思う。
 でも。
 一志以外が触れたことがない、から。だからぎこちないんじゃないか、とも思う。
 相手が自分だからぎこちないのかもしれない。
 ちがう、一志以外は受け入れたくないだけなのかもしれない。
 こんなふうにひどくしなければいいだけのことなのかもしれない。
 わからない。
 ……わからない、振りを、した。



































** 数年後1(花珠保18歳 広田博則君踏まれたり蹴られたり編)**


 腕を、掴まれて。振りほどけなくて。
「広田……くん?」
 花珠保は博則を見上げた。以前から博則のほうがずっと背が高かった。その差は広がるばかりだった。
「どうしたの? 一志ならもうすぐ、帰ってくると思うよ?」
「そーじゃなくて」
「なあに?」
「わかってるくせに」
「わからないよ?」
「ほんとうに? じゃあ、もう一回言う? ていうか、もう59回目くらいなんだけど。僕と付き合ってください」
「まだ、30回目、だよ?」
「そうでしたっけ? あれ、サバ読みすぎた」
 博則が笑ったから、花珠保も笑った。
 けれど、腕はほどかれないままで。
 花珠保は、心の中、だけで、もうすぐ一志が戻ってくるはずの玄関先を気にした。博則に気付かれないように、気にした。
「ねえ、センパイが本当に好きなのは、誰? 僕、けっこうセンパイと付き合い長いと思うんだけど。それでもわかんないのは、センパイが隠すのがうまいから? それとも、本当はそんな人、いないから?」
「……いない、よ」
「そう?」
「そうだよ」
「でもセンパイ、デートにはよく誘われて出かけてるみたいだけど、ちゃんと付き合った人って、いないですよね。本命が、いるんじゃないの?」
「広田君には、内緒」
「内緒、ですか」
「内緒です」
 腕を、掴んだままの博則の手を、押し退けながら、
「わたしが、本気になれないだけ、だよ」
「センパイが?」
「うん。広田くん、もね」
「僕も?」
「だって広田くん、付き合ってって言われるのはこれで30回目だけど、好きって言われたことないもん」
「それは……」
 博則の手が緩んで、花珠保から離れた。
 博則は、嘘を、言うように。口元で笑って、一志の帰りを待つために、ソファに深く、かけた。
「それは……だって。僕が好きって言ったら、センパイ、壊れちゃうもん」
「……壊れる?」
「センパイの中には天秤があって。その天秤はもうずっと前から、片方にだけ、何かが乗ってて、重くっていっぱいに振り切ってて。でも、いっぱいに振り切ってるそれが、もう、センパイのバランスだから。僕が、もう片方に乗ったら、バランスが崩れて、天秤、壊れちゃうでしょ?」
「……変な、例え話だね」
 花珠保は、全部をごまかして笑うと、博則は、全部をごまかされるように、笑った。
「そー、ですね」
 これで、30回目。
「ちらっと、センパイが、センパイの好きな人を見せてくれたら、僕、それで諦められるのになあ」
「だから、いないってば」
「ほんとですかーーー? じゃあ、やっぱり僕と付き合いません?」
 タイミングよく帰ってきた一志が、呆れ顔で博則を蹴飛ばした。
「おまえそれ、500回くらい言ってねえ? いい加減諦めろっつーの」
「まだ31回だってば。あ、天沢はセンパイの好きなひととか知らないの?」
「知るか。おまえだって、おまえの姉貴の好きなやつとか付き合ってるやつとか知ってんの」
「知らない、けど」
「ほらみろ」
「えーーー」



































** 夏の夜(花珠保)**


 きちんと閉まっていないドアの隙間から漏れてくる明かりと冷たい空気に、花珠保は自分の足元を見下ろして、ドアの隙間をうかがった。
「……一志?」
 まだ起きてるの? とドアを開く。
 一志は眠っていた。
 クーラーをつけっぱなしで、電気もつけっぱなしで。寝る寸前まで読んでいたマンガ雑誌がベッドの脇に落ちている。蹴飛ばしたタオルケットが、ベッドの隅でくしゃくしゃになっている。
「……もー」
 花珠保は折れ曲がったマンガ雑誌を机に置いて、タオルケットをかけ直す。三十分だけクーラーのタイマーをかけて、電気を、消そうと、した、ら。
 寝返りを打った一志が、タオルケットの中で丸まる。
 寒い、のかな。と思って、クーラーを切ろうとするより先に、一志の寝顔を見た。
 起きているときは生意気なことばかり言う口は、今は、おとなしく閉じている。振り返るとかためらうとかを知らないみたいな目も、今は、閉じている。同じ、お父さんとお母さんのこどもなのに、一志のほっぺは、なんだか自分より、皮膚が少し薄い、みたいな、気がする。
 一志の頬に親指の腹で触れた。
 一志は起きない。
 起きない頬を、撫でようと、したのを、やめて。
 つまんだら、
「ん……」
 つままれたことにびっくりしたみたいに、一志の呼吸が少し、つまった。花珠保は慌てて手を離す。
 頬の、つまんだ場所が少し赤くなっていた。
 赤くしたところを、どうしようか少しだけ、考えた。
 もう一度、撫でようか。それとも……。
 ……それとも。
 結局、なにもしないまま。
 自分の部屋に、戻ろうとしたのに。
 目を、開いた一志が、
「……ねー、ちゃん?」
 寝ぼけた声で、夢でも見てるみたいに呟いた。
 花珠保は、なにも、なかったみたいに。
 なにも、しなかったみたい、に。
「もー、電気とクーラーつけっぱなし。タオルケットもちゃんとかぶって寝なさいよ。おなか出して、風邪ひいても知らないから」
「……おー?」
 一志は、目が覚めるなりどうして怒られていいるのかわからない様子で、包まったタオルケットの中でもぞもぞする。
 こういうときの一志は、だいたい、次の日にはなにも覚えていない。
 だから花珠保も気にせず、適当に、
「なんでもない。おやすみ」
 適当なことを言って。
 部屋の電気を消した。
 ……消した、ところで。
 背中から、ぎゅっと、抱きつかれた。
 少し、開いたままだったドアを、背中から伸びた手が閉めた。その手が、下から、順番に、花珠保のパジャマのボタンをはずした。
「ねーちゃん」
「な、に?」
 ごそごそと、素肌を撫でながら、
「ほっぺ、痛い」
 ボタンをはずし終えた手が、
「なんでつねんの、人のほっぺ。痛いじゃん。舐めてよ」
 花珠保の髪を引っ張る。痛くはない。引っ張られて、向きを変える。向かい合う。
 花珠保は一志の頬にくちびるを押し付けた。違うじゃん、と一志は自分の頬を指で、示しながら、
「舐めて」
 花珠保も、一志の頬に触る。
「痛……かった?」
「痛かった」
 痛いほどには、強くつまんでない、けれど。
 カーテンの向こう側でこうこうとしている街灯の灯りを頼りに、花珠保は一志の頬を舐めた。一瞬だけ、一志が、花珠保の舌の感触に緊張する。
 一瞬、だけ。
 すぐに、頬を舐めた舌を追いかけて捕まえられて、深いキスになった。
「んっ。……ん……」
 今まで、寝てた、から。
 寝ぼけてたみたいに、ぼけぼけとした口調で喋ってた一志、が。
 今まで、眠ってなんかなかったみたいに。
 強い力で引き寄せられて、反射的に花珠保は抵抗した。
「かず、し……っ」
「ねーちゃん、じゃん」
 なにが? と聞きたくて、一志を見た、ら。
「ねーちゃんが誘ったんじゃん」
 寝てた、一志を。
「そー、だろ?」
 と、聞かれ、た。
「そーじゃん。そーだろ? そーだよ、な?」
「……うん」
「珍しーことも、ある、よなあ」
「そう、かなあ」
「そーだよ。そーじゃん」
 珍しいことが、おもしろいみたいに。
 一志は花珠保にキスをして、花珠保の、頬を撫でた。
「んじゃ、しよ」
 頬を撫でた手のひらが、首を撫でて肩を撫でて、腕をたどって。たどり着いた花珠保の手のひらを掴んだ。
「しよ。早く。……早くっ」
 手を、引いて。ベッドに誘う。
「……うん」
 手を、引かれて。
 くしゃくしゃのタオルケットの上に、寝転んだ。



































** 夏の夜(一志)**


 小さな、小さな音が、聞こえたわけがない。のに。
 小さな、小さな音で目を覚ました。
 なにかに、呼ばれたよう、だった。
 足元に蹴飛ばしていたタオルケットを掴んで、滑り落ちるようにベッドから降りて、一志はまだ眠っているようなまなざしで、あくびをする。
 隣の部屋で、花珠保は受験勉強中、だった。もうずいぶん遅い時間なのに、勉強机に向かっている。でも。
 もうずいぶん遅い時間、だったから。
 花珠保は、勉強机に突っ伏して、眠っていた。
 指先に、シャープペンシルが転がっていた。
 シャープペンシルを転がした、小さな、小さな音が。
 そんな小さな音が、隣の部屋から、聞こえたわけじゃ、ないけれど。
 一志は、うつ伏せてあらわになっている花珠保の首筋にくちびるを押し付けた。
 花珠保は目を覚まさない。
 きつく、吸って跡をつける。
「……すげえ、起きない」
 見る間に、吸った跡が、より赤くなった気がして、突然一志は慌てた。
「……怒られる」
 なんだかよくわからないけれど、そんな気がする。はっきり目が覚める。今までちょっと、寝ぼけていた。でも、寝ぼけていた、と言い訳しても聞いてくれない、に違いない。
 親とか、クラスメイトとか、部活のチームメイトに、見つかったら。どうするんだと、きっと怒る。
 一志は花珠保の髪を、つまんでみた。
 なんとか……、
 この花珠保の体勢だと、跡が、目立つけれど。
 多分、普通にしていれば、なんとか、目立たない、かも、しれない。
 花珠保の髪をこそこそといじって、跡を、隠したくて、ずっと持っていた自分のタオルケットを、花珠保の肩からかけた。……でも、隠れない。
 タオルケットを、頭から、かけてみた。
「…………まずい」
 これはすごく、不自然だ。
 どうしていいかわからなくなって、タオルケットの上から花珠保に抱きついた。
「……ん……?」
 一志の重みに、やっと花珠保が目を覚ます。
 花珠保を起こすつもりなんてなかった一志はさらに慌てて、勉強机の端にいつも置いてあるかばのぬいぐるみを、花珠保の鼻先に置いた。
 花珠保はぼんやりとかばのぬいぐるみを見て、かばのぬいぐるみだと判断して、わあ、と目を覚ました。
「え、あれ? 弟子そのいち?」
 弟子そのにはうさぎのぬいぐるみで、弟子そのさんはかえるのぬいぐるみで、弟子そのごはねこのぬいぐるみで、弟子そのろくはくまのぬいぐるみで、ちなみに弟子そのよんは、四という数字が縁起が悪いので欠番になっている。
「……なんで弟子そのいち?」
 かばのぬいぐるみを机の隅に押しやって、花珠保はからだを起こす。頭から、肩口から、落ちたタオルケットを見下ろした。
 色が違う、から。自分のタオルケットではないとすぐにわかる。
「一志?」
 一志が、かけてくれた、のはいいけれど。じゃあ一志はなにをかぶって寝ているんだ、とすぐに心配する様子の声を、一志は、花珠保の、タオルケットに包まって聞いていた。
 とっさに隠れてみたけれど。
 花珠保のベッドで、花珠保のタオルケットの中で。
 実はぜんぜん隠れていない。
 椅子の向きをくるりと変えた花珠保の声が、
「……なにやってるの?」
 すぐに一志を見つける。
 一志はこっそり顔だけ出して、
「弟子そのいちと、ねーちゃんの寝ずの番」
「……じゃあ、一志が寝てないで、わたし、起こしてよ」
「起きたじゃん」
「弟子そのいちに起こされた、ような気がする、けど」
「おれおれ。すごいおれ。おれが起こした。ぎゅっとして」
「じゃー弟子そのいちは別にいらないでしょ」
「そんなことはない」
 なんだかいろいろすごく、ばれているようなきはしたけれど、一応、しらばくれてみる。花珠保が、何気なく、自分の首筋を撫でたのにぎくりとする。花珠保はぎくりとする一志を見逃さない。
「なにか隠してるでしょ?」
「隠してない」
「ほんとに?」
「ほんとほんと、すごくほんと」
 すごくうそくさい、という顔を花珠保がする、けれど。一志は知らん振りをする。
 花珠保は諦めて、
「……シャワー浴びて寝よう」
 床に落ちた一志のタオルケットを一志に返しながら、
「わたし、もう寝るから。一志も寝ていいよ。寝ずの番ごくろーさま」
「おれもシャワー浴びて寝る」
「じゃあ、先にどーぞ」
「一緒がいー」
「イヤ」
 つーん、と花珠保は横を向く。
「正直に言わないと、イヤ」
「……言ったら、一緒に入る?」
「いいけど」
 顔だけ出していた一志は、勢いよくベッドから飛び降りて、花珠保の首筋を指差した。
「ここここ、ちゅーマークつけちゃった」
 えへ、と正直に言う。言った直後、花珠保に頬をつままれた。
「痛い痛いっ」
「この、正直者っ」
「ねーちゃんが正直に言えっつったんじゃんっ。てゆーか、呼ばれた。おれなんかに呼ばれた。すっげ小さい音に呼ばれました」
「なにそれ。なに言ってるの。やーだ、もー。こんなところに……。明日から気になっちゃうでしょー?」
「ふつーにちゅーしてる時点でねーちゃんが気付かないから悪いんじゃん」
「ひとのせいにしないでー」
「なんだよっ。んじゃ、そんなトコ気にならないくらい、他にいっぱいつけちゃう?」
 いい案だと思ったけれど。今度は両頬をおもいきりつままれた。一志は観念して、
「ごめんなひゃい、ごめんなひゃい」
 謝れば、花珠保が許してくれることを知っている。離された両頬をさすりながら、そんなに身長が違うわけでもないのに、上目遣いで、すねて、しょんぼりして、花珠保のベッドで花珠保のタオルケットをかぶって丸くなる。
「こーら、自分の部屋で寝てよ」
「やだ」
「……もー」
 仕方なさそうに、花珠保が一志のタオルケットを抱えて部屋を出て行こうとするのに慌てて飛び起きて、
「シャワー浴びる? おれも行く? そんで一緒に寝る?」
「なに言ってるの」
「だってなんかさあ」
「なによ」
 と言われて、一志は耳をすませる。小さな、小さな音が、なんだか……。なんだろう、よく、わからないけれど。
「とにかく、なんか、なんとなく」
「なにそれ。意味わかんない。一志はもうそこで寝てていいよ。わたし、一志の部屋で寝るから」
 じゃあおやすみ、と言った花珠保が持っていた自分のタオルケットを引っ掴んだ。引っ掴んで抱きかかえて。意地になったら、同じように意地になった花珠保にタオルケットごと引っ張られてベッドから落ちて、フローリングを五十センチほどずるーと引きずられた。引っ張り返すと、花珠保はバランスを崩して座り込む。
 それでやり返した気になって、気が済んで。しょうがないから。花珠保は勉強で疲れているし、しょうがないから。もう、おとなしく自分の部屋にしょうがないから退散しようと思った、けど。
 座り込んだ花珠保は、短パンにTシャツ姿だったから。それで座り込んだりするから。一志は、あらわになった太ももに、触った。
 花珠保が、文句を言うより先に、
「どーしよー。やりたい」
「……どうしよう、じゃないし。……いや」
「ヤだ、やる」
 花珠保の、肩を押して倒した。短パンを引き摺り下ろす。
「一志……っ」
「ヤらせて。すっげ、ほんと、お願い」
「ど……してそんな急にっ」
「急にじゃない。実はちょっと最初から。でもねーちゃん、一緒に風呂入ってくれないし、寝てくれないし。これは男の生理現象だし」
「そんなの知らないしっ」
 横を向く花珠保のくちびるを追いかけてキスをして、短パンを引き摺り下ろした場所に指を突っ込んだ。
「んんっ!」
 声を、あげそうになった花珠保はとっさに口を両手でふさぐ。そんな仕草でキスを邪魔されて、一志はさらに奥に指を突っ込んだ。
「……ぅ、あっ」
 漏れる、声に。気分がよくなる。
 指先で、花珠保の中を責め続ければ、すぐに、濡れてくる。
「ねーちゃんだって、女の生理現象、起こってるじゃん」
 だってそれは一志がっ、と睨まれても。
「ヤる気になった? んじゃ、ヤろー」
 花珠保の、口をおおう両手を引き剥がす。その口が、喘いで、呼吸する。頬を撫でて、噛み付くようにキスをした。キスの合間に、指だけで、花珠保がイくのを一度見て。
 一志は、ふと、目に止まったものに、笑った。
「な、に……?」
 聞く花珠保に。
「弟子そのいちが見てる」
「……見られたくないならやめてよ」
 かばのぬいぐるみに、
「なんでだよ。むしろ燃える」
 かばの、ぬいぐるみに、
「……なに言ってんだか」
 諦めたように。花珠保が、一志の頬を撫でた、から。
「ねーちゃんは、弟子そのいちの視線、気になんの?」
「……ちょっと」
「……なんでだよ」
 かばのぬいぐるみに。一志は脱いだ自分のTシャツを投げ付けた。ぬいぐるみは机から落ちて、向こうを向く。これでいいだろ、という顔をすると、
「かわいそうなことしないで」
「…………だからなんでだよ」
 一志は花珠保の膝に手をかけながら、
「かばばっか見てんな」
 花珠保の、頬を撫でる。キスをする。熱い中へ入り込む。体重をかける。花珠保の、一志を受け止めた声を聞く。また……。
 小さな小さな音を。
 聞こえたわけでもないのに聞こえたような音が、耳元でした、けれど。 見ても、机の上のシャープペンシルが勝手に転がったわけでなし。ほかのなにかの音だったのか、なんなのか、知らないけれど。
「ねー、ちゃん……」
 欲しいものなら、手の中にある。ほかは別にどうでもいい。小さな小さな音なんて、どうせ、花珠保の声がすぐにかき消す。かき消させるよう、に。一志は花珠保のからだを大きく揺らした。



































** 桜話 **


 花珠保が桜を見上げると、決まって、一志は花珠保の手を引いた。
「ねーちゃんっ」
 乱暴に、呼んで。乱暴に、手を取って。
 花珠保が桜から目を離して、一志を見るまで、ずっと、手を引いた。

 一志が桜を見上げていると、花珠保は、そばで、一志が花珠保に気が付くまで、一志を見ていた。
 一志を呼ばない、けれど。
 そのうちに一志が、桜に飽きたように、花珠保を探す仕草をして、花珠保を見つける。……見つけるまで、待っている。
 一志はそんな花珠保が理解できないように、
「突っ立ってないで、呼べばいーじゃんっ」
「なんで?」
 呼ばなくても、一志は振り向くのに。それが花珠保の言い分で、
「呼んでくれれば、おれが、もっと早くねーちゃんに気付けるじゃんっ」
 それが、一志の言い分。



































** ホワイトデー **


「はい、じゃあよろしく」
 花珠保に大きな紙袋を渡されて、一志はものすごくイヤそうに、
「……いってきマス」
 花珠保に見送られて玄関を出た。……と、思ったらすぐに戻ってきて、
「寒いっちゅーのっ。ねーちゃん、マフラー取ってきて、マフラー」
「そんなに寒い?」
「すっげ、雪降ってきそう」
 まだパジャマ姿の花珠保は、ふーん、と自分は寒くないので人ごとのように呟く。一志に、マフラー! とじたばた足踏みされて、一志の部屋からマフラーを取ってくる。少し、時間がかかった。
「遅いっ」
「だって、マフラー、どこにあるのかわかんなかったんだもん」
「いつもんとこじゃん」
「クローゼットの真ん中のとこでしょ」
「そー」
「そこになかったから探したの」
「なかった?」
「なかった。なんか、なぜか、くつした入ってる引き出しにぎゅうぎゅうになって入ってた」
 一志は、あれ? と小首をかしげて、
「なんでそんなとこ入ってんだよ」
「……知らないし」
 台所から、母親に、
『一志、早く行かないと、朝練に遅れるわよ』
 急かされて、一志は花珠保にちょこんと頭を下げた。マフラーを、
「巻いて巻いて」
 片手には紙袋を、片手には、陸上部の用具と授業の用意を詰め込んだスポーツバッグを持っている。
 花珠保はマフラーを、ぐるぐると一志の首に巻いて、襟首で結んだ。
「さーんきゅー」
 口元にかかるマフラーのせいで声がくぐもる。はいはい、いってらっしゃい、と手を振る花珠保を、一志は玄関の、一段下がった場所から見上げる。じっと見上げる。
 なあに? という顔を花珠保がすると、
「……別に」
 なんでもない、と一志は玄関を出て行った。今度はしばらく待っても戻ってこない。
 台所に入ると、花珠保の朝食の支度だけ、してあった。父親はもう出勤している。母親も食事を済ませ、出かける準備をしていた。
「一志、行ったの?」
「うん、外、すごく寒いみたい。お母さんもあったかくしてったほうがいいよ」
「もう三月なのに、ひどい寒のもどりねえ。花珠保の卒業式の日は暑いくらい暖かかったのに」
 そうだねえ、と返事をしながら、花珠保はいただきますをして食事を始める。すぐに、母親も仕事に出かけていく。
 ひとりきりになった家の中で、花珠保は、自分を見上げた一志を思い出した。
 あれは……。
 花珠保だけ家でぬくぬくしているのをうらやましがっていたのか。それとも、もう一緒に朝練に出かけることがないことにまだ慣れていないのか。それとも。持たされた紙袋に対してもっとなにか文句が言いたかった顔、なのか。それとも……。
 ……なんなんだろう、な、と思いながら。
 飲み慣れた味噌汁を飲み込んだ。


 玄関で、花珠保を見上げてた理由が、本当に伝わってなかったんだろうか、と思って、一志は思い出すたびに、
「ちぇー」
 と隠す気もなく呟いていた。
 朝、花珠保に持たされた紙袋は、バレンタインデーのお返し、だった。バレンタインデーに花珠保にチョコレートをくれた女の子たち、へのお返しだった。
『ねーちゃん、もうそつぎょーしたんだから、ほかっときゃいーじゃん』
『そういうわけにもいかないでしょ。時間あったからクッキー、焼いただけだし。これ、名簿ね。一年と二年の子に、ちゃんとお返ししといてね』
『……だから、なんでおれが』
『だから、わたし、卒業しちゃったから』
『おれ、自分のお返しとかもないのに。いーじゃん、オカエシなんてさあ』
『一志がいいじゃんって思うのは一志の勝手だけど、わたしは思えないからお願いしてるの』
『お願いぃ? 強制じゃん』
『違うもん。それが一志のホワイトデーでいいよ?』
『おれの?』
『どうせ、おねーちゃんにお返しとか、用意してないでしょ』
『……してない』
『だから、ひとつ、おねーちゃんのお願い聞いてよ』
『って、ねーちゃんだって、バレンタインデー、おれ、父さんとケーキ半分コだったじゃん。うわ、違うじゃん。広田いたし、三分の一ずつだったじゃん。それのお返しこれって、なんか、おれ、損してない?』
『してないしてない。一志のクッキーもあるよ? ちゃんとお使い済ませて帰ってきたら、あげる。あ、こっちの大きいのは部活の子たちで分けてね』
『…………うぇーい』
 ということで、休憩時間ごとに一志はクッキー配達人をしていた。途中で何度かやめようかと思った。黙っていればわからない。けど。
 わからないけど、わからないけど、もしもバレたらどうしよう、と思うとなかなか勇気を出してほったらかしにすることも出来ない。
「……おれ、絶対なんかねーちゃんに操られてる……」
 帰ったらいろいろ……いろいろお礼をしてもらわないと気がすまない気分になってきた。まず、ちゃんと「ありがとう」と誠心誠意言ってもらう。好きな夕食を作ってもらって、しかも大盛で。風呂は花珠保の後に入ると、なんだかわけのわからない色と匂いのする温泉のモトとか入れられるので、今日は先に入る。……じゃなくて、一緒に入る。父親と母親は遅いから、一緒に入る。食事の片付けと洗濯の後、とか言わせない。絶対言わせない。でももしも言い張ったらそのときはなんだか逆らえないから、そのときは……。


「センパーイ。天沢センパイ」
 人ごみで見つけた姿を大声で呼ぶと、花珠保はきょろきょろとかわいらしく辺りを見回して、それからやっと背後に博則を見つけた。
 博則は無事に見つけてもらったことになんだか安心をする。
「不審がって逃げられたらどーしよーかと思っちゃいました」
 花珠保はスーパーの袋を片手に、そんなことしないよ、と笑う。
「広田くんの声だってわかったから、逃げないよ?」
「そうですか? センパイ、買い物。夕食の支度?」
 失礼だとは思いつつも、なんとなく、買い物袋の中を覗き込む。相変わらず、博則の絶対に買ったりしないような食材を花珠保は買い込んでいるようだった。
「すげ、余裕って感じなんだけど、センパイ、受験はどーでした?」
「余裕じゃないけど、済んじゃったものは今さらどうしようもないし、あとは合格発表待つだけ、だし」
「そんなもん?」
「そんなもん、だよ。それより、広田くんはどうしたの? こんなところまで。あ、一志と遊ぶ約束とか?」
「じゃなくて、先輩に、ホワイトデーしようかと思って」
 忘れていたわけではないけれど、慌てて思い出したように、博則は背負っていたスポーツバッグとは別に、大事そうに持っていた小さな紙袋を花珠保に差し出した。
「チョコケーキ、どーもでした」
「え、それのお返し? わざわざいいのに。広田くん律儀だねえ」
 花珠保は紙袋を嬉しそうに受け取って、
「ありがとう。すごい、わたしホワイトデーに男の子からもらうの初めてだ」
「え、まじっすか?」
「うん」
「じゃー、僕がセンパイの初めてのオトコですね」
 博則がホワイトデーに女の子にクッキーを買ったりしたのも初めてで。
「でもって、センパイは僕の初めての女の人だったり……ぐえ」
 仲良く並んで歩きかけたところを、背後から蹴飛ばされて博則は派手にすっ転んだ。
 一志が、博則を踏みつけようとしながら、
「往来でいかがわしー会話すんな」
 遠慮なく、博則を踏みつける。
 博則は踏みつけられながら、
「天沢……たいむたいむ。僕、死んじゃうから」
「死ね」
 さらに踏みつけようとする一志を花珠保が止める。
「こーらー。怖い会話しないで。乱暴もしないで。もー、これだから男の子って」
 一志を取り押さえて、なだめて。花珠保は博則に手を貸す。
「広田くん、大丈夫? 背中、一志の足跡ついてる……」
 紺色の学生服についた白い足跡をはらって、ふくれっつらで立つ一志の頬をつねって引っ張る。
 おとなしく頬を引っ張られている一志を見て、博則は吹き出した。
「広田、笑いすぎっ」
「えー、だっておもしろいじゃん」
「おもしろくないっ」
 ふたりのやり取りを花珠保はきょとんと眺める。蹴飛ばしたり踏みつけたり、喧嘩しているのかと思えば、そうでもない、らしい。
「ねーちゃん、買い物済んでんの? あと帰るだけ?」
「うん」
「じゃー、帰る。はい、広田はばいばい」
 一志はばいばい、というよりも、追い払うように手を振る。博則も、用事が済んで、ひどい扱いも受けて、じゃあ、と振ろうとした手を、花珠保に掴まれた。
「広田くん、から揚げ好き?」
「……はあ?」
「鶏肉、安かったの。たくさん作るから、たくさん食べてく?」
「いい……んですか?」
「うん、食べてって、食べてって。クッキーのお返し」
 なんだそれ、と一志が抗議すると、花珠保は嬉しそうに得意そうに博則からもらった紙袋を一志に見せた。
「見て、祝、初ホワイトデー。いっつもお返しするほうだったから、すごい、新鮮。嬉しい。やった」
 花珠保はもらった紙袋を大事に持って、買い物袋を一志に押し付ける。
「え、ちょ、ねーちゃん。それは暗黙に、おれに催促してんの?」
「してないよ。一志、ちゃんとクッキー配ってくれたんでしょ? だったらそれで大満足」
「……ほんとにい?」
「ほんとほんと」
 歩き出す花珠保について歩く一志に、博則もついていく。
「でもセンパイ。お返しのお返しって、キリ、なくないすか?」
「そう? じゃあ、お返しはここで終了。ふたりともおなかすいてる?」
 それはもう、と返事をする一志と博則に、花珠保は笑顔を絶やさない。
「じゃあ、すぐに支度するから、それまでにふたりとも、宿題やっちゃってね」
 慣れたセリフに、一志は鶏肉を振り回して歩きながら、はいはい、と返事をする。
 博則は感心したように、
「宿題、だって。センパイってほんと、おねーちゃん、なんだなあ」
 なあ、と一志に同意を求めると、一志は、なに言ってんだ、と言いたげに。
「ほんともなにも、ねーちゃんじゃん」


 居間の机で、博則は言われたとおり宿題をはじめる。よその家で宿題をやるなんて、なんだかおかしなことになってるなあ、とは思ったけれど。一志もおとなしく宿題を広げるのがおもしろくて、そのまま続ける。
 花珠保は食事の支度を始める。一志が一度席を立ったことは、そんなに気にはしなかった。
 席を立った一志は、台所で、鶏肉のパックを開ける花珠保を見ていた。しばらく、手元を一志に見られていた花珠保は、
「どうしたの? わかんない問題、あった?」
「てゆーか」
「なに?」
「おれの今日の予定、すごい、めちゃくちゃなんだけど」
「予定?」
「クッキー配ったお礼に、うまいもん作ってもらって、一緒に風呂、入って」
「……お礼のお礼?」
「そー」
 花珠保はふと手を止める。塩とかコショウとかが欲しいんだ、ということはわかったけれど、一志は塩とコショウがどこにあるのかよく分からない。
「お風呂、は無理じゃないの? 一志、広田くんとご飯の後ゲームするとか言ってなかった? お母さんたち、帰ってくるよ」
「だからっ」
 ……だから。
「予定、めちゃくちゃだって言ってんじゃん」
 鶏肉の油で花珠保の手が汚れる。
 一志は、汚れていない自分の手で、花珠保の頬を撫でた。花珠保は、嫌がらずに、小さく笑う。
 一志は向こうの部屋の博則を気にしつつ。
 撫でた花珠保の頬に、くちびるを押し付けた。
「……あいつ、いなかったら、今、ここで、やれるのに」
「油、あぶないよ」
「……うん」
 居間から、
『天沢ー、辞書貸してー』
 博則の声に、おう、と応えて。一志は、もう一度花珠保の頬を撫でた。くちびるにくちびるを寄せて、触れて。
 それだけじゃ物足りなくて、二度、三度、舌を絡めて、離れた。
「……ねーちゃん。今日、とーさんとかーさん、寝静まったころ、起きてろよ。受験、終わったんだし、いーだろ。何回でも、泣くまでイかせるから、覚悟しとけ」
「……一志も、泣くまでする?」
「なんでおれが泣くんだよ」
 それもそうか、と花珠保は棚から塩の小瓶を取る。油で滑って落としそうになるのを、一志が受け止めた。
 受け止めた場所から、花珠保を見上げる。
 見上げて。
 見上げられて。
 キスを、したくて、キスをした。向こう側でする博則の気配に、ぞくぞくする。今すぐここでしてもいい気分に、なる。
 でも、できない、から。
『天沢ー、早くー、辞書ー』
 呼ばれて台所を出て行く一志を、花珠保が呼び止めた。
「一志」
「んー?」
 花珠保に呼び止められた一志は、特に、振り向かないまま、で。
「一志も、ちゃんと起きてて、よ」
「……おう」
 ふたりだけの、秘密の約束を、した。



































** ビデオとココア **


 ぶれた画像でぐらぐらしてるテレビ画面の中で、母親の声がする。
『かず。かーずーちゃん。花珠保、一志』
 母親が構えているビデオカメラに、小さな花珠保が急にアップで映って。
 近付くビデオカメラを、花珠保が触ろうとする。母親はそれをひょいと避ける。画像が大きく上下して、つかまり立ちをやっとのことでしている一志を映した。一緒に若い父親が映っている。
 おかーさん、おかーさん、と画面の隅から花珠保の声がする。今はもうないちゃぶ台につかまって立っている一志を目では心配しつつ、父親が花珠保を抱き上げた。
 ビデオカメラが花珠保と父親に向く。
 母親は相変わらず声だけで、
『花珠保、おとーさんにちゅー』
 ちゅーと言われて、条件反射で。小さな花珠保はきゃっきゃと笑って、父親が、ちゅーと寄せてくるくちびるにちゅーをする。
『花珠保、花珠保、おかーさんにもちゅー』
 父親から花珠保を抱き上げた母親は、ビデオカメラを父親に渡す。画面がまた大きく何度か揺れて、次には母親にちゅーをする花珠保が映る。
 花珠保が、カメラに向かって、両脇を持たれた姿でぶらーんとアップになる。ぶらぶらと揺らされて、よく笑う。
『はーい、花珠保、一志にもちゅー』
 まだ、ちゃぶ台につかまったままの一志の横にちょこんと下ろされて。
 花珠保は一志にも同じようにちゅーをする。それからぎゅうと抱っこを、する。
 そんな、昔の映像を見ていた母親は、
「うちの子、さいこーにかわいいと思うんだけど。親の欲目? ねえ、どう思う? 花珠保、どう思う?」
 花珠保はずっと、母親と一緒におもしろそうに映像を見ていた。
「お父さんもお母さんもわかーい。一志、ちっちゃいね」
「そー、ほら、見て。このあと、花珠保に抱っこされて暴れて、ふたりしてすっ転んで、どっちかっていうと下敷きになった花珠保のほうが痛そうだったのに、花珠保クッションにしてぜんぜん痛そうでもなんでもなかった一志が大泣きしてね、ビデオどころじゃなくってね」
 母親の言うとおりのシーンを映したビデオは、最後、泣く一志に慌ててぐらぐら揺れて、ぶちりと切れた。
 母親はしみじみと、
「こんな小さいときから、一志は一志で、花珠保は花珠保なのねえ」
 ねえ一志、と見向くと、部屋の隅で見たくなさそうに見ていた一志は、なんとなく、青い顔をしている。どうしたの? と花珠保が寄ると、
「…………手ブレに酔った」
 気持ち悪い、とぐったりしながら、
「もーちょっと、ちゃんと撮っとけ、よっ」
「それが、手振れ防止ボタンとかに気が付いたの、このあとでね」
「あほだ……」
 何気なく一志に触った花珠保の手が、冷たくて。
 一志は花珠保の手を掴んで自分の額に押し当てた。
「ねーちゃん、きもちいー」
 自分のもののように手を、離さないまま、
「つか、そんなモン撮っとかなくっていーし。撮っといても、わざわざ、思春期の息子に見せてくれなくていーっての」
「なに言ってんの。昔の記憶にもない自分の姿にもだえるあんたたちを見るのが楽しいんじゃない」
 ねえ、おとーさん、と母親は父親に同意を求める。父親はなんとなく、気分的には一志の味方なのだけれど、一応、母親には逆らわずに、そうだねえ、と言ったりする。
「一志、ビデオ見るの好きじゃないの?」
「ねーちゃんはへーきなのかよ」
「うん? おもしろいよ? 一志かわいい。おむつでおしりまるっとしてるのが」
 ほんとにかわいいよ? と言いながら、笑う。
 ねえ、かわいいわよねえ、と母親も笑う。
 さすがになんだか一志に同情的に、父親はどこか乾いた笑みを作って。
「……あー、そう。おれかわいい。やったー。家族のあいどるー」
 一志はどうでもよさそうに適当に言う。
 ビデオを止めた母親が、
「じゃあ、我が家のアイドルさまたちにお茶でもいれてあげようか? おかーさんたちコーヒーだけど、花珠保と一志はココアでいい? コーヒーがいい? 紅茶? 緑茶? 梅昆布茶?」
「ココア」
 ふたり仲良く同じ注文をして、父親はコーヒーの豆挽き係りに任命されて母親と一緒に台所に入る。
 一志は花珠保の手を掴んで自分の額に押し付けたまま。
 花珠保は一志に手を、掴まれたまま。
「わたしも、お母さんたちのお手伝い……」
「ねーちゃんは、おれにちゅーして」
「は?」
「はーい、花珠保、一志にもちゅー」
 一志は昔の母親の口真似をする。
「……なに、言ってんだか」
 振り払おうとしたした手を振りほどけずに、立ち上がろうとしたところを抱きかかえられて。花珠保は一志に捕まって。座り込んだままの不自然な格好で抱き締められた。
「……ちょっとだけで、いーから」
「でも」
「とーさん、豆挽くのとろいじゃん。時間かかるからへーきじゃん」
「……そう?」
「そーじゃん。てか、なんで」
 顔を、近付けると逃げて退く花珠保の顔を追いかけて、押し付けるようにキスをして。キスをして、捉えたくちびるを吸って、一度、ざらりと舌を舐めた。
「なんで、ちーさいときは、ちゅーちゅー、親公認でやってんのに、今はだめなんだよ。そーゆーの不思議じゃん?」
 触れたのに、離れて喋る一志のくちびるに。
 花珠保は一志の背中に回した手で、背中のシャツを掴んで、一志を引き寄せた。
 喋ってる時間が惜しい、みたいに。くちびるを重ねたら。
 舌の奥までねだるように、一志は花珠保に覆いかぶさった。抱き締めて、抱き、抱えて。漏れそうになる息は飲み込んだ。
 ちょっとだけ、といった言葉は、忘れた、みたいに。
 もっと、と求めて。
 もっと、ずっと、そうしてたかったのに。
 台所で、お盆にコップを四つ、置く音がした。
 ゆっくり離れて、ふたり、お互いの濡れた口元をぬぐった。
 ぬぐった手も、離れる。
「か、ずし……あとで、わたしの部屋、来る?」
「……うん」
 ふたりの、会話を、
「なに一志、またおねーちゃんに宿題教えてもらうの? 花珠保、一応受験生なんだから、あんまりジャマしちゃだめよ」
 ココアのコップを渡してくれる母親に、
「なんだよ、ジャマって。ジャマなんかしてませんー。むしろ復習の手伝いじゃん。感謝してほしーくらいだ。なあ、ねーちゃん」
「なあねーちゃん、じゃないでしょ。この屁理屈息子っ」
 母親は遠慮手加減なく一志の頬をつまんで引っ張る。一志が大げさに痛い痛いと喚くので、見かねた父親が穏やかに、まあまあ、と母親をなだめる。
 そんな光景を、花珠保はきょとんと見ていた。母親が、
「花珠保、あんたもなにか言ってやっていいのよ。この言いたい放題の弟にっ」
「え、あ、うん」
 花珠保はココアを、一口飲み込んで。
「そっか、一志の宿題見ると、復習になるんだ。そっか、そうだよねえ」
 今、気が付いたように、花珠保はなんだか感心している。
「ほらみろ、暴力ばばあ、ねーちゃん、おれに大感謝じゃんか」
「親に向かってばばあとはなに、ばばあとは! だいたい、あんたは自分に都合よく考えすぎなのっ」
 騒ぎが大きくなって、花珠保は父親と部屋の隅に避難する。
 ビデオの整理をしながら、父親はふと、花珠保を見て、なんとなく、さびしそうにため息した、から。
「お父さん、どうしたの?」
 父親はなんでもないよ、といいたげに、でもなんでもなくはないように、
「おとーさん、花珠保にちゅーしてもらったの、いつが最後だったかなあ、とか、思って」
 いつだっけ? と花珠保と仲良く考える。そこに一志が割って入って、
「そこっ、おやじ、セクハラっ」
 父親はのほほん、と。
「一志にちゅーしてもらったのも、いつだったかなあ」
「気色の悪いことゆーなっ。するわけないだろっ」
「あら、してたわよ」
 なんなら証拠見せようか? と母親が一本のビデオテープを手に取る。
「見る?」
「見るかっ!」
 一志は一目散に自分の部屋まで逃げ込んだ。しょうがないなあ、と花珠保は一志のコップを持って、一志の部屋をノックした。
「なんだよっ」
「ココア、いらないの?」
「いるっ。けど」
「けど?」
 ドアを開けた一志は、でも、コップを受け取らずに。
「……ねーちゃんの部屋で、飲む」
「……うん」
「いっとくけど、宿題、やるわけじゃない、から」
「……う、ん」
「ココアより、ねーちゃんが、いー」
 ココアに口をつけるより、先に。相手のくちびるに、口を、つけた。



































** ばれんたいんでー(の前日?) **


「うわ、ほんとに来た」
 一志にいやな顔、というか、なんだか微妙な顔をされて、博則はきょとんと小首を傾げた。
「うん、来た。こんにちはー」
 合宿以来、なんとなく一志と交流のある博則は、なんとなく、一志の家に遊びにきていたときに、なんとなく、花珠保に言われた。
『あ、広田くんだ。こんにちは』
『あ、センパイだ、こんにちは』
『わたし別に広田くんのセンパイじゃないよ?』
『年上なんだからセンパイじゃないですか』
『そっか』
 それもそうだね、と花珠保はそれ以上否定せずに、手にしていたスーパーの買い物袋をがさと揺らした。
『どっか、買い物行ってたんですか? 夕食のおかずですか?』
『ううん。これはバレンタインの……』
『センパイ、彼氏とかいるんですか? おんなじ陸上部ですか? 実は天沢も彼女いますよね? なんかそーゆー噂になってるんですよ、合宿のときから』
 一志は知らん振りをしてテレビを見ている。
 花珠保は一志を見て、
『……ふうん』
『え、本当にいるんですか? センパイ知ってます? てゆーか、いるはいるみたいなんですけど、天沢ちっとも口、割らないんですよ』
 事の真相を探ろうと、博則は台所に入っていく花珠保に着いていく。
『センパイの彼氏はどんな人です? あ、バレンタインのケーキ、焼くんだ。すげ』
 小麦粉すら珍しそうに見る博則に、
『わたし、彼氏なんていないよ?』
『僕もいないです』
『え、彼氏が? 広田くんに?』
『……彼女が、僕に』
『そう、だよね。ちょっとびっくりした』
『僕もびっくりした』
 博則は買い物袋から出てくる生クリームやなにかを、また、珍しそうに見る。これなんだ? 無塩バター? なんだそれ? とバターをまじまじと見続ける。花珠保がなんとなく、その場を離れて、一志の耳を引っ張るのを、なんとなく、見ていた。
『ちょっと、彼女ってなあに』
『妬いてんの?』
『そ……じゃなくって。そんな子がいるなら……っ』
『おれと、もうシないって?』
『そういう話じゃ、なくて』
『んじゃ、なんの話だよ』
 一志は耳を引っ張られたまま、
『どーでもいいじゃん、べっつに、おれとねーちゃんが付き合ってるわけじゃなし』
『あったりまえでしょ、なに言ってるの』
『おれと、ねーちゃんが、コイビトだからやってるわけでもないじゃん。なんだよそれ、キョーダイでコイビトって、あほか。気持ち悪ぃ』
 ひそめた声で。
 ふたりだけで。
 花珠保が、一志の耳を引っ張るのをやめる。
 一志は引っ張られっぱなしで、痛かったことも忘れて、離されたのを惜しむように、
『カノジョって、あれじゃん。ねーちゃんが付けた傷のことじゃん。痛い思いさせられて、なんかそれ広田以外のヤツにも見られてて、テキトーなこと言われてただけじゃん。なに、テキトーなこと言うなって、ほんとのこと言ってまわれってのかよ』
『そんなこと……。って、どうしてそんなに傷、見せてるの? わたしがどれだけ一志の跡、見せないように気を使ってたか知ってる?』
 一志のくちびるが、たどった跡を。
『そんなん、あたりまえじゃん』
『なんでわたしだけ、あたりまえ、なの』
『だって、おれの、ねーちゃんじゃん。おれのじゃん』
 手を広げた、と思ったら、花珠保の両足に抱きついた。抱きつかれて花珠保はしりもちをつく。
 花珠保がしりもちをついた音に、博則が台所から顔を出す。
 一志が花珠保の背中に、おんぶお化けのようにしがみついていた。
『重いっ。重い、重いっ。一志重いっ』
『まだおれのが軽い』
『そんなことないもん』
『そんなことあるね。身長、同じくらいでも体重はねーちゃんのほーが重いじゃん』
 絶対そんなことない、と花珠保は否定しながらも、
『あ、でも、まだ一志、おんぶできそう。ちょっとおんぶしていい?』
『マジ?』
『お姫様だっこもできそう。ちょっとしていい?』
『それはムリだろ』
『えー、やってみないとわかんないよ』
『いや、ムリ。てゆーかいや。やめて。やーめーろー』
 ふたりを、無塩バターを手にした博則はどうコメントしたらわからない顔をしながら、なんとなく、うらやましそうに、
『ほんと、仲、いいよねえ』
 花珠保は背中にしがみついたままの一志を引きずりながら、
『広田くん、おねーちゃんいるっていってたよね? 広田くんのおねーちゃん、広田くんのことお姫様だっこできるかな?』
 博則は即答を避けるように笑ってごまかす。一志が、花珠保の背中から、
『こいつ、おれより頭イッコもでかいんだぞ。こいつをお姫様だっこするねーちゃんてどんなだよ』
『僕が、センパイをお姫様だっこ、ならできそーかなあ』
『ほんと? できそう?』
 興味津々の花珠保に、一志がさらに体重をかけた。
『なんでねーちゃんと広田なんだよっ。そんなんより、ねーちゃん、ケーキとか焼くならさっさと焼けよ。おやつにちょーどいいじゃん』
『どうして? 今日じゃないよ。明日だよ。バレンタインは明日でしょ』
 花珠保は一志の腕をはがして、一志を床に置き去りにする。一志は置き去りにされて大の字になる。博則は大の字の一志を見下ろしながら、
『明日焼く、ってことは、あれ、今日焼いて学校に明日もって行くわけじゃなくて、まさかわざわざ天沢のケーキを焼く、んですか?』
『わざわざってなんだ』
 ケーキはそもそもわざわざ焼くもんだろ、と一志は博則のズボンの裾を引っ張る。引っ張られて、一緒に床に倒れこむのを、花珠保は見下ろして、
『一志のっていうか、お父さんの、だよ。一志、どうせいっぱいチョコもらってくるんだし』
 ねえ、と問いかける。一志は特に否定しない。
『やっぱ、天沢もてるのかー。だと思った。いいなあ』
『広田くんはもらえないの?』
『姉さんとお母さんくらい』
『うわ、つまんねー』
 博則は、すいませんねえと肩をすくめる。あまり残念そうでもないところをみると、あまり、気にしていないのかもしれない。誰か気になる子も、特にいないようだった。
『チョコはともかく、ケーキはいいなあ。焼きたてって、いいなあ』
 天沢いいなあ、と素直に思ったことを口にする。暗にねだっている、わけでもない、けれど。
『広田くん、明日の帰り、暇だったらおいでよ。焼きたてケーキ食べれるよ?』
『いいんですか!?』
 やった、と来る気満々の博則に、一志はまじめな顔をして、
『いや、おまえ、明日はやめといたほーがいいぞ』
『え、なに? 分けてくれないの? 僕にくれたくないほどおいしいの??』
『いや……そーだけど、そーゆーんじゃなくて』
『なに?』
『来ると、さあ』
『来ると?』
『……さくっと落ち込める』
 切実な顔をした一志がなにを言いたかったのか、がわかるのは翌日の話。
「おっまえ、ほんとカノジョいないのかよ。バレンタインに男友達の家来るってどーよ」
 博則は元気よく、おじゃましまーす、とチョコレートケーキを焼くにおいのする家に上がりこみながら、
「天沢だって、家にいるじゃん。男友達、呼んでるじゃん」
「おまえが、勝手に来ただけだろ」
「違うよ、ちゃんとお呼ばれしてきてるんだよ」
 ふたりが台所に入ると、花珠保と、母親が仲良くオーブンの中を覗き込んでいた。その足元に紙袋が置いてある。中身は、どうやらチョコレートの数々、らしい。
「すごいね、あれ、天沢がもらってきたの?」
「おー」
 と答える一志は、不機嫌そう、ではないけれど、どこかすねているように見える。
「なに? あんなにもらっておいてなにが不満?」
「……不満、とゆーか」
「とゆーか?」
「世の不条理さとゆーか、真理とゆーか、見るとこ見てるなっつーか、そこんとこしょーがないーと思わないこともないけど、でも納得もいかない、とゆーか」
「……なに?」
 博則は、花珠保と母親にも挨拶しようとふたりをのぞきこむ。にこやかに振り返った花珠保の足元に、さらに紙袋を発見した。先ほどのものよりずいぶん大きい。
「え、あれもチョコ?」
「そー」
「天沢、の?」
「天沢は天沢でも。おれのじゃない」
 じゃあなに? と博則は小首をかしげる。一志がさらっと、
「ねーちゃんの」
 博則は、首をかしげたまま固まった。
「って、え、チョコ、だよね?」
「そーだよ。なんだかいっつも人気モンなんだよ。おねーさま、とかってチョコもらってくんだよ。なんだよ、女子校かっつーのっ。走ってりゃすげーし、ほんとすげーし、ほんとすげーけど、おれだってねーちゃんすげーと思うんだけど!」
 があ! と両手をあげて叫んで、それからがっかりして博則の肩にもたれた。
「またっ、また今年も負けたっ」
 一志はさくっと落ち込む。
 博則が吹き出して笑った。
 ちょうど、ケーキが焼きあがった。



































** お買い物 **


 部活が、終わって。着替えをするのに部室に駆け込もうとする一志のシャツを、花珠保がひっぱった。
「一志、今日、友達のところに寄っていったりする?」
「別に。ねーちゃんは?」
「夕飯の買い物、一緒に行く?」
「えー、おれ行かない。いつもんところだろ? おれあそこキライ」
「行かないの? じゃあ牛乳、もうないんだけど買っていかないけどいい?」
「なんでだよっ」
「重いんだもん。牛乳飲んでるの一志だけなんだから、欲しかったら着いてきて荷物もちしてよ」
「まじでー?」
「行くの? 行かないの?」
 別にどっちでもいいけど、という態度を取る花珠保は本当に、どっちでもいいけど、と思っている。一志はふくれっつらで、しぶしぶ、行く、と答える。
 昔からある小さな地元のスーパーは、顔なじみの店員が多い。しかも気楽に声をかけてくる。
「あら花珠保ちゃん、今日もお母さんの帰り、遅いの?」
 野菜コーナーでは天沢家の斜向かいに住むおばさんがパートをしている。
「今日は大根のいいのが入ってるけどどう? 一志ちゃんも一緒だから、ちょっとくらい重くても平気でしょ?」
 おばさんに悪気はない。けれど。一志は花珠保に隠れて不機嫌な顔をする。
「ちょっと一志、隠れてないで挨拶くらいしなさいよ」
「ヤ、だね」
 一志ちゃん呼ばわりされてすねているわけではなくて、ほんとうに不機嫌なのを察して、花珠保は大根をもらって売り場を離れる。
「大根のお味噌汁にする?」
 不機嫌な一志をなだめるわけでも気にするわけでもないまま聞く花珠保に、一志は不機嫌なのを直すつもりもない声で、
「さといも、となんだっけ……イカ、だっけ? と煮たやつがいい」
「さといも、冷凍のでいいかな?」
「いいんじゃないの」
「じゃあ、イカ、売ってたらね」
 イカを買って、牛乳を買って、あとは明日の朝食用のパンを買っておやつのスナック菓子を買い込んで、レジを済ませる。
 一志は教科書も詰め込んであるスポーツバッグを肩に引っ掛けて、両手にスーパーの袋を持って、少し、ふに落ちない顔をした。
「……はいはい」
 花珠保も同じようにスポーツバッグを肩に引っ掛けている。空いていた両手の、右手を出すと。スナック菓子とパンの詰まった軽い袋を渡される。
 ふたりとも片手が空いて。
 こんな、いつ、どこで、知ってるひととすれ違うかもしれない場所で。
 手、なんか繋いだりしないけれど。それでも、いつでも繋げる、のが、いいように。並んで歩く。
「……ねーちゃん」
「なに?」
「おれ、機嫌悪いんだけど」
「そーだねえ」
「うち、帰ったら、ねーちゃんからちゅーして」
 一志の、今は本当はもう機嫌が悪いのもおさまって、ただなんとなくすねているだけの視線に、花珠保は笑い出したくなるのを我慢して、
「そう……だねえ」
 やった、と口の中でこっそり呟いた一志がこっそり口元で笑ったのを見て、花珠保もこっそり笑った。
 家に帰って、手を、繋いでもいい距離になったら手を繋いで。
 そうしたら……。



































** 毛布 **


 夕食を終えた一志が、居間でテレビを見ながらいきおいよくくしゃみをした。花珠保は食事の片づけを済ませると、なんとなく、部屋から毛布を持ってきて一志にかける。
「暖房、ききが悪いね」
「てか、なんで今年はコタツ出さないんだよ」
「コタツあると一志が遅くまで寝こけちゃって風邪ひくからでしょ」
「おれのせーかよ」
 一志は毛布に包まって、
「なんか、家の中で避難民みたい……」
 ごそごそとテレビの見やすいように寝転がる。
「一志、そのテレビ見てるの? ドラマに変えていい?」
「いーけど。なんだっけ? 先週どこで終わったっけ?」
「確か……」
 花珠保は先週のあらすじを思い出しながらソファーに座り込む。洗い物をするのにまくっていた袖を元にもどす花珠保を見て、一志はずるずると毛布をひきずって花珠保の隣に座り込んだ。
「ねーちゃん、毛布半分いる?」
「……くれるなら」
 ごそごそと一緒に毛布を被って。ふと、花珠保が、なにかちょっとふに落ちないように、
「って、これわたしの毛布だし」
「だから殊勝に、いる? って聞いたじゃん」
「いるいる」
「なんだよ、そんな引っ張んなよっ」
「一志、足、冷たいっ。そんなくっつかないでよ」
「くっついたほうが暖かいじゃん」
「……もー」
 ごそ、と毛布を引き寄せて。
 一志は遠慮なく花珠保にもたれる。
「一志、重い」
「おれ楽だもーん」
 そのまましばらく、一志は居心地がよさそうにテレビを見ていた。
 そのまましばらく、花珠保は居心地が悪そうにテレビを見ていた。
「一志……」
 やっと、花珠保が一志を呼ぶと。
 やっと、一志は花珠保に呼ばれたように。期待してテレビから目を離した。
 きっと、もっとくっついたほうが暖かい、から。
 ごそごそとふたりで毛布をかけなおして、花珠保が一志の頬を撫でた。一志は頬を撫でた花珠保の手のひらにじゃれるように唇を押し付けて、舐めて、甘く噛んだ。
 今日のドラマの内容はきっと、よく覚えていない。



































** 一緒 **


 夢を見て、目が覚めた。
 そのまま、ぼうっと眠れないでいると、部屋をノックする音と一緒に一志が、顔を出した。
「一志……、どうしたの?」
「それ、こっちのせりふなんだけど」
「どうして?」
 きょとん、とする花珠保に、一志はくちびるを尖らせて。部屋に、入り込んで、花珠保のベッドに入り込む。
「一志……?」
 花珠保に触れようと思って入り込んだわけではなさそうで、花珠保に背を向けて横になってあくびをする。
「ねーちゃん、なんでこんな時間に起きてんの?」
 眠そうな、声で。
「なんでって……。一志も、なんで起きてるの?」
「なんとなく、ねーちゃんが起きてる気配がしたから」
「気配、とかそんなものわかるの?」
「だから、なんとなくっ」
「ふーん」
 花珠保も、一志に背を向けて、小さなあくびをした。
「なんかね、変な夢、見た、かも」
「夢?」
「んー、いつまで、このままかなあ、って」
 花珠保と、一志が。
 いつまで。
「……そんなん、おれ、知らない」
「だよ、ね」
 花珠保も、知らない。
 知らないことは、わかるときに、知ればいい。
「明日も朝練あるんだから、一志、ちゃんと起きなさいよ?」
「うぃーっす」
 ふたりであくびをして、背中を合わせて、一緒に眠った。



































** うわさばなし **


合宿中の他校の男子生徒その1「見た? 天沢のアレ。背中のキズ」
博則「どっかで引っ掛けたとか言ってたけど?」
その1「どーやってあんなとこひっかけんだよ。しかも合宿中に増えてんじゃん」
その2「カノジョも合宿来てんだろ」
その1「同じ学校のやつかな」
博則「天沢と同じ学校って、天沢のお姉さんだけじゃないの?」
その2「んじゃ他校か」
一志「ねーちゃんがなんだって?」
その2「おまえのカノジョ誰だよ、ってはなし」
一志「ねーちゃんなわけないだろ」
その2「そりゃそんなわけないだろ」
博則「天沢、好きな子いるの?」
一志「あー?」
博則「誰? 誰? どこの学校の子?」
一志「別に、好きとかじゃなくてもセックスはできるじゃん」
博則「好きじゃないの!?」
一志「……さあ?」
その1「女子が聞いたら人気、地、這いそうだなあ。合宿一番のチビのくせに」
一志「チビ言うな」
その2「ところでおまえのおねーちゃん、かわいくね?」
一志「…………そう?」
その1「弟がけっこーフセイジツとか知らなそー」
その2「意外に知ってんの? どうなの?」
一志「怒られるの怖いから内緒ってことで」
博則「天沢、お姉さん怖いの?」
一志「すっげえ怖い」
その1「マジで?」
一志「マジで。世界で一番ねーちゃんが怖い。ねーちゃんがおれの世界、だから、ほんと、怖い、んだよ」



































** 三年後 **


 帰宅して階段を上がると、一志が自分の部屋のドアに持たれて花珠保を待っていた。
「かわいーカッコして、デートだった?」
「……お母さんから、聞いてるくせに」
「聞いた。けど、ねーちゃんにも確認」
「なんの?」
「上手く、ごまかせたかなと思って」
「……なにを?」
「わかってるくせに」
 一志は自分の部屋のドアを開ける。花珠保を花珠保の部屋に返さないように、道を塞ぐように立ったまま。
「ねーちゃんが初エッチって、そんなこと言わなくても相手はもちろんそーだと思ってるトコ、ぜんぜん初めてじゃないコト、どーやってごまかした?」
「……は、じめてのデートで、そんなことしない、もん」
「高三にもなって初デート」
「……悪い?」
「別に」
「どうせ、一志とは違うもん」
「うん、まー、ねーちゃんマジメでガードかたそーだし。あれだよな。ねーちゃん誘った男、勇者だよな」
「はいはい、一志はもてて、やり放題なんでしょ、どうせ」
「うん、まー、でも」
「なによ」
「ねーちゃんが一番イイけど」
「……バカなことばっかり」
「……うん」
 一志は、壁を、蹴って。
「うん……バカなこと、言った」
 蹴った壁に、もたれて、
「おれ、ねーちゃん以外となんてヤってないよ」
「え?」
「……気持ち悪いし」
 一志は右手を花珠保に伸ばす。その右手がどこを触りたいのかわかって、花珠保は息を飲んだ。
「かず、し……?」
「今日、ねーちゃん誘ったヤツ、勇者じゃん。多分、みんなねーちゃん誘いたいのに誘えなさそーな雰囲気に誘えなくって、そこんとこ勇気を出して一番乗りした勇者じゃん。ほかのヤツら、しまった、とか思ってんじゃん」
 一志は、花珠保の頬に触る。
 花珠保は一志の手のひらの感触にかたく目を閉じた。
「ねーちゃんは? おれ以外ともすんの? できるの? ちょっと触っただけで濡れちゃうよーなからだ、初めてのフリして他の男に触らせるの? いっつもふつーにやってるコト、その男にもする? そんなん、ヒかれんのがオチじゃん?」
「いつも……?」
「舐めて」
 開いた目の前にいるのは、いつも一志で。一志の目の前にいつもいるのは花珠保、で。
 頬に触れた指が、頬を引っかいたのが合図、で。
 花珠保は頬に触れていた一志の手を掴んで繋いで、一志の部屋に入った。手を引いたのは花珠保、で。
 一志がドアを蹴飛ばして閉める。そうして立ったままの一志の前に膝をつくと、花珠保は一志のベルトをはずした。
 すぐに。
 すぐに、ふたりして慣れた行為に没頭した。



































** 二度目 **


 まだこの頃は、全部が慣れない手つきだった。
 お互いに触れることには慣れていた。多分、ほかの誰に触れるより慣れていた、けれど。
「や、だっ。痛……痛いっ。一志っ」
「は? なんで? だってこの間入ったじゃん」
「やっ……。知らない、けど。痛い、から……っ」
「そ、んな力っ、入れたらっ……」
「だっ、て」
 相手のどこにどんなふうに触れていればいいのか、いつか慣れる日がくることの想像もつかなくて、今にいっぱいいっぱいで。
「……あ、あ!」
 痛みに表情を歪める花珠保から、一志は一度からだを離した。繋がりかけていた場所が離れてそれぞれになって、一志は押し倒している花珠保を見下ろした。
「この間、より、痛そう……。痛いの?」
「……痛い、より、怖い、かも」
「……なんで?」
「だ、って……」
 だって、と花珠保は言いにくそうに奥歯を噛んだ。
 痛かったのをまだからだが覚えていて、今度もあんなふうに痛いんじゃないのかと思うと怖くて。
 でも、それでも。
「……ねーちゃん?」
「うん……」
 頬を触ってきた手を掴んだ。掴んだ手に爪を立てて、それで痛がる一志の顔を見ながら一志を受け入れた。痛みばかりを気にしていたけれど、掴んだ手とか、近付いた唇が重なって、まだ、まだ慣れないようにおそるおそる入り込んでくる舌とか、に気を取られているうちにまた奥まで受け入れて。
「……っ、は」
 今まで聞いたことのなかった一志の声を聞く。
「あ、……んっ!」
 今まで、聞いたことのなかった花珠保の声を聞く。
 両親が帰ってくるまでの時間に追い立てられるように、今日は、この間はふたりでたどり着けなかった場所にふたりでたどり着く。
 この間は花珠保のベッドの上だった。今日は一志のベッドの上だった。
「……ぁ……あ!」
 この間は聞くことのなかった花珠保の最後の悲鳴に抱きしめられて。
 一志も花珠保を抱きしめた。



































** 実の姉弟じゃない!? **


一志「実はねーちゃんが実の姉じゃないんだよ。おれが、ねーちゃんちーさいとき橋の下で拾ってきた……」
花珠保「……いつの小さいときに、一志がわたしを拾ってこられるの」
一志「なんだよ、じゃーねーちゃんがおれ、拾ってきたのかよ」
花珠保「拾ってないし、拾われてないし。でも……わたし、一志が赤の他人とかだったら、いや、だな」
一志「あー、おれもおれも」
花珠保「ノリ軽いけど……ほんとにぃ?」
一志「ほんとほんと。ぜったいヤってないくらい、やだな。気持ち悪ぃ」
花珠保「それ、普通は逆だと思うけど」
一志「別に、普通じゃなくていいし。そもそもねーちゃんがねーちゃんだからこーゆーことになってんだし、おれがおれだから、こーゆーことになってんだし」