〜 2 〜



 彼にとってわたしは冗談抜きで、正真正銘初対面のようだった。
 世の中に似てる人間が三人はいると聞いたことがないこともないけれど。これは、ちょっと違う。あの……わたしの立場は?
『忘れないでね』
 そう言ったのは確かに彼で、だからわたしは忘れなかったのに。好きだったのあの人のことすら、なんだかもうどうでもよくなってきちゃったくらい、ちゃんと忘れてなかったのに。
 これは、なにごと。
「いいの? ハンカチ、汚れちゃうよ」
 消え入りそうな声と、力のない表情。
 ……まあとにかく、わたしの個人的意見はおいといて、大丈夫なのかなこの人。ハンカチのことなんかより、自分の心配したほうがいいような気がするんだけど。お腹すいてるのかな。
「ハンカチはあげます、けど……。あのっ」
 彼のからだが地面に倒れ込む。
 ゆらっ、って。貧血みたいに。わたしにもたれかかってきた。顔色は白よりもっと透明。蒼い、白。
「大丈夫だから、少し、このまま……で」
 かすれた声で言われた。
 このままじっとしてればいいってことかな? それだけでいいならお安い御用だけど……。
「ごめんね。暑い中ひっついちゃって」
「いいえっ、ぜんぜん大丈夫です。体力には自信ありますからっ」
「そう? 頼もしいね」
「あ、あははは……」
 通学路のなんでもないその道に座り込んだ彼に、わたしは肩を貸す。いまいちシチュエーションがおかしいような気もしないでもないけれど。
 不思議な時間だった。
 いろんなこと全部、辻つまが合わないのに。どうでもいいような気分になる。
 季節が、あの季節まで、まるで逆行するようで。このままでいたい気分になった。けど……。
「あ、あの……」
 声をかけずにはいられなくなってきた。
 苦しそうな呼吸。
 この暑い空気の中、急激に冷めていくような、彼の体温。
 あ、あの、救急車って119だっけ? 199だっけ? なんだったっけ? それとも110番!? そんなこと知らないのか常識だぞって言われても、混乱してて……っ。
「大丈夫、だから……」
 どこがどこがどこが!?
 そんなこと、わたしにだってわかるくらい、大丈夫そうにはさっぱり見えないけどっ。
「……兄貴?」
 ええい、誰が兄貴だっ。
 かけられた声にがばりと振り向く。……彼と、同じ顔の人が立っていた。


 兄弟。だと言われた。彼と、あの人。
 ……そうか、そのパターンは考えなかったこともないけれど……。は? 兄貴?
「二つ、年上?」
 ちょっと、驚いた。いえ、深い意味はないけれど、ただ、なんとなく。
 彼はわたしと同じ年かもしくは年下なんじゃないかと、思ってた。あんまり線の細い人で、大きくなくて、世間のことなんて知らなくて、あの日の服装のせいじゃないけど、全部、中身まで真っ白に見えたから。
 どこが悪いの?
 なにが悪いの?
 なんとなく聞けないまま。
 彼にとっては、なぜか、ただの通りすがりの人でしかなかった私が、彼を訪ねたりも出来ないまま。
 このまま時間が過ぎていくかと思っていた……のに。
 呼び止められたのは、学校の廊下。
 彼の弟。
「なに?」
 わたしの態度は、自然だったと思う。ついこの間まで、好きだったけれど。姿を見かけるだけで、その日一日が特別になったりしたけれど。
 差し出されたのは、一枚のハンカチ。新品みたいだった。
「兄貴から。渡してくれって頼まれて」
「……いらない」
 なんでか、気が付いたらもう即行で答えてて、うわあ嫌な子だなわたしって、って思ったけれど、この人にわたしのことをどう思われようと、けっこうどうでもよかった。相手のほうも、わりとどうでもいいみたいだった。
「ふーん、そっか」
 なんて適当に答えてくれた。それでそのハンカチをいったいどうするんだろうと見ていたら。
「だったら、あんたから返しといて」
 とにかく無理矢理にわたしに押しつけると、もう廊下の向こうだった。
 ……そっけない人だったんだなあ。なんて、そんなことは知ってたけど。あらためて、そんなふうに思ってみた。
 新品のハンカチには彼の住所が添えられていた。

      ◇

 訪ねた彼は……なんて言うか、変な人だった……よーな気がする。
 あなたはどうしてわたしのことを覚えないんだ、というわたしにしてみればかなり当然で真剣な質問に、こんなふう答えてくれた。
「なんでだろうね?」
 のほほんとした人だった。
「でも、あれ? 君が好きなのって、弟のほうだよね?」
 妙に勘のいい人でもあった。なんでそんなことがわかるんだ。
「だからそれは、あなたに似てたからで……」
「僕とは初対面なのにねえ」
「……あなたはそうらしいですけど。わたしは違うんですけど」
「そうなんだ?」
「そうなんですっ」
 みょ、妙にリズムの掴みにくい人でもあった。
 がっくりきたわたしの肩を彼が叩く。
「でも、あのね、僕、死ぬから。親しくなって情がわいちゃうと、悲しくなるよ」
 平気で、そんなことも言える人だった。
「だから、お見舞いなら、これきりでいいから。もう来なくていいよ」
「い、や、で、す、っ」
 びっくりした彼の顔は、ちょっと見ものだったと思う。ざまあみろ。少しだけ、そんな気分になった。わたしだけびっくりさせられっぱなしでたまるか。ってなもんだったけれど、その後、彼は笑ってた。


 そうして、もうすぐあの季節がやってくる、そんなある日のこと。
「君の夢を見たよ」
 今日の彼は少し、楽しそうだった。そしていつもより少し、元気そうに見えた。
 天気良好。青天白雲。彼は窓から入り込んでくる風を、気持ち良さそうに受けている。
「君は中学に上がったばかりみたいだったよ。ぴかぴかの制服を着てたからね」
 夢の話なんかを楽しそうにする彼は、夏に出会った頃の、今より元気だった頃のままに見えたけれど。
「公園の曲り角で、君が僕にぶつかるんだよ。でも君は気にしないで駆けていっちゃったなあ。遅刻しそうだったんだね」
 ここは白い部屋。その中で、彼はますます白く見えた。数ヶ月前までは家にいたのに、今は、病院の中に閉じ込められてる。
 みるみる痩せていって、見ていられないと彼の家族は口々に言う。
「そうそう、それでね。夢の中だからかなあ、僕、けっこう元気なんだ。ちゃんと健康体だしね。ああ、そう言えば……」
 おかしいんだ、聞いてよ。と彼に手招きされて、わたしはベットの横の椅子に座り込んだ。持ってきた花を花瓶に挿してた途中だけど、まあ、いいか。
「なあに?」
「夢の中の季節は春でね、それであの公園の角だからね、僕もいっしょになって真っ白な服装してるんだよ」
「………白?」
 なにかが、頭の中を過った。


 もう三日、彼は続けてその夢を見ていた。
 その夢の中でわたしは成長していく。
 中学一年。二年。三年。
 今日も夢を見たなら、その中でわたしは高校生になっているはずだった。
「今日は、夢の中の君と初めて喋ったよ。バスの通学は、大変だね」
 ……それがどんな夢だったのか、わたしは知らないはずだった。高校一年の時のあの季節を、覚えていたわけでもなかった。それでも……。
「……ハンカチとか、出てこなかった……?」
「ハンカチ? うん、そう。いつかの君のハンカチ使わせてもらっちゃった。ああ、そうだ、あれ、返さないとね」
 人懐こそうに笑う彼は、元気に見えた。


『忘れないでね。また、逢えるから』
 この次の夢で、彼はそう言う……はずだった。べつにそれが夢なら夢で、彼は楽しそうだし、かまわないはずだった。
 なのに、ふと思ってしまった。
 その先の夢は? この次の季節は? どうなるの? と。
 彼は、高校三年生になったわたしに会うの? その次は高校を卒業したわたしに会うの? ……永遠に?
 それは、どういう意味なの?
 考えたら、急に、不安になった。眠れなかった。眠れないまま、明け方の電話に飛び起きた。
 そしてわたしは、彼の夢の意味を、知ることになる。彼が元気そうに見えていただけ、ということにも……。
 電話は病院からだった。彼の、弟からだった。
 息を切らして飛び込んだ病室で、彼は、わたしを見つけて、微笑んだ。
「……ほんとうに、いつも、元気だね」
 真っ白い部屋の中。清潔第一。大声厳禁。それにしたって、あんまり聞こえない……彼の声。もう意識なんて、ここにはないみたいだった。
「……ほら、また、逢えたよ」
 ゆらりと、ベットの中から伸ばされた手。お日様の匂いのしない、白い手。
 彼は、夢を見ている。
 彼のせりふはもう夢と混乱していて、わたしを戸惑わせた。なんて答えたらいいのか、全然わからなかった。
 彼の家族は目頭を押さえて俯くのに、わたしは、目をそらすことができなくて……。
 これが、彼の最後の夢になった。
 掴んだ彼の手の体温が、冷めていく。

      ◇

『ありがとう』
 と。死んでしまった彼の横で、同じ顔をした人に、言われた。
 兄貴の傍にいてくれて、ありがとう、と。
 わたしは彼の弟であるその人に、いつかもらった鞄の底に入れたままだった新品のハンカチを返した。
 そうしたら全部が、彼に出会う前に戻ったみたいだった。
 あ……。あのガーゼのハンカチだけが足りない。
 足りないよ。ねえ。彼に出会う前に戻れない。
 ……それでも、気が付くと、彼のいないことが日常になってた。


 そうしてまた、その季節が来る。
 四月の桜を過ぎて、五月。
 わたしは高校三年生になっていた。
 いつもと同じ朝。公園の角。
 視界一杯の白にわたしは立ち止まった。初め、その白の中に彼がいるかと思った。
 いなかったけれど。
 ……この、季節。
 この辺りでは有名な、白いつつじの群れ。
 その枝の先にガーゼのハンカチがくくられていて、手にとって、握り締めた。
 ……わたしのだ。
『返さないとね』
 彼が、そう言っていたハンカチ。
 なんだ……。本当に、返されちゃった。
 これをわたしに返して、それで彼はなにを伝えたかったんだろう。どうしよう。わからない。
 魔法のような出来事は、これで終わりなんだろうか。そういう意味に、取れということなんだろうか。
 それもいいけど、そりゃないよ、という気もした。
 ここにあったわたしのハンカチ。
 ここにあった、彼の最後の……本当に最後の夢。彼の夢だけがここにあって、わたしだけが去年に置き去りで、そんなの、ない。
「―――」
 名前を呼ばれたような気がして、振り返った。
 誰も、いない。
 それでも……声が……。
 声がした。
「なあに……?」
 彼の声。彼の声なのに、よく聞こえない。
 風だけが音を鳴らして、つつじの花を揺らしていく。わたしの手から、ハンカチを攫っていく。まるで本当は、返したくなんかなかったみたいに……。
「――――」
 わたしを呼ぶ、彼の声。
 彼の、声。
「ほら、また逢えたよ」
 彼の……姿……。


 これがこの年の、この、季節。

〜 おわり 〜