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 白いつつじの花が咲き誇る、真白の季節。
 中学一年の、その季節だった。
 徒歩二十分の登校途中。どおん、と肩がぶつかった。
 それだけ。
 わたしにとっての、それが一番最初の、その季節。


 その次の季節と、また次のその季節。同じ公園の角で肩をぶつける。
 そして、高校一年のその季節。バス停までは中学の時と同じ通学路。
同じ公園の角。
 わたしはまた、そこで肩をぶつけた。
「痛ーい……っ」
 今年にかぎってぶつかった衝撃が強かったのは、バスに乗り遅れると思って走っていたから。
 全力疾走、猪突猛進。ああ、今年もこの季節だ、そう思ったときにはひっじょうに派手に尻もちをついていた。
 ちょっと……けっこう、痛い。尾骨が……。
「……大丈夫?」
 低い声。でも澄んだ声。
「あ……へ、平気です」
 あんまり平気じゃないくせに、咄嗟だとついそう答えてしまう自分が悲しい。こんなとき日本人だなあってあらためて思うけど……まあそんなことはどうでもいいんだけど……。
 わたしがぶつかったのは、わたしと同じ歳くらいの男の子だった。
 彼は手を差し出してくれる。掴まっていいよ、というのはわかるんだけど、なぜか彼はあらぬほうに視線を向けていて、わたしはやっと自分のスカートが派手に捲れ上がっていることに気が付いた。
 おお………は、恥ずかしい奴だなあわたしは。女ならそういうことは一番最初に気にしろよ。ってなもんで、
「どうも……お見苦しいものを」
 わけのわからない謝罪を述べつつスカートを直して手を取った。
 立ち上がって汚れを払って、わたしはあらためて手を貸してくれたことにお礼を言う。
「あの、ありがとう、です」
「どういたしまして」
 にっこり笑ってくれた彼は、どこかものすごく儚く見えた。そもそも、真っ白なTシャツと真っ白なジーパン、てのが一番の原因ではないかと思ったわけで。
 細いくせに身長はわたしよりも頭一つくらい高い。
 日に焼けていない肌は、これでも色白が自慢のわたしよりも白くて、なのに髪は真っ黒で、生まれたままの姿で成長した、そんな感じだった。
 失礼ながら一言で言わせてもらうと、現実離れ? そう、そんな感じ。
 幽霊みたいな、幻みたいな、本当に、そこにいるのかも怪しくて、わたしは無意識に手を伸ばしていた。もしかしたら擦り抜けちゃうんじゃないか……そんなふうに思いながら……。
「なに?」
 彼が聞き返してくる。わたしの手は、もちろん通り抜けるなんてことはないまま、彼のお腹の体温を感じていた。
「あああっ、ごめんなさい、ついっ」
 なにが「つい」なのかと突っ込まれないように祈りながら手を引っ込める。変態女子高生朝っぱらから痴漢行為、毎日の生活の何が不満だったのか!? なんていう見出しの雑誌のページが頭の中でチラついてあせった。違うんだっ、そうじゃないんだっ。
 だいたい、わたしと同じ歳くらいなのにどうして制服着てないんだ、この彼は。彼のほうが絶対に怪しいっ。
「ねえ、あの……」
「はいっ、なんでしょうっ」
 つい姿勢を正してしまった。彼はまた、例の儚そうな微笑みをたたえながら、わたしに鞄を渡してくれた。ああそうか、転んだときに放り出したままだったっけ。
「かさねがさね、すみません」
 しかも汚れた鞄をわざわざ自分のハンカチで拭いてくれたりして、なんていい人なんだろう。その若さの男の子が真っ白の、しかもガーゼのハンカチ持って歩いてるなんて珍しいですね、なんて突っ込んだりはしませんとも、ええ。
 彼がハンカチを適当にジーパンのポケットに突っ込んだのを見てわたしは少し安心した。なんだ、普通の男の子じゃん。って。じゃあ普通じゃないならなんだ、って聞かれても困るんだけれど……。
「いつも元気だね」
「はいっ、元気です。体力には自信あります」
「そうなんだ」
「はい、そうなんです」
 女の子のくせに体力に自信があること自慢してどうするんだって気が付いたときにはもう遅かった。
 彼は楽しそうに笑っていた。
 わたしは姿勢を正した直立不動のまま、さてどうしたものかと自分に問うている最中で。で、ところで……。
「いつも?」
 気になって聞き返す。いつもって、いつのいつもなんだろう。
「いつもだよ」
 彼は言う。
 それは答えなんでしょうか?
 わたしが首を傾げていると、彼はわたしの腕時計を指差した。
「学校の時間、大丈夫なの?」
「え? ああああああっっっ!」
 バスバスバスっ。大丈夫じゃない、ぜんぜんっ。
 見ると先のバス停にバスがちょうどやってくるところで、わたしは駆け出していた。
「またね」
 彼の声が聞こえて振り返ったけれど、そこにはもう、彼の姿はなかった。
 それが、高校一年のその季節だった。

      ◇

『いつもだよ』
 彼は確かにそう言った。
 でも、次の日も、また次の日も。それから毎日毎日わたしは気を付けて公園の角を行くけれど、彼の姿はなかった。
『またね』
 それはいつ?
 やがてその季節が過ぎていく。
 わたしの頭の中には彼のイメージだけが残って、そのうちにわたしは彼に似た人を好きになった。片想いだったけど、なかなか満足な年が過ぎていった。

      ◇

 片想いに夢中で、すっかりあの白い彼のことを忘れた頃、またその季節はやってきた。
 変わらない朝の時間。公園の角。ふと視界に入ってきた白つつじを見てわたしは思う。
 ああ、この季節だ。と。
 そうして、よそ見をしていて、ぶつかる。
 彼に。
「あ……」
 先に声を出したのはわたしだった。
 最初、片思いのあの人と間違えた。
 ええっ、何でこんなところにいるかな、不意討ちじゃん、それはないよ。って。でもすぐに違うことに気が付く。あの人じゃない。この人は……。
「今日も、元気だね」
 この人は……誰?
 ちょうど一年前にぶつかった彼のことを、わたしはもう憶えていなかった。彼は、今、わたしの不注意でぶつかった、ただそれだけの人だった。「ぶつかってごめんなさい」そう言おうとしたわたしよりも先に彼が話しかけてきて、わたしはなんて答えるべきなのか。こんな……見も知らない人に。
 真っ白なTシャツ。真っ白なジーパン。白い肌に黒い髪。
「僕を、憶えてない?」
 笑顔で聞く彼の顔は、悲しそうだった。彼がわたしの好きなあの人とダブって、わたしの心は少し痛んだ。
 そんな顔をしないで。
「忘れてしまったんだね」
「……あの、ごめんなさい……」
 心の底から申し訳ない気持ちで謝っていた。彼はわたしの好きなあの人に本当に良く似ていて、そんな顔をされると辛かった。だってわたしはあの人の彼女でもなんでもなかったから、どうやって慰めたらいいのかわからない。そして彼は、あの人ではないのだ。
 どうしてこの彼は、わたしのことを知っているんだろう。
「誰か、好きな人ができたんだね?」
 彼が言う。
 儚い微笑み。
 胸が、苦しくなるくらい……。
 でも、思い出せない。この人は誰? こんなにも、あの人に似ているこの人は……。
「その彼は、僕よりもいい男かな」
 冗談っぽく彼が言う。
「あの……」
 わたしは答えられない。
 だって……。
 似てるから。
 あの人はあなたほど白い肌ではないけれど。あの人はあなたほど黒い髪でもないけれど。あの人は、あなたほど華奢もないけれど。
 それとも……。
 わたしははっとして、込み上がってきた思いを飲み込んだ。
 それとも、あの人があなたに似ているの……?
「あなたは……誰?」
 聞いてどうするのか、わたしにはわからなかった。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「だって……っ」
 どうしてって言われても、そう聞くのは当たり前のことだと思ったんだけど……。
 バスが来る。
 わたしは彼の横を通り過ぎてバスに向かう。通り過ぎて……。
 腕を掴まれる。その感触に、ふと何かを思い出しかける。
「……あなた、誰?」
 もう一度聞いた。
 彼は微笑む。
 彼の腕に力が入って、引き寄せられた。そのまま、瞳を閉じる暇もなく、彼の唇がわたしの唇に触れた。
「今度は忘れないで。また、逢えるから」
 わたしは声も出なかった。あんまり突然のことで、でもどこか、突然でもないことのようにも思えていて。
 唇が……。
 初めてわたしの唇に触れた彼の唇が、言葉を紡ぐ。
「忘れないで」
 バスの音。
 重なる声。
 ふっと腕が軽くなる。
 彼の姿は、もうどこにもなかった。
 これが、高校二年の、その季節。


 眠たい授業にぐらりと頭が重力に引っ張られて、わたしははっと顔を上げた。三分くらい、寝てたかな……。
 ふと眺めた運動場では、彼によく似たあの人が、笛の合図とともに駆け出してハードルを飛び越えるところだった。
 ……唇に、そっと触れてみる。あの日の彼の感触が、まだ残っていた。
『忘れないで』
 ……忘れないよ。
 忘れないけれど。
 あなたは、誰ですか?
 どうしてわたしを知ってるんですか?
 公園の角には、だあれも、いなくて。
 ああ、もうこの季節も終わりだな。視界一杯に入り込んでくる枯れかけたつつじが、わたしをそんなふうに思わせるだけだった。

      ◇

 は?
 ……さぞや間抜けな表情だったに違いない。
 その季節から数ヶ月後のとある暑い日。
 彼に、出逢った。でも。
 うそ……。
 もしかしたらこの人は彼じゃなくて、片想いのあの人なんじゃないのか、って、漠然と思ったりもした。
 まさか、逢えるなんて思ってなかったから。あの公園の角以外の場所で逢うなんて、思ってなかったから。
 学校の帰り道。普通に歩いていたら、彼のほうからぶつかってきたから。
「あああああああの、お久しぶりです。その後、お元気でしょうかっ」
 ぶつかった彼はその勢いで側の壁にもぶつかって、手の甲を少し擦りむく。
 わたしはスカートのポケットから出したハンカチで彼の手の甲を縛った。消毒しないままで傷口にハンカチが張り付いたら痛いかなとか、なんでよりによってこの日の持ち合わせがわざわざダサダサのガーゼのハンカチかな、とか、……深く考えまい。
 ところで、彼はわたしを変な顔で見ていた。
「……君、誰?」
 そんなことを言われてしまって。だから、わたしはこういう反応をするしかなかった。
「……は?」

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