10時になると、男手がトラックと一緒にやってきた。
「ちーっす」
見慣れた顔が気軽に挨拶してくる。
「ちぃーっす」
私も真似すると、宮澤さん、トラックの荷台から身軽に飛び降りた。天気よくてよかったなあ、って言いながら、
「式の当日もこれくらい晴れてたらブラボーだなあ。ガーデンパーティーなんだろ?」
「あんまり晴れても、紫外線が……」
「お、古都子ちゃんもいつのまにかそんなこと考える年なんだなあ」
「年、とかじゃなくて、女、なんで、一応」
「女……てか、オレにはいつまでたっても、女の子、だけどなあ」
宮澤さん、に、って笑う。
兄さんと同級生の宮澤さん、私のこと小学生の頃から知ってる。一見スポーツマンな感じだけど、けっこう知能派。兄さんと、反対。兄さんは見た目、頭良さそうだけど体、動かしてる方が得意。
学生の頃からそうだったように、今日も指示を出すの、宮澤さんだった。兄さんは指示されるまま荷物の整理して、トラックに運び込む。……兄さんの引越しなんだけど。テキパキしてるの宮澤さんで。
「宮澤さんの引越しみたいだね」
「まあ、勝手知ったる、ってね」
「だよね」
私、ふと、思い出したことに笑った。
「あ、なに? やーらしい笑い方だなあ」
「だぁって」
「なんだよ、なに思い出してんの」
「えー、宮澤さん、中学生のとき、兄さんの部屋にえっち本、隠してたなあ、とか」
「ああ……それね」
宮澤さん、がっくりする。
うん、中学生のとき、だった。兄さん、部屋にいないときで、私はいたんだけど。宮澤さん『武司には内緒』とか言って。
「そーなんだよ。オレ、古都子ちゃんも内緒だよ、って言っとかなくてさあ」
私には内緒じゃなかったから、それ、引っ張り出したらえっち本で、母さんに見つかって、
「いやあ、あんときのおばさん、迫力あったわ……」
兄さんも一緒に叱られてた。とばっちり。
「古都子ちゃんに見つかってなきゃあ、あそこまで怒られなかったんだろうけどなあ」
「そういうもんですか?」
「そういうもんでしょ」
宮澤さん、少し遠い目する。
「そんな古都子ちゃんもすっかり大きくなって。あの頃はエロ本の意味も知らない子供だったのに」
首に引っ掛けてたタオルで涙、拭く真似する。
「宮澤さん……オヤジ」
「あ、痛っ」
オヤジ呼ばわりに、宮澤さん胸、撃たれて、死んだ真似する。兄さんの部屋、散らかってるんだけど、ごろんと大の字になって、天井、眺める。
天井眺めて、私のこと見て、また、天井を見る。
私も天井、見た。
見て、私が思い出したこと、宮澤さんも知ってるみたいだった。
……みたい、じゃなくて、知ってる、んだろうな。
「ねえ」
宮澤さんの声。
でも、わざとみたいに、宮澤さん、汗拭く素振りでタオルで顔、隠して。
「ねえ、古都子ちゃん」
タオルの向こうのくぐもった声、笑っちゃうくらいマジメで。
……笑えなかったけど。
「なに?」
「あのさあ」
タオルの向こうで、もごもごと、なにかを言いたいような言いたくないような。
「宮澤さん?」
顔、隠してるけど、覗き込むと宮澤さん、私がどんな顔してるのか、見なくてもわかってるみたいに笑った。笑った声、なんか、溜め息みたいに、笑った。
笑う声が、そのまま言った。
「ミヤザワサン、ってさ、いつから、だっけ?」
「え?」
「オレのこと、ミヤくんて呼んでたよね。んで、武司がタケちゃん」
「……懐かしいことを……」
なんとなく手持ち無沙汰なの、段ボール箱、組み立てながら。
「だって、中学入ったとき、宮澤さん、センパイだったし」
「あー。そういえば、中学に入った頃からだっけ」
「上下関係、厳しかったんだもん。宮澤さん、けっこう人気あったし」
「うそ、マジ?」
「生徒会長までやったくせにとぼける? 私、ミヤくんとかって呼んでて、生意気って呼び出されたことあるんだよ」
「うわあ、恐いね」
宮澤さん、他人事みたいに言う。
まあ、他人事、だけど。でも、気がない感じは、他人事だから、というばかりじゃなくて。
「うん、恐かったんだよ。だからそれからしばらくは宮澤センパイで、その後は宮澤さん、なの」
いまさらミヤくん、もない気がしたから。
「でも友達のレベルが変わったわけじゃないよ。ずっと大好きだよ」
「お、ほんと?」
「ほんとほんと」
「そっか」
相変わらずどうでもいい感じがするのは、多分、本当にどうでもいいから。そんなこと、どうでもいいから。
「でも、……そっか、なんだ」
宮澤さん、ひとり言みたいに。
「早い物勝ち、だったのか」
ひとり言、みたいに。
「だよね?」
私に、聞いてるの?
「なにが、早い者勝ち?」
「古都子ちゃん、がね」
「……私?」
「オレ、古都子ちゃんのこと好きだったんだよ」
「初耳だね」
「初めて言ったし」
「……今は?」
「今は彼女が大好き」
「だよね」
言ってるそばから宮澤さんのケータイ鳴るの、多分、らぶらぶの彼女からのメールに違いない。ほんと、らぶらぶだよねえ、って、私、ちゃんと笑ってた?
組み立てた段ボール睨んで、手の平握り締めて、そんなので笑えてるわけないのに、私は笑ってるつもりだった。
聞かなくてもいいこと、聞いてた。
「早い者勝ち、って?」
宮澤さん、誰に、先、越されたの?
宮澤さん、タオルの隙間から目だけ、出した。
「古都子ちゃん、中学上がって、オレのことセンパイって呼んで、でも、武司のことは、タケちゃん、だったよね」
私、宮澤さんを凝視した。
宮澤さん、私、見て、
「古都子ちゃんは、古都子ちゃんの中学の卒業式の日まで、武司をタケちゃんて呼んでたよね」
卒業式の……。
宮澤さんのその目。
私を怒らせたいのか悲しませたいのか、どうしたいのか、わからない。わからないから探りたくて、私、瞬きもしない。
目をそらしたのは宮澤さんだった。また、天井、見て、
「これが、古都子ちゃんの世界?」
天井……。
私が、あのとき、見てた、セカイ。
中学の卒業式の日だった。
「狭いね」
部屋の天井、部屋と同じ大きさの天井。
真四角。
白い、壁紙。
『コトコ』
あのときの、兄さんの声がどこからか聞こえた気がして、私は耳を塞いだ。
宮澤さん、起き上がって、耳、塞ぐ私の手、掴んだ。
……掴んだ、から。
あのときの兄さんみたいに、掴んだから。
「イヤ!」
私、悲鳴あげた。
宮澤さん、間近から覗き込んできて、すぐ傍で、
「本当にイヤなの?」
宮澤さんが、泣きそうだった。
お兄ちゃんが妹、見る表情で。
「オレがしとけばよかったね」
兄さんよりも、ずっと、お兄ちゃん、みたいに。
「オレだったら、古都子ちゃんはこのセカイから出られたのにね」
ごめんね、と謝るその口調は、
「ごめん、ね」
本当に悪いと、思ってる?
心の底からの謝罪を意味する、ごめんね、なの?
違う。違うよね。
だって、それ、私に謝ってない。
自分に謝って、自分の罪をごまかそうとしてるだけ。
「ごめんね」
私が、許す、と言ったら、それで兄さんも宮澤さんも救われる。
……じゃあ、私は?
私は、なにに、誰に、許さればいい?
「……ずるい!」
自分たちばっかりが救われようとしてる。
「……うん」
「ずるい!」
私が許すのを、待ってる。
あのときから、私は、兄さんとふたりだけのセカイにいる。
逃げ出せない。
だって……!
『ごめん、古都子』
兄さんの声。
あのとき、私を抱き締めた、兄さんの、声。
「宮澤さんとだったら、私、逃げ出せたのに!」
「うん」
宮澤さん、なにもかも知ってる顔で、でも、今さら、なにも変えられないことを、知ってる顔で。
「……ミヤくんだったら、私、逃げ出せたのに……っ」
「……うん」
私をなだめるように、頷くばかり。
あのとき、兄さんの腕の中で見上げてた天井。
……あのときの、セカイ。
そのセカイの中で、小さな、セカイの中で。
私と、兄さんと、同じ血からできたふたりが、罪を犯した。
……違う。
侵したのは、兄さん。
犯したのは、兄さん。
セカイを……同じ血が流れてるから、決して交わることのないセカイを、無理矢理重ねた。
交わったのは体液。
重ねたのは、肌。
「古都子ちゃん……」
宮澤さんが呼んだ私は、泣いていた。
「……兄さんだけ、逃げようとしてる」
この、セカイから。
ふたりのセカイから。
「許さない」
あのときの、兄さんの吐息も囁きも、熱い肌も。
「絶対、許さない」
兄さんに抱かれたのは、私。
私の足を無理矢理開いて押し入ってきたのは兄さん。
「許さない!」
私は兄さんを見上げた。
私と、宮澤さんだけだった部屋に戻って来た兄さんは、ドアノブに手をかけたまま、私を、見下ろしていた。