もう10年も前。
覚えてる。中学校の、卒業式の日だった。
……兄さんは、高校二年生だった。
強く、掴まれて。
掴まれて、爪あとの残った手首、とか。体中に残ったうっ血の痕、とか。シーツを汚した血の色、とか。
それから。
兄さんの、声、とか。謝罪、とか。
ごめん、とか、ごめん、とか。ごめん、とか。ごめん、の合間に漏れた吐息、とか。ごめんの合間に流れた涙とか。
全部、覚えてる。
覚えてるんだよ?
だから、許さない。……許さない、許さない。許さない!
ねえ、兄さん。
私は兄さんを一生許さない。
……私が兄さんを許さないセカイで、ねえ、兄さんはどうやって生きていく?
◇
目覚しが鳴る前に飛び起きる。
そんなときは夢を見ていて、そして、見ていた夢の内容はいつも決まって同じだった。
……同じ……。
ぞっとした首筋を撫でて、ベットから出る。首筋は、髪がまとわりつくほど汗をかいてる。首筋から、背中まで。汗、流れて、目を、閉じた。
「……っ」
のど、詰まる。
引っかかったのは、声。
……どんな声?
パソコンの脇にドライヤーと一緒に置いてある鏡に映った自分から目、そらして。のどに引っかかってたもの、飲み込んだ。
……声……。
いつもの夢が、また、今朝の夢。
私は、開けようとして掴んだカーテンを、握り締めた。うつむいたまま、大きく息を吸い込む。カーテンにひたいを、押し付けた。
……やだ、足りない。
目を、閉じる。
かたく、閉じる。
……足りない。
……酸素?
違う。
自分の手、また、首筋なぞった。もう片方の手はカーテン、握り締めたまま。
「……ん」
のどに、引っかかっる声。
誰の、声……?
ふと頭に浮かんだ顔、振り払って。
声。
私の、声。
手、胸元をたどって、ふくらみから先端をつまむ、手。
誰の、手?
「……あ」
のどに声、引っかけながら、今、心の中で誰を呼んだ?
……うそ、違う。いや。
ソンナ名前、呼ンデナイ。
誰も、呼んでない。自分で、してるだけ。
手は、胸元からおへその横、なぞって。漏れる声、止まらなくて。
「あ……ん」
中指、下着の中、滑り込む。
「…………っ」
カーテン、握り締めても、だめ、立っていられない。
座り込んで、背中丸めて、指、入れた。
どこに? どこだと、思う?
指、なんかじゃ……。
中指……足りない。
ねえ、指なんかじゃ、足りないよ……。
ぬめりが溢れて出てくる。指の間、流れて。
『足りない? もっと、奥? それとも、もっと太いのがいい?』
誰かの、声。
いや、違う、誰もいない。
『いるよ』
……いないっ。
指、我慢できなくて、動かす。水音が指、伝わって……。
「……ぁんっ……」
自分の指、奥まで入れて、なぞって、首筋、汗が流れる。
「……ん、んっっ」
無心に繰り返し、繰り返して。
もう、ちょっと。あとちょっとで、イける……。
『まだだよ』
指、抜いてた。
「………あ、いや」
自分で抜いたのに、
「いやあ……」
『いや? 違うよね?』
「……ん」
『欲しいんだよね?』
……私の、じゃ、ない声に。
『あげるよ』
支配、される。
『ちゃんとあげる。イかせてあげる』
優しい声。
低い、声。
耳元から、ぞっとする。
「ああ……っ!」
指が、なぞる。
冷えた指先のぬめりが、冷たく、ぬる、と熱い場所に滑り込む。足りない太さを動きで補うみたいに、
『そうだよ』
声は( )の、声。
指は、私の指。
指示するのは、声。
『もっと、動かして。そう、もっと足を開いて。僕によく見せて。隠さないで』
「……んっ、あ、でも」
『でも、なあに? 恥ずかしい? 今さら?』
くすくすと、笑うから。
あ……。ぞっとする。
その声でイきそう。
『イっちゃうの? 僕の声で? 女の子って、そういう即物的じゃないとこ、いいよね。……うん、もっと動いて。腰、振って。声、聞かせて』
「……あ、あ、もう……っ」
もう……イかせて。
『いいよ』
「……いい?」
『ああ、それ、かわいいね』
「…………え?」
『いい? って聞くの、かわいい。そうやって腰、振ってる姿は淫らなのにね。……イって。ほら、いいよ』
「う……んっ」
許しをもらって、やっと、
「あ、……あ、あん……。んっ…………あぁ…っ」
カーテンを、握り締めてた。
「……古都子……」
現実で、私の名前、呼んだ声には気付いてなかった。
「……んっ」
私、息、整えるのに飲み込んで、やっとカーテンから手、離して。
人の気配に振り向いた。
部屋のドア、閉まってた。ちゃんと閉まってて、でも、閉まってはいたけれど、目覚めたときには部屋の中、私だけだったのに、今はもうひとり、いた。
「古都子……」
後ろ手にドア、閉めて。
私、見て、呆然として立ってる。
「……兄さん」
私の、兄さん。
「古都子、おまえ……」
「……な、に?」
私、息、まだ整わないままで、兄さんを見上げる。
手、まだ、下着の中。でも、慌てて隠したりしない。
兄さんは、ゆら、と瞳を揺らして、一度ドア、振り返った。誰か来ないか心配してる。父さんとか母さんとか。
見張りみたいに、ドアの前、立ったままで。
「……古都子」
名前だけ、呼ぶ。
ゆら、と揺れるのは声。眼差し。
ざわ、とざわめくのは……。
……私、カーテン掴んで立ち上がった。
下着から出した手、指先、濡れてて。
兄さんがひどくショックを受けたみたいに凝視したの、おかしかった。
兄さんは、私がなにをしてたのかわかってる。ちゃんと、わかってる。
私、立ち上がって、目線、近付くと、兄さんはますます眼差しを揺らした。
そんな姿がおかしくて、私、声に出して笑った。
「兄さんだって、するでしょ?」
濡れたままの指で、ぬるり、と兄さんの頬、触った。兄さんは、後ろ、ドアで、逃げられない、逃げたそうに、したけど。
「兄さんだってするくせに」
逃げたいの? なにから? 私から? それとも……。
私の指、兄さんの唇、なぞった。兄さん、唇、かたく閉じるのこじ開けて、指、突っ込んだ。歯、閉じてて、指、入らない。
私、おかしくておかしくて、笑うしかなかった。
「おっかしい。兄さん、必死だね」
心の底から笑った。
けど、なんか、急に気分、冷めて。
目をそらしたのは、私だった。
「古都子」
兄さんは、そればっかり。ただ呼ぶばっかり。
こんな私を見て、でも、もう、動揺してるわけでもなかった。私の気分が冷めたのと一緒に、眼差し、揺らさなくなった。
呆れてもいない、怒ってもない、悲しんでもない。
古都子、でもなく、ことこ、でもなく、コトコ、と。
カタカナで、カタカタ、ただ文字を言ってるだけ。「コ」と「ト」と「コ」。ただの、文字。私の名前に聞こえない。だから、呼ばれても返事、しない。
この部屋に兄さんなんていないみたいにして、部屋、出ようとして、手、掴まれた。
私、自分の手だけ、見る。
兄さん、シャツの袖口で私の手、拭いた。丁寧に、爪の間まで。
私は手、だけしか見てないから、兄さんの表情、知らない。……別に、どうでもいいし。
拭き終って、兄さんの手、私から離れて。私、部屋から出た。
私、自分の部屋から出たのに、私の部屋、兄さんが残ったままで。閉めたドア、振り返る。
……ただのドア。ドア、だから、ここと、向こうを隔てるものだから、こんなに近くても、なにも見えない。
ドアに、なんとなく、触る。触るの、わかったみたいに、コン、と向こう側で音、した。
ドアを、叩いた音。
……ドアの厚さって、何センチ?
この音は、何センチ向こうの音?
目覚し時計が今頃、ピロピロと鳴り出した。
ドアの向こうの兄さんの気配、すぐ、そこにあった気配。
ふっと遠ざかって、目覚し、止まった。